《証しのページ》
  
 
神様がどんなに素晴らしいお方であるかをお知らせするページです。
 その神様の行なってくださった素晴らしいみわざをお伝えして、神様に栄光がありますように!

《信仰の歩み》

 先ず、誰でも人生を振り返ると《自伝小説》1冊は出来ると云われるように、また聖書の御言葉のとおり、人の人生とは患難が伴うのは元より波乱万丈なものです。しかし、我々クリスチャンは主に出会ってからはノン・クリスチャンより歓びは天から多く受けますが、悲しみに関しては、一生を捉えると神様は結局大差なく平等に与える方だと思っています。ですから、私はこれまで悲しみに出会う度にそう自分を慰めています。

 今回、主から折角半生を振り返る機会を与えられたので、年間聖句《主に在って豊かな実を結ぼう》に今回の証しの《結び》を導かれるように 神様に最初に出会った40年以上も前を久々に思い出し、そこには『偶然』からの出来事ではなく『大いなる恵みによる導き』を授かった事実を証しいたします。

 私は今から40年前、19歳の時新座のT先生の処で受洗しました。きっかけは高校生の時。ある時学校で友人に、実家の母と姉にずっと疎まれて、幼いころから自宅ではずっと一人ぼっちでいると愚痴った相手がなんと!エホバの証人2世でした。その彼女が、「近くの教会に行ってイエス様に出会って欲しい」と教会探しに尽力してくれました。彼女は新宿外山町に住んでいましたが、放課後埼玉の志木まで足を運んでくれました。このことがきっかけで教会に通うようになりイエス様と出会い受洗へと導かれました。

 その後、社会人となり結婚を意識する年齢になると教会からは(クリスチャン以外の人との結婚相手はNO!)と強く祈るように指導を受けていると、出会った男性にはそう伝えていました。ある時ひとりの男性が私の話に耳を傾け、(一緒に教会へ行ってみたい。)と・・・。K.Mさんでした。そして、そこで主に直接出会ったMさんも T先生の所で受洗しました。やがて、私とMさんの結婚生活のスタートが初めて耳にする土地:三郷市でした。教会探しを先ずしました。ですが、三郷は見ず知らずの地ではなかったのです。T先生が日曜日メッセージを取り次ぎに向かっていたのが三郷だったのです。以前参加したことがあるからとH兄姉の家庭集会へ行くことを勧めてくれた新座の教会員姉の助言がありました。そして、勇気を出して姉が教えてくれた連絡先へ電話をしてみました。そして、今に至ります。

 不思議ですが、通うようになりしばらくすると三郷の教会の方々との交流が蘇りました。N姉が受洗のために新座まで来た礼拝の風景は今も脳裏にしっかりと憶えています。あの時埼玉の凄くすごく離れた遠い所から受洗の為にわざわざ訪れたと捉えていたNさんたちの神様への熱い想いに驚きと尊敬の念が強く湧き証しを聞いていた記憶が今でも鮮明です。結局、結婚には反対され新座の教会をでましたが、神様の祝福の故に新座の教会と繋がらずとも、現在こうしてこの地でそのままW、R両先生のメッセージを受けています。

 現在私たちは子育てを終え、主人の子供を含めて皆、税金の払える大人へと成長し、娘は受洗。しかし、子育の結果の一片を垣間見るのは、結局ず~と後のことです。子育てから人生の教訓を学びました。生きていると大波小波の一大事が悲しみを伴いやって来たと捉えていたこともその渦中にいる時はどう対処することが自身の平安の為によいかと考える余裕などなく、ただただ途方に暮れたままやり過ごした生き方もありましたが、こうして振り返ってみると子供たちもやはり神様の恵みの上にいました。また、この機会に私の足りないところも神様からしめされました。まず、両親と夫への感謝です。裁判沙汰となり絶縁している母と兄弟がいたからこそ、私のチャレンジ精神が芽生えました。そして両親と夫のお蔭で私は今までお金の苦労はせずに生きてくる事が出来ました。しかし、決して曲げない頑固さは、時として特に夫は痛感しているでしょう。私の頑固さは、嫌気が芽生えた人との関わりが面倒になるとすぐに気持ちを切り替え記憶からも削除してしまいます。これから神様によってその交流関係を変えて下さい。と祈りました。

 最後に、まだまだ主に在ってこれからも信仰の歓びの実が結ばれると期待して人生を楽しみたいと願っています。

 2019. 9.22 H.M姉

《救いの証し》

 私はF県K市の片田舎の貧しい農家に生まれました。兄弟は4人です。母も父もお金に苦労した人で、貧しさからか、心の救いを創価学会や立正佼成会などの宗教に頼り、子どもである私も様々な集会に連れて行かれ、青年部などに名前を連ねました。それでも経済的に楽になれるはずはなく、苦労が絶えませんでした。「苦労するのは信心が弱いからだ。貧しいのは信仰が弱いからだ。もっと働いてお布施を出しなさい。」と親戚の方々よりよく言われ、頭から離れることはなく、「早く家を出たい。」というのが、その後の上京する理由の一つだったと思います。そのために看護師の資格を取りたいという不純な動機だったのです。

 上京して結婚し、度重なる夫の浮気にも、「私が悪い。仕事などしているから。子どもが可哀相だ。我慢しろ。」などの声から心が病んでしまい、子どもを道連れに、「死にたい。」と迷いながらも、今の職場で働いている時も、体は動いているが、心は何処に居るか分からず、自分を見失い、お酒に手を出したりしていました。

 そんな時、同僚のSさんが声を掛けてくださり、Sさんを通じてST姉、そして教会、そして神様に出会うことになりました。

 「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」(マタイ11:28)

 「求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。」(マタイ7:7)

 いつも兄弟姉妹に助けられ、励まされては涙し、賛美しては涙し慰められました。夫には捨てられましたが、たくさんの信仰の兄姉と、何よりも私と子どもたちを守ってくださる、「やまめを祝福してくださる」とのみことばを信じ、この教会から離れずにいます。お金がなかったり、学校のことで悩んだりした時も、イエス様にぼやいたり、空に向かい手を伸ばして祈ったり・・・。不登校だった上の娘のYも、姉に依存していた下の娘のSも成人しましたが、まだ二人に信仰の種は撒けずにいます。

 

 イエス様にまだ愚痴を言いながら、頼り切りの毎日ですが、今までのさまざまな恵みのなか約20年経ちます。私は信仰の薄い者で、自分の力で歩んでいる頑固者です。そんな私ですが、これからもみことばを求め、頑固な心が溶け砕かれるよう祈り歩んで行きたいと思います。

                                                         (2019.3.24  M.M)

《神様が開いて下さった2つの扉》​

 

 神さまが私に開いてくださった2つの扉をお話します。

 

 まず、私は同じ教会メンバーである、N夫婦の長女として生まれ育ちました。4つ上には兄がいます。母の胎内にいた頃からこの教会のメンバーです。

私が小さい頃はこの教会にも子どもたちがたくさんいて、教会には遊びに来ている感覚でした。教会は嫌いではなかったけど、教会に行っている事、知られたくありませんでした。他の子とは違う行動をしなければいけないことが嫌でした。なので、教会での自分と日常生活の自分は使い分けていたように思います。

 

 私は3歳から、ヴァイオリンを習い始めます。学年が上がるにつれ、練習が嫌で、大して練習もしない日々だったのですが、中学校までは続けなさいと、辞める許可が下りず、嫌々続けていました。このヴァイオリンというものも珍しい習い事だった為、教会にいくことと同じ様に、『何で自分は他の子と違うんだろう』と孤独を覚えるものでもありました。

 

 嫌々続けていたヴァイオリンですが、師匠が亡くなった際に『死ぬまでヴァイオリンを弾いているって凄いな』と思ったのと、受験で親と揉めている兄を見て『嫌な勉強するくらいなら人よりも得意な音楽の学校がいいかも』と思い、音楽の学校を目指すようになりました。しかし、音楽学校を目指すには遅いスタートでした。好き、ちょっと得意、という理由だけでは甘い世界でした。音楽が得意な子たちが全国から集まってくる学校だからです。

ヴァイオリンの先生や両親のサポートもあって、必死に受験に向けて準備していたのですが、最後に出来る事は神さまに頼る事でした。小さい頃から教会の子どもとして育った私にとって、神様は特別な存在ではなく、存在も信じていたけれども、聖書の中の世界に存在するだけの神さまではなく、いまも生きて私の為にも働かれてくださる事を受験を通して体験したのでした。この時に、私の人生に必要不可欠な神さまであると信じ、洗礼を受けました。

 これが私の第1の開かれた音楽家の扉です。

 

 音楽の道が開かれ、音楽大学付属高校と音楽大学で学びました。高価な楽器も、私大の音大の学費も両親が工面してくれました。よく『お金は湧いて出てこないのよ!』と怒られたものです…。切磋琢磨する良い仲間にも出会い、卒業後も音楽を通して色々な経験を積ませてもらいました。そして、25歳の時に夫と結婚します。もちろん細かな悩みはありましたが、いわゆる、順風満帆でした。

 

 そんな調子の良い私に、神さまは新たな試練を与えました。結婚が早かった事もあり、結婚してしばらくは子どもの事は後回しでした。しかし結婚からしばらく経ち、女性的には年齢も気になり始めた頃、夫に相談すると、まだいいんじゃない?と[Wait 待て]をいわれます。やりたい!と思ったらすぐにでも行動しないと気が済まない性格の私にとって、[待て] という状態は辛く、なによりも辛かったのは、夫とは仲は良いけど、核心の部分ですれ違っていたという事です。子どもを持たない夫婦・家族の形もあるけれど、わたしにはそれは考えられませんでした。夫は責任感から慎重だったのだと思います。しばらくして、夫も子どもの事を考えてくれるようになり、妊活するなら専門家に頼った方が早い?だろうと病院に通うようになります。が様々な検査の結果、不妊に繋がる原因が分かり『自然妊娠は難しいでしょう』と宣告されます。

