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私たちの本質の絶対的変化 

A CHANGE IN OUR VERY ESSENCE 「あなたがたは、以前は暗やみでしたが、今は、主にあって、光となりました。光の子どもらしく歩 みなさい。」(エペソ5:8) エペソ人への手紙2:1~3は、キリストの下に来る前までの私たちの性質について語り、「あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって、そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行