 

 私は、治療に対しては何も抵抗はありませんでした。むしろ、やっと前に進める、そう思ったのです。虫歯が出来て歯が痛いのに、自然に治るのを待ちますか?治療が必要ならするしかない、ただそれだけでした。

 

 不妊治療には様々な意見や考え方があると思います。私は医者や研究者でも、牧師や聖書研究家でもありません。ただ、経験した立場から言える事は

『命は人間の手では操作出来ない』ということです。たしかに、薬でホルモンをコントロールし、人の手が加わった受精卵を胎内に戻します。

でも、私の場合、グレードも良い卵だし、私の身体の状態も良いのに、なかなか着床しませんでした。飲み薬と注射でホルモンをコントロールしているので、着床しなかったら、身体から薬を抜くために治療を何ヶ月かお休みしなければいけません。やっと進んだのに、またここでも[待て]です。お金と時間とを費やして、一瞬で終わってしまうのです。不妊治療は、ここまでやったから結果がでる、という物ではなく、いつまで続くのか、終わりはくるのか、こないのか。真っ暗な出口の見えないトンネルを彷徨い続ける様です。本当にこの頃の私は、同年代のネクスト(教会の「次世代の会」の通称)のみんなの前や、夫の前でも泣いてばかりでした。

 

※「見よ。子どもたちは主の賜物、胎の実は報酬である…」

 

 神さまは子どもを祝福として与えてくださると言っているのに、なぜ私には与えてくれないのか、神さまを責めてばかりでした。ネクストのみんなは『御心ならば胎が開かれるように、親になる事をのぞんでいる』といつも祈ってくれました。

 

 「与えてください。」と一方的だった祈りが次第に『神さまの御心が叶うように。胎が開かれるその時が来るように』と神さまの時を待つ祈りが出来るようにようになりました。そして、3回目の移植の前に金子先生ご夫婦が手をおいて祈ってくださいました。なんか分からないけど、今回は大丈夫な気がする。そんな予感も的中し、現在、自由奔放な娘に手を焼く現在にいたります。

 

 正直、治療をする時に、まだ若い方だし、不妊原因さえ突破すればすぐに妊娠出来ると思っていました。でも神さまはそうせず、私を忍耐をもって強くなるようにしてくださいました。そして何よりも、欲しいものを不自由なく手に入れてきて傲慢になっていた私を、自分の力ではどうにもならない状態まで弱いものとする事で、やっぱり神さまが私の人生を共に歩んでくださらないとダメなんだ、と教えてくださいました。

 

 親になること、これが第2の開かれた扉です。

 

 私の一生はすでに神さまの書に書き記されています。産まれるのに時があり…と聖書でもありますが、私が生まれた“時”も偶然でなく、すべてにおいて神さまのご計画です。もしひと昔前の時代に私が生まれていたとしたら、治療法もなく、子どもを持たない人生だったかもしれない。もし、結婚してすぐに子どもを授かっていたら、両親も仕事していたので、子どもを預けられず、音楽を続けられていなかったかもしれない。偶然のようですが、備えてくださったのが神さまだから、いま完璧の環境が与えられています。

 神さまが開いてくださった2つの扉、その先に続いている 道 をいま、つまずかずに歩き続けることが出来ています。

 

 神さまの書には、これからの私がどのようになって欲しいと書いているのか、分かりませんが、私は夫の救いが、《先の扉》だと思っています。扉が開かれて、その先の 道 を夫と共に歩く事が出来るよう祈っていきたいと思っています。

 

※詩篇127-3

(2018.12.9 E.I.)

 

 

 

 

 

 

献身の証し

 私は、牧師の家庭に生まれ育ちながらも、ずっと暗闇の中で生きてきました。子供の頃から吃音症で心の負担が大きく、高校生の時には過食症、鬱病となり学校を中退、何よりもいつも心が寂しくて満たされなくて、暗く不安定で虚しい生活を送ってきました。

 しかし、神様のあわれみによって、私はクリスチャンとして生きなくてはならないと気付き、2015年4月、この教会に戻ってきました。病気の症状は変わらず、交わりも辛かったけれど、神様が少しずつ成長させて下さり、一年後の2016年4月、洗礼を受けることが出来ました。それから2年間の信仰生活の中で、三位一体なる神様がいつも私を助け導き、飢え渇きを与え、そして変えて下さいました。

 昨年から神学校について現実的に考え始めて、人と関わることが怖い私は通信制の学びを検討していたのですが、本当にこれで良いのかと納得出来ずにいました。もっと生きた神様を知りたい、主に応答する生きた信仰を持ちたい、御霊に満たされた人になりたいという思いで、以前母から教えてもらっていた北海道のCFNJ聖書学院のホームページを開きました。授業の内容に魅力を感じる一方で、同世代の人達が朝から晩まで訓練の時を共にする学院生活に対して、「私には無理。ずっと病気で、普通の健全な20代じゃない、こだわりも強い私は皆と同じになんかなれないし、自分を壊さないとそこには行けない。」と思いました。この時の私は、献身するということ、信仰に、御言葉に立つということが分からなくて、信仰生活が自分の感情、状態に大きく影響されていました。

 聖書通読の中で、イザヤ43:5 「恐れるな。わたしがあなたとともにいるからだ。」

 この御言葉が与えられても受け取ることが出来なくて、一ヶ月間うつ状態で悩み続けました。前向きになれない自分を責めて、苦しんでいました。も

っと楽に通える学校も検討し直しましたが導きを感じず、そんな時に、「皆と同じじゃなくていい、強くなくてもいい、弱くて何も出来ないこの私のままで、神様のところへ、導かれるところへ飛び込んでいく、それが献身だ。」と、心が変えられました。アブラハムのように主に応答する信仰、私もそうありたいと思い、その喜びや期待のような気持ちが私の中に生まれました。

 5月末、私には此処しかないという思いと不安の中、御言葉を握って北海道へと体験入学に向かいました。4日間の滞在で、何度も何度ももう帰りたいと思いましたが、最終日に神様は恵みの雨を降り注いで下さいました。学院の姉妹が、このように言ってくれたのです。

 「飢え渇いて御言葉を食べていることはちゃんを、太陽が照らしていて、神様が『安心して前進しなさい。』と語っているよ。」

 嬉しくて嬉しくて、私は喜びと平安に満たされ、帰りのバスの中で踊り歌いたくなるほどでした。私は、CFNJ聖書学院に、学びに行くのではなく、主に応答するため、従うために行くのだと思います。人の中で大変さを覚えても、どれだけ吃っても、そこに神様がおられ、私ではなく神様が完全に働いて下さる。怖いし不安だけれど、私が感じたことのない愛や喜び、平安、考えもしないような主の素晴らしいもので満たして下さると信じ、大胆に主に期待していこうと思います。この人生は主のためにあります。全てを主に委ねます。私の全てを大胆に力強く用いて下さる主に感謝します。

                                                   

   (K.K. 2018.08.19)

 

 

 

 

 

「まさか」を益にされる神様の恵み

 

 私が神様とどのように出会い、信仰を持つに至ったかを話したいと思います。

 人生には「まさか」のことが起こりますが、私にもその思いもよらなかった「まさか」の出来事が2つ起こりました。最初の「まさか」は主人が経営していた小さな会社が倒産しました。ちょうど上の娘が4年生、下の娘が2年生の時でした。突然のことで非常に驚きましたが、悲しみに浸っている暇もなく、当時八潮に住んでおりましたが、マイホームを手放し、6畳一間と3畳一間の小さな貸家に移りました。その頃、下の娘が教会の日曜学校に行っていました。私が聖書を初めて手に取ったのは、日曜学校の野外礼拝に、CSの先生から誘いを受け、参加したことがきっかけでした。私はそれまで専業主婦でしたが、すぐに仕事を見つけ、保育園に勤め始めておりました。忙しい毎日でしたが、これから先我が家はどうなるのか?いろいろ心配は尽きませんでした。そんな時の聖書が語る神様のみことばがどんどん心に響き、私は夢中で聖書を読みました。いつも共にいる、守る、助ける、耐えられないほどの試練に合わせることはさせない、試練とともに脱出の道も備えてくださる。聖書の語るさまざまなみことばが私の心に深く語りかけてくれました。

 2年後、ようやく小さな貸家から三郷団地に転居できました。そして、本間さん宅の家庭集会に導かれ、今に至っています。私は神様のおっしゃる罪や、自分が罪人であること、十字架の恵みのことも分かっておりましたが、なかなか洗礼を受ける決心がつきませんでした。その頃の我が家は、団地を購入した時のローン、倒産時の借金が2カ所ありましたので、洗礼を受けて教会員になっても、きちんと教会員としての責任を果たせるか、また主人に什一献金、礼拝献金のことを相談できる状況ではありませんでした。ひとり思い迷いながら聖書を読んでおりましたが、マラキ3章10節の「わたしをためしてみよ。あふれるばかりの祝福をあなたに注ぐかどうかをためしてみよ。大丈夫、困らせることはない。わたしが守る。」のみことばが私に迫り、今思い出すと、あの時の背中に触れて押し出すような感触を感じたのは聖霊様だったと思います。そのようなことがあり、また神様が私を引き上げてくださっていることもよく分かり、私は今から30年前の10月に信仰の決心をし、新座でウッド先生から洗礼を受けました。

 それから30数年が経ちましたが、振り返ってみれば、神様は私に約束された通りの祝福を与え続けてくれております。あまりかまってあげられなかった子供たちも曲がらずに自立出来たことも神様の憐みのほかありません。私も神様から職場を与えていただき、主人と二人三脚で働き続けました。そして、すべての負債は7~8年前に全て終わりました。神様は私を良く知り、その人に応じた恵みを与え、祝福してくださるのですね。私は仕事が好きでした。やりがいもあり、楽しみであり、今74歳を過ぎましたが、働かせていただいています。このことも、神様がマラキ3章で約束されたことを私に与え続けており、神様の御用のために必要な献金の恵みは本当であると実体験しています。

 あともうひとつの「まさか」の出来事は、64歳の時に乳癌が見つかったことでした。この時程、神様が私と共にいて、手術までのさまざまなことに神様が介入してくださっていることが手にとるように分かり、感謝でした。

 最後に主人の話をしたいと思います。主人は私が教会に行くことをひどく嫌っていた時期があり、私は教会をしばらく休みました。そんな主人でしたが、今はずいぶん変わりました。教会の話も嫌がりません。ある日、自分たちの葬式のスタイルのことを話していた折、主人に「浄土真宗でやるのでしょ。」と尋ねると、返事をしないので、「キリスト教式でやる?」と冗談交じりで話すと、「そんなことをしたら、天国泥棒じゃない?」と言うので、「天国泥棒しちゃえば。」と話しました。主人がそんなことを言ったのに私はびっくりしてしまい、その先の救いのことは話すことは出来ませんでしたが、少しずつ変わっていることが分かり、うれしく思ったものでした。今思えば、あの「まさか」のことがあったからこそ、私は神様と出会ったので、「まさか」のことに感謝しています。神様はまわりから見れば大変なことも益に変えてくださる方であることも分かり、重ね重ね感謝しています。

 

 そして最後に、我が家はまだ家族が救われておりませんので、真剣に祈り続けたいと思っております。今後ともお祈りよろしくお願いいたします。

   

                                                          (M.H. 2017.12.17)

≪救いの証し≫ 

「放蕩息子、父の許に帰る。」

 

1.父との確執

 私は1952年3月、東京の板橋で、二人姉弟の長男として生まれました。私の脳裏には、幼い頃、何故か家の母の姿よりも父の姿の方が多く思い出されるのです。それはどうしてかと考えると、母は幼少時に患った小児麻痺のために体が不自由だったこと、また、母の母親(祖母)が片親で長唄の師匠をし、母の世話は内弟子任せで、普通ならば母親から家事を習うところを、それも叶わずに父と結婚したため、結婚後も父が母に代わって台所に立つことが多かったためではなかろうかと思う。ただここで母の名誉のために弁護しておくと、私が物心ついた頃には、買い物、料理、掃除や洗濯など、私たちの身の回りのことは、母なりにきちんとしていたことを付け加えておきたいと思います。

 こういう環境で私たち姉弟は育ち、一見すると面倒見の良い父親と、体は不自由だが精一杯働く母親の下でそれなりに幸せな時代を送ったように思えるかもしれないが、実際はそうではなく、心休まる時のない嵐のような家庭であった。というのは、父はお酒が入らなければ良かったが、一旦お酒が入ると、それも何かがあると、止まるところなく飲み続け、母や私たち姉弟に手を上げ、一晩中形相を変えて大声を出し、果ては潰れて寝てしまうか、朝まで飲み続け、結局仕事にも行かずに、後始末は母や私たちが行なうというような家庭であった。また、余りに荒れ狂うと、小さい私たち姉弟は縁の下に隠れたり、母共々に隣の家に匿ってもらったりと、隣近所に頭の上がらない生活を送っていた。

そういう中で子供時代を過ごしたので、私は早く父の許を離れることだけを考えるようになり、中学を出て、折角入った高専も3年で中退し(このことも父にはさらに面白くないこととなり、父との確執が深まった。)、幾つかのアルバイトの後、18歳で経師屋に住込みで働き始めました。しかし、それは1年しか続かず、家に戻って呻吟する中、活路を求めて19歳で自衛隊に入隊した。そして、2年1任期を終え、60万円ほどの退職金と貯金40万円、合わせて100万円ほどのお金を元手に、入隊した後に夢が与えられたカナダに、表向きは英語を学ぶという理由で、1973年9月、1年間のオープンチケットを持って羽田を旅立ったのです。

 

2.異端との出会い

 初めての海外旅行であったが、無事に目的地であったカナダのトロントに着いた。当時、カナダは移住者に対して門戸が比較的緩く、観光ビザで入国しても、長期滞在をすれば永住権を取得することが出来るという話があり、それを狙ってカナダに渡る人たちが結構居た。またトロントはカナダ第一の都市で、そのためには都合の良い働き口が比較的見つかり易い場所だったため、あわよくば私もそんなことをしながら暮らすことが出来るのではないかと、都合よく考えたわけです。私にはただ日本を長く離れることが出来ればいいという程度の思いしかなかった。

 トロントに着いて先ずしたことは、部屋探しと語学学校への登録手続きで、実際には語学は日常会話には困らない程度の自信はあったので、学校に行かなければならない絶対の必要はなかったが、人との交わりや退屈しのぎに行くことにし、移住者対象の無料の語学学校に入学をさせてもらった。そんなある日、街の交差点近くで、人々に冊子を配っている若者たちの姿を見かけた。彼らは道路を往来する人たちとは違い、何かしら嬉々としている様子で、一体彼らは何なのだろうと彼らの差し出す冊子を受け取って読んでみると、興味深く神様のことについて書いてあり、ページの終わりに「Children of God」と言う彼らのグループ名と、連絡先が印刷されていた。私は暫く部屋の机の引き出しの中にしまっておいたが、どうにも気になって連絡すると、週末にパーティーがあるのを知り、そこに訪れた。彼らに笑顔とハグで迎えられ、楽しい時を過ごした。その後も、私は同年齢の若者たちとの交わりを求めて毎週のように通い、1ヶ月も過ぎる頃になると、彼らの誘いもあり、借りていた部屋を引き払い、彼らが共同生活をしている家(「コロニー」と呼ばれている。)に住むことになった。

 ここで、彼らのことに触れておく。当時私は知らなかったが、彼らはキリスト教の異端で、1968年、アメリカ、カルフォルニア州ハンチントンビーチのコーヒーハウスから、David Brandt Bergにより、社会からドロップアウトした若者たちを集め、真の神の共同体を作るという名目で活動を始めたグループです。元々、David Bergはアリゾナ州内の正統的教会の牧師であったが、31才の時、属していた団体の分裂騒動で、彼は既成教会に嫌気がさし、その団体を出て、家族と一緒にハンチントンビーチに移り、ちょうど当時活発だったジーザス・ムーブメント(カルフォルニア州コスタメサにあるカルバリー・チャペルはその中で成長して行った教会の一つ)に似せて若者たちを集めていた。ただ、彼らは異端に共通しているように、Bergは自分を唯一の神の代弁者とし、彼に従う者たちを「神の家族」として共同生活の中で社会から隔離させ、唯一社会との接点は、私が街角で見かけた金銭を得る目的の冊子伝道だけであった。私は以前からコミューン生活や禁欲的な献身的(?)生活に憧れていたので、真正な聖書信仰はなかったが、見かけのライフスタイルに惹かれ、彼らと共に冊子伝道に明け暮れました。彼らとの暮らしは延べ8カ月に及び、その間、モントリオール、国境を越えてニューヨーク州のトロイへと移り、トロイでは彼らの冊子印刷所でカメラと現像の仕事をした。そして、1974年6月、当時すでに日本にもコロニーがあったので、そこに行くという理由で彼らの下を出た。彼らと暮らす中で彼らが異端だという認識はなかったが、正統でもないという意識はいつも働いていて、完全に傾倒し切らなかったことは神様の守りであったと言える。今、主の守りに感謝するばかりです。また、非常に都合の良い話だが、何よりも一番助かったことは、その間、生活費が一切掛からず、滞在ビザも彼らがどのように行なったか不明だが、カナダとアメリカで一度ずつ、計6ケ月の延長をすることが出来、不法滞在にならずに済んだことです。そういうわけで、私は彼らとの共同生活から離れ、その後アメリカ各地を、持っていたチケットの期限ギリギリまで旅を続けた。そして1974年8月、1年以上の長期の旅は出来なかったが、日本に戻ったのです。

 

3.イエス様との出会いと父の許への帰還

 日本に戻ってからが大変だった。父との関係だけではなく、社会に組み込まれることから逃げ回っていた私は、どう生きて行けば良いか分からず、ノイローゼのような状態になってしまった。そんな時、以前、父の勧めで働いたことのある会社の上司から、会社を興したので働かないかという声が掛かり、そこで働き始めた。それが25歳の時。それまでは会社員生活をすることなど自分では想像出来なかったのに、何故かこの時以来、水を得た魚のように仕事に没頭する生活が始まり、それが生き甲斐になった。時はバブルの時であり、会社の業績も上がり、それなりの給与も得て、アフターファイブも楽しく過ごした。

 そんなある日のこと、1986年1月2日、昔の友人宅で開かれた新年会に行った。そこには友人と一緒に暮らす相手もいた。その二人を見ていて、自分にはあのような満ち足りたものがなく、何と寂しいことかと、真っ直ぐ家に帰る気にもなれず、虚しさを満たすため、仕事帰りにしばしば寄っていた飲み屋で、財布の底が空になるまで散財した。翌日昼過ぎに家で目覚めると、前日の新年会で感じた虚しさに加え、散財し尽くした自分にも虚しさを覚えて、それまで感じたことが無いどん底感に陥ったのです。そんな中、朦朧と救いを求め、何度か除夜を迎えるために行ったことのある浅草寺(当時住んでいた「北越谷」からは、東武線で一本であった。)に向かった。するとそこで、「神は愛です。」というメッセージを書いたプラカードを持ち、寒風の中を立っている数人の人々と、ハンドマイクを使って「神の愛と悔い改め」を説く人たちを見たのです。彼らは、後に分かったことだが、宮城県に本拠地を置く「聖書配布協力会」の人たちであった。それを見た私は、何故か彼らのメッセージは自分に語られていると感じ、心が揺さぶられ、すぐに家に戻って、家にあった聖書と、以前どこで手に入れたのか定かでないが、「Power For Living」(2007年に、日本でも日本語版が配布されて話題になった。)を読み始めた。3日間読み続け、ついに1月5日(日)の夜、本の最終ページにやって来た。そこには「救いを受け入れる祈り」が記されていて、私は本の中で、既に自分の虚しさは自己中心の罪から来ており、その虚しさから救われるためにはイエス様を信じなければならないと分かったので、その祈りを祈ろうと思い、その最初の言葉を出そうとした時、私はその言葉を口から発することが出来なかった。それは、そこに「天のお父様」とあったからです。私は、長い間の父との確執の中で、父に対して「お父さん」と呼ぶことが出来ず、その言葉は私にとって長い間死んだ言葉であった。しかし、どうしてもその祈りをしなければならず、しばらく心の中で闘っていたが、ついに神様が勝り、私はその言葉を口から出して祈り始めた。するとその瞬間、あれほど固く岩のようだった父に対する閉じた心は砕かれ、神の熱い赦しが流れ込んで来た。そして私は救われ、あの放蕩息子が父の許に帰ったように、私も父の許に帰ったのです。この神の愛と赦しに心から感謝します。ハレルヤ!

 翌年、私はあの新年会の場で感じた「満ち足りたもの」―生涯の伴侶―にも出会い、神と人との愛の中で、今生かされています。感謝!

 

 「キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ちこわし、ご自分の肉において、敵意を廃棄された方です。敵意とは、さまざまの

 規程から成り立っている戒めの律法なのです。このことは、二つのものをご自身において新しいひとりの人に造り上げて、平和を実現するためであり、また、

 両者を一つのからだとして、十字架によって神と和解させるためなのです。敵意は十字架によって葬り去られました。」(エペソ2:14~16)

(2017.5.15. T.K.)

 

≪救いの証し≫

 私の神様との最初の出会いは、キリスト教系のルーテル幼稚園に入園したことでした。たまたま住んでいたところの近くにあった幼稚園、ということもあったかと思いますが、幼いながらも、そこにある礼拝堂の雰囲気、讃美歌のオルガンの音、牧師先生や幼稚園の先生方も、とても温かかったことを覚えています。

 5,6歳の頃に、こちらの三郷の方へ引っ越すことになり、母と姉と共に、三郷のある教会に通うことになりました。私にとって教会とは、お行儀良くし、聖書の話を静かに聞いて、真面目に過ごさなければならない場所、と思っていました。でも、それは苦痛なことではなくて、聖書の話も、讃美歌も、私にとっては心地よく、また神様の前ではそのように、真面目で清らかでなくてはならないもの、と考えていました。神様の存在は何となく認めながらも、自分の学校生活は、とても元気で、おてんばで、日常生活で神様を求めるような小学校生活ではありませんでした。

ただ毎日が楽しく、学校から帰宅するとすぐに外に遊びに行き、江戸川の土手を駆け回って、幼少期を過ごしました。

 

 高学年になると、先生や友達のことなど、色々と悩むことも出てきました。一度、風邪を引いて寝込んだ時には、心も体も弱くなり、暗いことばかり考えました。「人間はどうして生まれて、なぜ一生懸命生きているのだろう?なぜ、一生懸命飲み食いし、何のために頑張って生きているのだろう?」と。生きることをやめてしまえば、飲み食いする必要はないし、一生懸命頑張る必要はないじゃないかと。私は母にこの質問を投げかけました。すると母はにっこり笑って「人は皆、それを探しながら生きてるんだよ。お母さんもまだ、探しながら生きているのよ。」と言ってくれました。ハッキリと答えをもらったわけではありませんが、何かちょっと安心して、生きることを止めようなどとは、考えなくなりました。

 そんな頃に、近所の学校のお友達に、別の教会に行っている友達から、教会の子供キャンプに誘って頂きました。そのキャンプは、特別講師の先生が大胆にメッセージを語り、子供たちも大きな声で元気に賛美し、とてもアクティブなものでした。今までに見たこともないような大人数の、自分と同じような小学生がキャンプに参加していて、まるで学校での行事のようでした。レクリエーションの時間などは、皆思いっきり遊び、走りまわり、そして、礼拝の時間には静かに神様に向かって祈る・・・。私はとても衝撃を受けました。そっか、それでいいんだ。そのままの自分で、神様の前で礼拝して、祈っていいんだ、と。普段学校でしか見ないような、やんちゃな男の子が、神様の前で頭を垂れて祈っている姿を見て、とても感動したのを覚えています。(やんちゃのままでいんだ、と。)教会生活は、日常生活と分けて、自分を律するような場所のように考えていた私は、考えが一転し、日常生活の延長線上にある、そのままの自分で、このままの生活で、神様と共に歩んでいこう、という思いが与えらえました。

 キャンプから帰ってきた私は、聖霊に満たされて、とても燃えていました。そのころ、母はもうこちらのサンライズの教会に来ていました。私も、以前からこの教会の宣教師先生のメッセージ、ワーシップソング、ギターで歌う讃美歌、自由で温かく、家庭的な礼拝をしたいと思い、母に打ち明けて、こちらの教会に来させてもらいました。それが、何年前の出来事か、計算すると怖くなりますが、だいたい35年前くらいになります。そのころの私も、たくさんの兄弟、姉妹に支えられ、励まされ、たくさんの事を教えて頂きました。苦手だったピアノも、奏楽という奉仕をさせて頂いて、ここまで支えてくださったことも、とても感謝しています。

 

 高校受験の時期になり、私の希望する高校は、学校の先生から「99%無理です。」と言われました。しかし、私は希望を変更することなく、ただただ祈りつつ、母や家族にも支えてもらい、何とか合格することができました。学校の先生が言うことも、決して大げさなものではなくて、本当に、神様の導きなくしては、なかった結果だったと思います。

「信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。」(へブル11:1)

 神様は、私たちの能力、力、知恵によらず、想像をはるかに超えて、働かれるのだな、とこの時、身をもって体験させてもらいました。

 

 そして、高校1年生の冬に、新座の教会で、T先生、W先生、H先生のもとで洗礼を受けました。今までも神様の事は信じていて、共に歩んできたつもりでしたが、受洗したときは、なんとも言えない深い喜びと、平安に包まれました。

 「あなたがわたしをを選んだのではありません。わたしがあなたを選び、あなたを任命したのです。それは、あなたが行って実を結び、そのあなたが

 たの実が残るためであり、またあなたがたがわたしの名によって求めるものは何でも、父があなたがたにお与えになるためです。」(ヨハネ15:16)

 自分が見つけ、自分で選びとったかのような信仰生活は、決してそうではなく、既に神様のご計画であり、すべて神様の御手の内にあった、と改めて知りました。

 

 楽しい高校生活も半ばになり、昔から絵を描くことが好きだった私は、美術大学を志望しました。しかし、それもまた、高校受験と同じく、自分が考える以上に狭き門でした。ただ、昔から美大に憧れて、ちょっと絵が好き、というくらいの考えでは、とても楽観的で、無知で、周りは不安で、疑問に思う人も多かったと思います。そんな周りの心配とは裏腹に、私には不思議と神様からの平安と、安らぎがあり、あまりギツギツしないまま受験することができました。本当に、神様がいつも共にいてくださり、大変な時こそ私を背負って、歩んでくださっていたんだな、思います。そして、美術大学への道も開かれて、存分に絵のことを学ぶことが出来ました。

 

 大学でも、就職先でも、自分の能力のなさや、甘さ、知識の足りなさなど、思い知らされ、愕然とすることも多くありましたが、その都度、神様に導き、励まされ、建て直して頂きました。自分の力でもがき苦しむときは、何も解決が見当たらず、途方にくれるばかりでしたが、そんな時こそ、神様がすぐそばにいて下さったことに、気付かされました。 

 

 今は結婚し、母となり、二人の息子を育てていますが、今でも日々、神様からの語り掛けがあります。今は母として、親として自分の弱さ、足りなさ、忍耐力のなさを思う時、イエス様の愛の深さを思わずにはいられません。以前に、T.K兄弟のメッセージにもありましたが、こんな自分でも、我が子に対する愛情は測りしれないのだとしたら、神様の私たちに対する愛は、いったいどれほどのことでしょう、と。聖書の放蕩息子の話は、単なる物語ではなく、私こそあの高慢で、情けない放蕩をしてきたのに、神様のもとへ立ち返ったときに、こんなにも喜んで、温かく迎えてくださるのだと。

 

 これからも、日々、まだまだ経験したことのないことが、起こると思いますが、それらはすべて神様からのこの上ない喜びのプレゼントだと受け止め、日々主を仰ぎ、賛美しつつ歩みたいと思います。

 

 これで私の証を終わります。ありがとうございました。(2017.1.22  S.I.姉)

 

 

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≪救いの証し≫

 イエス様を信じて36年になります。いろいろなことがありましたが、すべて相働きて益として下さるイエス様ですから、良いことばかりあった気がします。

 

 私は、滋賀県安曇川の地で、僧侶で教師の父と優しい母との間に、六人兄弟の末っ子として生まれました。自然が大好きで山や川や木の上が遊び場で、幸せな幼少時代を過ごしました。高学年になるにつれ、お寺の子ということや、優勝な姉や兄と比べられ、自信を失い、勉強が嫌いになり、努力もせず、人一倍依頼心や劣等感の強い人間になって行きました。進学もせず、就職試験にも失敗して、田舎から脱出したいと思うようになり、東京在住の次兄を頼り、同居させてもらうことで両親を説得し、東京の会社には叔父のコネで就職できました。言葉には困ることがありましたが、楽しい青春時代を過ごし、主人と出会い、結婚できたことはとても嬉しいことでした。

 念願の子供も授かり幸せでしたが、実際の子育ては自分の未熟さもあり、病気がちの子を抱え、思うように行かないことばかりで、遅くまで仕事で精一杯の主人には、子育ての悩みも聞いてもらえず、馴れない団地生活で話す友もなく、悶々とした日々を送っていました。毎日何のために生きているのか、こんな自分が母で妻でよいのかと、思い悩むことが多くありました。

 柏から吉川団地へ引っ越し、いろいろな良いと思うことに手を出し、自分の中の空洞を埋めたいと願っていました。そんなある日、砂場で長女を遊ばせているとき、クリスチャンの方と出会いました。主人の母がクリスチャンで、「私はこれさえあれば寂しくないのよ。」と分厚い聖書を読み、話していたことを思い出し、私も聖書を読んでみたいと思いました。思い切ってその方にお願いし、土曜ごとに、子供を遊ばせながら、聖書の学びをすることになり、最初は難しくて分からないことばかりでしたが、ヨハネ15:5「 わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。」この言葉を読んだとき、私の中で映像のようにはっきりと具体的に理解でき、イエス様という木につながっていれば実を結ぶのだと分かり、どのように生きて行けばよいか、分かる気がしました。それでも、信じたいけれど、多くのためらいがありました。罪のことは分からないし、仏教徒の両親を悲しませると思っていたからです。

 12月に入り、S姉が通う恵比寿の教会の先生が来られて、ヨハネ3:16から話をされました。イエス様が何故私のために十字架にかかってくださったのか理解できずにいましたが、「A.H.さんのために十字架にかかってくださったのですね。Aさんのために。」と言われたとき、何故か私の心の堅い氷のようなものが溶けて、涙が出て来ました。「一晩、自分の罪を神様、イエス様にお詫びしてごらんなさい。」と言われ、その夜、家族が寝静まって、一人台所に座り、悔い改めの祈りをしました。責められる罪などないと思っていましたが、次から次へと悪い罪が示され、止まることを知らないかのようでした。自分の劣等感ゆえに、人を羨み妬み、人を傷つけて来たことに気付かされました。いつしかそのまま眠ってしまい、目が覚めたら朝の太陽の光が差し込み、まぶしい光がキラキラ輝いていました。

 翌々日、再び先生が来てくださり、「もし己の罪を言いあらわさば、神は真実にして正しければ、我らの罪を赦し、凡ての不義より我らを潔め給わん。」(Ⅰヨハネ1:9)

 「人もしキリストに在らば、新たに造られたる者なり。古きは既に過ぎ去り、視よ、新しくなりたり。」(Ⅱコリント5:17)のみことばに心からアーメンと頷くことができ、イエス・キリストを私の救い主として受け入れる告白をして、12月14日に、私はイエス様のために喜んで生きる者とされました。

 

 こんな罪深い、ちりに等しい私を捜し、見つけ救い出してくださった深い主の愛に、心より感謝いたします。

 後日、受洗のことで父に手紙を書いたら、返事が届きました。父は私の2歳の頃、結核にかかり、二年間の入院生活をしたのですが、「隣りが牧師さんだったので、キリスト教のことは話を聞いて知っている。都会のビルの中に住むには、信仰が必要だと思う。」と、思いもかけない励ましの言葉に驚き、素晴らしい主の道備えに感謝の思いでいっぱいでした。恵比寿まで2時間かけ、6歳の長女と2歳の長男を連れ、2年ほど通っていました。主人の救いを願い、「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」(使徒16:31)のみことばの約束を握りしめ、祈って来ました。主人のためには、近くの地元の教会の方が良いのではという思いが与えられていました。長女の級友のお母さんがクリスチャンで、その方に誘われ、宣教師のS.エリクソン師に会い、学び会に参加し、先生の住居の三郷団地の一室での第一回目の礼拝に参加できたことは、本当に不思議な主のお導きでした。

 主人は英会話を習い、ギターの奏楽のお手伝いへと導かれ、神様のプレゼントの次女も与えられ、家族揃って教会に行くという夢が実現しました。

 「日の出が、いと高き所から我らを訪れ、暗黒と死の陰に座る者たちを照らし、我らの足を平和の道へと導く。」という御言葉の上に建てられたサンライズクリスチャンセンターみさと吉川教会に、今、自分が置かれているのは、この上もない喜びです。暗黒と死の陰に座っていた私に、主が光を照らしてくださったことを思うたび、私の心は喜びでいっぱいになります。そして、私のように、イエス様に見出され、光をあてられる方が起こされるよう、祈り、証しして行きたいと思います。(2016.9.29. A.H.姉)

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≪救いの証し≫

 私は2005年のクリスマスに神様を信じ、洗礼を受けました。私の育った田舎町に教会はなく、幼少時代、教会に行った記憶といえば、隣町で牧師をしていた叔父に招かれ、2~3回行った程度でした。ですので、大人になるまで、神社でもお寺でも、何でもありの未信者でした。ただ、子供の頃、目にした奇怪な出来事を機に、この世には目に見えないもので良いものと悪いものがあり、「神様」という存在もあるだろうと漠然と思っていました。ただ、イエス様や教会を自ら求めるといった窮地に追い込まれるほどの出来事が30歳を過ぎるまでなかったので、神様と御言葉を深く知るに至りませんでした。

 しかし、私が第2子を妊娠・出産をするタイミングで、その時は訪れました。しかも、それは私自身の問題ではなく、家族に起こりました。私はとても悩み、苦しみ、明日生まれるかもしれない大きなお腹を抱えつつ、どうにも心身ともに身動きのとれない状況下で、不安、恐れ、悲しみ、怒り、…、真夏の暑さなど、感じ取ることができないほどの精神状態でした。そのような状況をクリスチャンであった実家の母に打ち明けると、電話の向こうで、力強く「教会に行きなさい。本当に困っているなら、先ずあなたが救われなさい。『そうすれば、あなたも、あなたの家族も救われます。』と神様はおっしゃっています。」と言いました。しかし、私はかなり渋っていて、まだ自分で何とかできるのではないか、困った時だけ神様を頼って都合が良いのではないか…と、悶々とした日々を送っていました。

 そんなある日の出来事です。なかなか夜もぐっすり眠ることができていなかった私の枕元にイエス様が手を伸ばして、「私のところに来なさい。いいから来なさい。」とおっしゃるではありませんか。この不思議な、到底信じてもらえないような出来事と承知で言いますが、頭で理解しなくて、心が神様と出会った瞬間でした。そこで決心がつきました。以前、少しの間ですが、子供と通った親子教室のあるサンライズクリスチャンセンターみさと吉川教会へ行こうと決めた瞬間、何故か心がすっきりとし始め、晴れやかになったことを今でも覚えています。

 それからは、できるだけ毎週礼拝に行きました。語られる御言葉を聞くたび、賛美を聞くたび涙があふれ、こんなにも泣き虫だった自分に、正直驚きました。何故なら、それまで生きて来て、流して来た涙とは全く異質の、泣きたくないと思っているのに、気が付くと自分では止められないほど、次々と流れてくる涙です。私の言葉にならないうめき声から、その苦しみを神様は分かってくださり、自ら祈り、また共に祈ってもらうことで、少しずつ問題は良い方へと導かれることに本当に驚きの日々でした。苦しかったけれど、すべてを益としてくださり、生きて働いてくださる愛の神様を体験しました。

 人それぞれ神様を確信するまでには「時」があると思いますが、聖書の中には「あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。」(伝道者の書12:1)と証しされています。もし私が未だイエス様の名前を知っていても、まことの神として受け入れずに生きていたら、その生き方はまるで糸の切れた凧のようだったと思います。「この世」という風の吹くまま宙に舞い、自分はどこから来て、どこへ行くのか分からないまま、いつかは地に落ちるだけの虚しい存在だったと思います。また、自分にとって都合よく神を求めるのであれば、それは愚かな「ピノキオ」のようだとも思います。

 ピノキオは、もともと木の操り人形で、造り主であるおじいさんの子供として誕生しました。おじいさんはピノキオをとても愛していて、ピノキオに正しい生き方をして欲しいと、いつも願い育てようとするのですが、それに反してピノキオは世の誘惑に負け、悪い方へと行ってしまいます。それでもおじいさんはピノキオを愛しているので、失望せずに、むしろ命をかけて探し続けてくれる存在です。ピノキオは作られた時から不完全な者なのですが、おじいさんや周りの助け人との関係を築くことで本当の命を得て、人間の子供になりました。

 人間として生きるために毎日ご飯を食べます。しかし、それと一緒に「心のご飯」も食べ続けなければ心が満たされず、嬉しくありません。「心のご飯」を食べさせてくださるのがイエス様です。私もですが、一人でも多くの方が「若い日」にまことの造り主である神様と出会い、親しく求め続けて、平安、喜び、感謝で満ち溢れるより良い生き方をしたいものです。(2016.9.20 M.H)

 

 

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≪救いの証し≫

 私は北海道の南幌と言うところで生まれ、学生時代を過ぎ地元の幼稚園に勤めました。自分の周りにはキリスト教と関係する思いあたるところがないところと思っていました。私の祖父は開拓をするため出てきた曾爺さんの3男でした。長男はヤクザまがいの暴れん坊だったようです。早くに亡くなったとか。子供が男子二人を残していたようです。その面倒を見たのも祖父だったようです。次男は余市のとなり二木町と言うところで果樹園を営み、3男である祖父が父親である曾爺さんたちと南幌に住んだと聞いています。男子が赤ん坊の時何人も亡くなったので母は長女で跡取り娘でした。実家にはいつも色んな人が出入りする家で、特に母の従妹である、祖父の長男の息子たちが家に来ては、酒を飲んでケンカし大騒ぎになる家でした。こんな家が大嫌いで家を出たいと思っていましたが、私は結婚するまで北海道を出る機会はありませんでした。

 私が幼稚園に勤めたときに、同僚のTさんとの出会いがキリスト教に触れるきっかけでした。幼稚園である勤め先にはクラスが年長のクラスが2つ、年少のクラスが1つで3クラスでした。園長他3名の教師の小さな幼稚園です。何年か務めるうちに、仕事も楽しく充実していました。同僚であるTさんは私より年上でした。高校を卒業して働きながら学校に生き資格を取ったという事でした。ある時彼女から教会のクリスマス会、特伝と誘われ、それで彼女が教会にいっておりクリスチャンであることを知りました。教会は札幌にある、M先生の教会でした。比較的若い世代の方が多かったように記憶していますが何よりも奥様が、障害のあるご主人、また牧師のM先生を尊敬の念をもって背負って講壇に上る姿はとても衝撃的でした。2回ほど行きました。興味があるならどうぞの誘いに、また行きたいと思い母に話しましたが、母からは「そういうところには行ってはいけない。」ときつく叱られました。母を逆らって教会に行くことは許されず、ひかれることはありましたが、それ以来教会に行くこともありませんでした。そして嫌だと思っているこの家から出ることもできませんでした。そのとき、「今は苦しいけれど、結婚したら幸せになることが出来る。」と言われ、なんとなくその言葉が心の支えでした。それ以来教会に行くことはありませんでしたが、彼女の話を聞くのはとても楽しみでした。勧められ三浦綾子さんの小説に触れたのもその頃からでした。

 そのころ私たちは年頃だったこともあり、それぞれに結婚の話がありました。私も友人から今の主人を紹介されました。主人にとっては彼女が従妹にあたるのですが、叔母さんたちや義理の母と結託して、私と主人を出会うきっかけを作ってくれました。誠実な方で、結婚してもいいかなとお付き合いをしていました。そんな時、Tさんの結婚を考えているという彼とのいきさつを聞く機会がありました。高校の時の同級生だそうですが、彼女が学生の時にキリストに出会い、救われてクリスチャンになったとき、またご主人と出会い、お付き合いの機会があったそうですが、「自分はクリスチャンで、同じ信仰を持つものでないと結婚は出来ないから。」とクリスチャンではない彼にはっきり断ったそうです。私はその話を聞いたときびっくりしました。「えっ、結婚するってどういう事だろう。」私の頭の中は悶々とした思いが続きます。その後、彼女の彼に対する伝道、信仰の証しが、その方の心を動かすことになったのだと思います。何年たっていたのか。その方が教会に行くようになり、最近救われたのだそうです。それで改めてその方との結婚を考え直したと。そのことを聞いて驚きました。私自身の結婚はどうだろう。以前「結婚したら幸せになれる。」という人の言葉を信じて結婚しようとしている自分とは、全然違っていることはわかりました。むしろ、「同じ信仰をもって始める結婚って何だろう。何が違うのか。」考えました。当時付き合っていた主人にぶつけてみましたが、クリスチャンではない主人からは答えを見つかるはずもありません。このままでは結婚はできないと考えていると、「そんなことを考えないで、いい人だから結婚しなさい。」と周りに勧められるままに自分では消化不良状態でしたが、東京で仕事をしていた主人についていき、初めて北海道から離れ埼玉に住みました。

 結婚して子供も与えられ幸せと思える日々が過ぎましたが、Tさん(結婚してIさんに名前が変わり)の「同じ信仰をもっていなければ結婚しない。」と言う言葉が心の中にずっとありました。当時吉川の団地に住んでいましたが、そこにエホバの証人と言う方がキリスト教のことを学びましょうと何度かきてパンフレットをもらったことがあります。その事を彼女に話したら、キリスト教と言っても異端と言われるものもあるので、気を付けた方がいいと言われました。それから、生協で一緒の班であったIさんに教会に行ってみないかと誘われ、行くようになりました。そこはHさんの家で行っている家庭集会の学びでした。R先生がいてみんな快く受け入れてくれましたが、また異端と言われるとこではと、いつも警戒しながら行って、聖書を学んでいました。すごく批判的に見ていました。しばらく通ううちに、天と地を想像された神様がいらっしゃり、自分たちはその神さまによって造られた者であることを聞いたとき、絶対的な神さまがいる?何か力が抜ける思いになり「もう疑いをもって、教会に通うのはやめよう、天地を造られた神様がおられ、自分は造られた者。神さまの言葉を信じて学んでみよう。」と思うようになり、そのことを先生に話したら、「おめでとうございます。」っと。先生から「今日救われたことを感謝している・・・」といったカードをもらいました。1985/2/8の事でした。聖書を読んでいる時、ローマの福音書10章に来たとき、8節から「み言葉はあなたの近くにある。あなたの口にあり、あなたの心にある。」9節「なぜならあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。」10節「人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。」11節「聖書はこう言っています。「彼に信頼する者は、失望させられることがない。」このみ言葉をみたとき、「私は2月8日に救われたのだ。」と確信しました。「彼に信頼する者は、失望させられることがない」この方を信頼して従って行こうと決心しました。

 

 そのころ私が教会に行っていたことは主人も知っていました。その後、R先生から6月のペンテコステに洗礼をうけませんかと勧められます。「えっもう洗礼?」と思いましたが、いずれ受けることになるであろう洗礼。ならばチャンスなので今受けようかと思い、それで主人に洗礼の話をします。「自分はクリスチャンになったので洗礼を受けたいです。聖書には献金をするようにと書いてあるので献金をしたいです。了承してください。」と。もう少し丁寧に話したと思いますが、内容はそのようなものでした。うすうす解っていたのでしょうが、主人は私を守るため、聖書には何を書いてあるのか理解し、親戚筋にも言い訳が出来る様にと考えていたようで、教会に行き始めます。洗礼式には長男がちょろちょろしていたころだったので、見ていてほしいと思って誘ったのですが、主人の方がでんと座ったままで御言葉をきいており、子供を見てもらえる状況ではありませんでしたが、洗礼を受けることが出来ました。それから主人も礼拝に一緒に行くようになり、英会話教室にも行くようになっていました。主人も救われました。私にとってはあっけないと思える救いでしたが、彼の中にも主を求めている人だったことが分かりました。その後の特伝で、二人で主の前に行き祈ってもらった事があります。そのとき涙が流れ、得も言われぬ平安があり、やっと本当の夫婦に成ったと心から思いました。彼女が言っていた同じ信仰をもって夫婦に成るということ。夫婦として家庭を作っていく中で、実家で見たようなめちゃめちゃな家族でしたが、これからは何があったとしても主に信頼していくと。

 

 ガラテヤ8章20節。「私はキリスト共に十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちにおられるのです。いま私が、この世に生きているのは私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。」

 

 私ではなく、私の家におられる神様が助けて下さるとわかりました。日曜日は家族で礼拝をまもる生活がはじまります。同じ信仰を持って歩む生活に神様が介入して下さり、それぞれ足りないところはいろいろな形を通して助けて下さる。主がそれぞれを用いて、導いて下さるそのことがはっきり理解できるようになりました。

 教会に行くことを嫌っていた母ですが、主人が救われて初めて、「あんたたち二人を見ていたらわかる。キリスト教、っていい宗教だね。」って言ってくれました。クリスチャンではないですが、それ以来困ったことがあると、何かにつけ祈ってほしいと言ってくる母です。結婚して北海道から離れたから教会に行くこともでき、主人は神様が導いて下さった人であって、主人も神さまに導かれた人であったとわかりました。もう信仰をもって30年になります。子供たちもそれぞれ家庭を持ったとき、主人と結婚して家族が増えそれぞれ家庭を持つようになったとき、主に導き助けられここまで来られたと幸せを感じました。年老いた両親がおり、息子たちや嫁、孫たちが救われているわけではないので、「証ししながら、祈っていきなさいと。」先に救われた者の使命として言われていると思っています。今回救われた時の事を思い返していた時、証しする純粋な思いがよみがえってきました。時々証しすることは大切。また家庭集会を始めたいと思っています。(2016.7.24 K.N.)

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≪救いの証し≫

 

「わたしについて来なさい。」

 

 私が最初にキリスト教に触れたきっかけは、幼かった頃、母に手を引かれて行った近所の家庭集会でした。暫くして、母がクリスチャンになってからは、日曜日毎に教会の礼拝に一緒に通うようになりましたが、父の仕事の関係で、引っ越しが多く、その都度、学校も教会も転々とする中、私は小学3、4年を機に、教会から足が遠のいてしまいました。

 高校1年を終える頃にも転校したのですが、私をミッションスクールに入学させたいと願っていた母の思いもあり、高校2年間は、女子校のミッションスクールに通う事になりました。その学校は、思いのほか楽しく、私の中にあった女子校への偏見が払拭されただけでなく、後に、この学校へ通うことこそが神様の導きだったとわかり、むしろ感謝することになったのです。

 ここでの学校生活を通して、私のうちには自ら神様を求める心が徐々にわいてきました。ターニングポイントは、高校3年の時でした。 多感な時期によくありがちな、お決まりの根本的な疑問がわきあがってきたのです。

 

 「人は何故、何のために生まれてきたのだろう。」

 

 当時の私は、この疑問に対してはっきりと心から確信をもって答えが出せない自分に焦りを感じ始めていました。小さい頃から、教会ともなじみがあったため、知識として聖書の教えは頭に入っていました。矛盾しているようですが、真理は聖書にだけあり、世界を創られた唯一まことの神様が、私の疑問に対する答えを握っておられる、ということは分かっていたのです。ただ、それは頭の中だけの理解で、真の新生体験をした訳ではなかったので、心からそう信じて告白できない自分がいたのも事実でした。 

 そんな中、母の通っていた教会で3日間の伝道集会があると聞きました。人生の真の意味に対してはっきりと確信をもって答えが出せず、日頃もやもやとした気持ちで過ごしていた当時の私は、心の中で「やったー! 行きたい!」とすぐに思ったのです。結局のところ、私はかなり霊的に飢え乾いていたのです。ただ、その気持ちを素直に表すのは恥ずかしく、自分から「行きたい」とはどうしても言えませんでした。願わくば、母の方から誘ってくれないかと思いつつ、ひたすら待っていたのです。そうこうしているうちに、とうとう今晩が集会、という日になってしまいました。ぎりぎりのところまできて、ようやく、本当に求めているなら、自分から行動を起こすべきだという強い思いがわき上がってきて、勇気を出して「今晩の伝道集会に一緒に行きたい」と告げました。伝道集会には3日連続、毎晩通い続けました。最期の日のメッセージは、マタイの福音書4章19節からでした。

 

 「わたしについて来なさい。 あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう。」

 

 これは、イエス・キリストが後に弟子となるペテロとアンデレにかけた言葉です。それまでに何度も聞いていた聖書箇所でしたが、その晩はとても新鮮に私の心に響いてきました。直接「わたしについて来なさい」と声をかけられたと感じました。

 正直、それまでの自分は、イエス・キリストを信じたら、自由がなくなってしまうのではないかと思っていました。何回もイエス・キリストを受け入れる機会があったにもかかわらず、何かと理由をつけては、真剣に求めることを後回しにしてきたのです。そんな私を、なおも見捨てず諦めずに、ずっと忍耐して待っていて下さった、その深い愛に気がつき、涙がぼろぼろこぼれてきました。

 もう何の迷いもなく、今、決断しなければ天国行きの列車に乗り遅れてしまうという心境で、まるで扉の閉まる寸前に最期の車両に飛び乗るような気持ちでイエス・キリストを受け入れる決心をしたのを覚えています。後で分かった事ですが、その3日間を通して救われたのは、私一人でした。まさに、私のためにあった伝道集会でした。集会後、母を始め、教会の皆さんが私のことを喜んでくれて、何とも言えない温かいほっとしたような感覚に包まれ、「これで良かった」、「決心して良かった」と何度も心の中で繰り返していたのを覚えています。私は、その後の信仰生活において折に触れて、神様の深い愛や憐れみを確認してきました。

 

*イエス・キリストの十字架は、自分のためにあったんだ

*イエス・キリストを自分の罪からの救い主と認めて受け入れないことこそ、神様のみこころを悲しませることだったんだ

*私がすること、それはただ自分の罪を認め、イエス・キリストが十字架にかかって用意して下さった救いの道を感謝して受け取ることだけだったんだ

*信仰生活は窮屈で自由のない特殊な関係に入ることではなく、むしろ神様との本来の関係に戻る事で、喜びと本当の意味の自由があるものなんだ

*信仰は感情に左右されるものではなく、神様のみことばに基づいたものなんだ

*だから神様の約束の言葉を素直に信じて受け入れていけばいいんだ

 

 あの瞬間、イエス・キリストを救い主として受け入れる決心をしたことを後悔したことは、その後一度もありません。神の栄光を現す者として創られ、その残りの人生においても、主が更なる祝福を見せて下さると期待し信じて、最期まで主についていきます。(2015.11.22 Y.W)

 

 

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≪洗礼の証し≫

 

「救われて」

 

 今日という受洗の日において信仰の確信を得たく、私自身の生活歴、信仰生活を今一度省み、ここに主イエス様が私の救い主であることを受入れ、救いの証しを記します。

 キリスト教との出会いは、16年ほど前のクリスマスの時期、元職場の知人が通っていた教会のキャンドルサービスに参加したことがきっかけでした。16年間で幾度となく環境が変化し、中でも精神疾患を患ったこと、一家離散したことは、神様と私との関係において屈曲した側面が多くあったことを示すものでした。聖書の解釈も自己中心的なものだったと鮮明に記憶しています。病的な症状の救いをキリスト教に求めていたとも省みることが出来ます。重度の強迫性障害を患い、病気の、恐怖の根拠がないのに苦しむ日々の中で、私は自己中心にみことばを頼っていました。

 そして7年ほど前、さまざまな要因が重なり、一家離散しました。食べ物も寝る場所もなく、生きる希望を完全に見失い、私はキリスト教に背を向けました。生活の立て直しのために、働き、働き、誹謗中傷や蔑みも飲み込み、信用出来るのは自分だけだ、仕事だけだと、人間不信にもなりました。

 こんな不信仰な私が、今日ここに居るのが不思議でなりません。

 

 「人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。」(ローマ10:10)

 

 私には新しく家族が与えられました。その家族の関係において、私は根本的な罪の解決が必要です。一生悔やんでも赦されない罪の解決のために、神様の契約が忠実に守られて具現化されますように。生きる目的にたどり着くために、これからの信仰生活の中で気付きと目覚めが与えられることを祈り、心に波風が立っても信仰の礎が深いものであり、足元がゆるがないように、家族のために祈りつつ、共に歩んで行こうと思います。

                                                           (2015.11.8 Y.I姉)

 

 

 

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≪救いの証し≫

 

「たとえ私の息子が...」

  私の息子二人は薬物依存症です。
  次男が逮捕され、私は初めて薬物のことを知りました。その後、長男も薬をやっていることが分かり、本当にショックで夜も眠れなくなりました。
  ダルク(※)に、家族会にと、藁をもすがる思いでたどり着きました。薬物依存症は死に至る病気で、回復はするが治ることはない、また自分の力では薬を止めることができないと学び、回復するには愛をもって手を放し、ハイヤーパワー(※、それぞれが信じる神)にゆだねることだと学びました。
  私は神って何だろうと思うようになり、仲間にクリスチャンの方がいましたので、教会に連れていってもらいました。教会へ行くと、神様を信じ、イエス様を賛美して、みなさんが祈っていました。私は主を賛美しているみなさんを見ているうちに、神様はいらっしゃる、イエス様は私の苦しみを分かってくださっていると思いました。また、牧師先生(※)のお話を聞くうちに、私は罪人だと知り、罪人の意味も理解でき、求めて救われました。
  詩篇37章5節に、「あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる。」とあります。
  二人の息子は必ず回復すると信じ、希望をもって主にゆだねます。(2015.8.2 T.A.姉)

※ダルク:ダルク(DARC)とは、全国薬物依存症者家族会連合会のことで、通称、ドラッグ(DRUG=薬物)、アディクション(ADDICTION=嗜癖、病的依存)、リハビリテーション(Rihabilitation=回復)、センター(CENTER=施設、建物)の各英文字の頭文字を組み合わせた略語で呼ばれる。覚醒剤、有機溶剤(シンナー等)、市販薬、その他の薬物から解放されるためのプログラムを持つ民間の薬物依存症リハビリ施設。2009年現在、全国に本部を含め48施設ある。ウェブサイト:http://www.yakkaren.com/zenkoku.html

※ハイヤーパワー:アラノン(Alanon:アルコール依存症者の匿名の自助グループ(AA: Alcoholic Anonymous)の家族と友人の会の通称)やナラノン(Nar-anon:薬物依存症者の匿名の自助グループ(NA: Narcotics Anonymous)の家族や友人の会の通称)、ギャンブル依存症者の匿名の自助グループ(GA: Gamblers Anonymous)が用いる回復プログラム(12ステップ)の中の言葉で、信仰のない人にとって自分の力を超えた絶対者なる神を表わすための言葉。

※別の教会の牧師の集会で救われ、現在は当教会に導かれています。

 

 

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≪救いの証し≫

「弱さを覚えるときイエス様に出会う」 

 イエス様を知ることになった出来事を話したいと思います。1985年、私は結婚して数年たった時でした。神様を知らないで生活をしていた私は自分中心の生活をし、家内との気持ちのすれ違いが起きていました。それで家内はキリスト教会に通うようになりました。私は、教会には良いイメージを持っていたので行く事に反対しませんでした。しかし、洗礼を受けると言い出した時は困ったことになったと思いました。田舎の親、親戚は仏壇にお参りし、お寺の世話係をしていたからです。家内の側に立って説明できなければ結婚生活を続けるのに支障が出ると思いました。
 私は教会をイメージだけで聖書の中身は何も知らないことに気づき、英会話を覚えたいと教会の「英会話と聖書」の時間に参加するようしました。新約聖書をとにかく読み続けました。そんなある日、仕事帰りの電車の中でコリントの手紙を読んでいた時です。聖書で弱さと言う言葉が何回も目が留まりました。実は職場で自分の弱さを知らされ、自分には生きる指針がないことで落ち込んでいました。弱さを受け止めてくれる神様がいらっしゃるなら私も信じても良いかな思った瞬間、心の中にストンと何かが飛び込んだのです。腑に落ちる体験でした。
 その夜の英会話の時間、宣教師の導きで罪の悔い改めとイエス様を救い主と信じる告白の祈りをしました。ただ、幾らも聖書を読んでいず、何が何だか解らない状態でしたがほっとした気持ちでした。
 其の後、新約と合わせて旧約を読むようになった時、夢を見たのです。神が「アブラハムにイサクを奉げなさい。」との場面です。私は世の中の流れが悪い方に向いているで、子供を育てるのに不安を持っていました。その私に神様が息子を奉げなさいと迫るのです。「そんなことはできない。」と戦い、もがき、脂汗をかき目が覚めます。そして、次の日も同じ夢、ついに降参して奉げますと言った時、体の疲れが取れるような深い平安を体験したのです。それからは子育てに心配があるとき、子育ては神様が責任を持って下さると思えるようになりました。
 自分の心の中では、二人目の子供を持つことを封印していました。しかし、その所にも触れて下さり解放され、もう一人子供を与えてほしいと思い始めました。神様を受け入れた祈りをしても半信半疑の自分も居ました。「聖書にある生きた真の神様、あなたが本物なら二番目は女の子を与えてください。」と初めて家内と一緒に祈りました。この時、私たちは本当の夫婦になったとの喜びが与えられたのです。そして、次の結婚記念日に女の子が産まれたのです。その子は今、ユーオーディア(※)で賛美の奉仕に参加させて頂いています。
 今回、「弱さを覚えた時にイエス様に出会い30年経ち、あなた(神様)との体験を話すことはどんな意味があるのですか?」と祈りで聞いてみました。
するとパウロがガラテアの教会にあてた手紙で「アブラハムへの祝福が、キリスト・イエスによって、異邦人(私たち)に及ぶためであり、その結果、私たちが信仰によって約束の御霊を受けるためなのです。」とあるのを見つけた時、アブラハムの祝福が私たちに及ぶためであったと新たに理解出来ました。十字架は神の計画であったと覚えることが出来て、私自身感謝です。
 私たちは自分の知恵や力では解決できない問題に出会う時があります。聖書の言葉を素直に読んでみてください。あなたの問題にも解決が与えられると信じます。イエス様はあなたをも愛されています。神様の祝福があなたにも及びますようにお祈りします。(2015.7.7 K.N.兄)


※ユーオディア:1988年、日本のクリスチャン音楽家(クラシック)により、賛美と宣教と育成を目的として設立された団体(一般社団法人)。

 

 

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≪信仰の証し≫

 私が教会に通うのは、私なりに楽しみがあるからです。先ず、神を賛美する歌を歌えることです。また、先生方から聖書の正しい知識を得られることです。生きていればいろいろと悩みもありますが、教会に行くのに妨げになるほどではないので、感謝しています。これからも教会にはなるべく良い精神状態で行けるように生活に注意し、教会を魂の番人として通いたいと思います。
 最後に、去年は教会の日曜礼拝に一度だけ休みましたが、大体出席できました。これは自分の努力ではなく、神からの恵みだと思い、これからも信仰を強めて行きたいと願っています。(2015.6 S.N.兄)

 

 

 

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≪結婚の証し≫

 「さあ、天を見上げなさい。星を数えることができるなら、それを数えなさい。」、「あなたの子孫はこのようになる。」(創世記15:5)神様がアブラム(アブラハム)に約束したことばです。加えて、私には聖書が言われる「独身者」の賜物が無いとはっきりしていたのしで、子孫が星のように、砂のように増え広がるということは、結婚はみこころだと確信しました。
 実家は北海道ですが、周りに独身のクリスチャン男性も少なく、出会いもなく、とても難しく感じていました。でも「主に不可能なことがあろうか。」(創世記18:14)高齢のアブラハムとサラに語られ、約束の子が与えられたこのみことばの約束を握って祈りました。
もう一つルツ記から、ルツにボアズが備えられたように、「私にもボアズが与えられる!」と信じる思いが与えられたことです。「主よ。私のボアズは何処にいるのですか?」と時々聞いていました。母教会の牧師先生が結婚された歓迎会の席で、皆が夫人に自己紹介する時がありました。「私にもボアズが与えられると信じています。」と、挨拶の最後に言ったことを覚えています。自分でも驚きです。
 (いよいよ本筋に入ります。)
 結婚を真剣に祈っていることを知った妹が、私の写真を持ち帰ったことを後で知りました。妹が「主人(今の私の主人です)に結婚の話をしたから祈っていて!」と電話がありました。この話を聞いたとき、とても平安で、この一言だけ祈って休みました。「この話はあなた(主)から出たことですか?」と、そして、3日目の朝に答えがありました。
 マタイ14章に、イエス様が湖の上を歩いておられるのをみて、弟子たちはおびえてしまい、叫び声を上げる箇所があります。イエス様は「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない。」(マタイ14:27)と話しかけられました。するとペテロは「主よ。もし、あなたでしたら、私に水の上を歩いてここまで来い、とお命じになってください。」イエス様は「来なさい。」と言われました。(マタイ14:28~29)「主よ。もし、あなたでしたら」このみことばが特別に目に飛び込んで来ました。ペテロが主に問い掛けたのと、私の問い掛けは同じだと瞬間的に分かりました。「この話はあなた(主)から出たことですか?」と祈った私に、主は「わたしだ。」と答えて下さったのです。主人に会う前に、私と神様の間で結婚は決まりました。その後3月に北海道から上京し、初めて主人と会うことになりました。家族以外では、牧師先生にだけに「みこころだと思うので、会って来ます。」とお伝えしました。
 結婚の導きのために、みことばの約束を信じて祈っていましたが、いつ答えられるだろうかと、揺れ動くときもありました。みことばによって、心を、思いを整えて下さったのは主です。私は勇気のない者で、いつまでも独身でしたが、主がおられたので勇気を持って踏み出せました。
 「わたしの口から出るわたしのことばも、むなしく、わたしのところに帰っては来ない。
 必ず、わたしの望む事を成し遂げ、わたしの言い送った事を成功させる。」(イザヤ55:11)
 御名をほめたたえます。ハレルヤ! (2014.10 K.K.姉)

 

 

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≪救いの証し≫

 若いときは、体力もあり気力もあり、自分勝手な生き方をして来ました。唯一健康だけが取柄でした。老齢になると、気力、体力、頭の働きも衰え、それが自然と言い聞かせながら、自分のことはできる限り自分ですること、できれば人のために働き奉仕をすることと心に決めて、生きて来ました。しかし、自分の生きていることに空しさを感じ、本当に私を愛してくれる人が欲しい、この頼りない心を投げかける人が欲しいと思っていました。しかし、振り返ってみれば、人に信頼され得るるような私ではありません。欠点だらけ、罪だらけの自分でありながら、欠点だらけなるがゆえに、悪い私なるがゆえに頼るものが欲しいのです。
 そうした願いをもったままのある日、ポストに入っていた一枚のちらしに心引かれ、教会を訪問しました。姉妹たちの包み込むような優しさは勿論でしたが、その時いただいた一冊の新約聖書によって、私の考え方、目標が変えられたのです。とにかく夢中になって読み続けました。失敗の涙で、恥ずかしい思いで、岩壁に立つような気持ちで読みました。しかし、解りませんでした。なかなか望みが叶えられませんでした。
 しかし、6月27日の朝方、「私は何の取柄もない駄目な人間だ。」と叫んだとき、だからこそイエス様が招いていらっしゃるのではないかと知ったのです。「わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」(マタイ9:13)の御声をかけてくださったのです。人の世では、賢い立派な働きがなければ大事にされません。しかしイエス様は、私のような意気地のない弱い者を救おうとしていらっしゃったのです。駄目だからこそ、救いの御手を伸ばしてくださったのです。初めてイエス様の十字架を見つめてみました。私のために、私にまつわりついている罪の性質のためにイエス様は十字架の死を遂げてくださったと、神様のご計画を知らせれ、取柄のない小さな者に目をとめ、愛しておられることを知ったとき、大きな喜びがありました。私は、罪をお詫びして、神様に赦しを乞う祈りをしました。
 罪をお詫びして神様の子どもとしていただいた後、今までと少しも変わらない境遇におりながら、私の人生観、人間観は一変してしまいました。私にとって、今もこの後もそうでしょうが、イエス様を知り、イエス様を自分のものとする以外の目標はありません。いかなる立場、境遇に置かれているときにも、それらの環境はイエス様を知るための材料にしか過ぎません。困難と戦いは、一生どんな所に行っても逃れることはできませんけれども…。(詩篇27:10)
 2013年10月に洗礼を受けることが許されまして、聖餐に加えられていることは、ただただ感謝でございます。「神は、すべての人が救われて、真理を知るようになるのを望んでおられます。」(Ⅰテモテ2:4)とあります。私自身、さらに信仰を持たしめていただきたいと願っております。 (2014. 9 K.M.姉)

 

 

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★姉妹教会のサンライズ杉戸教会にアップロードされたS姉の証しを紹介します。是非読んでみてください。主は素晴らしい!
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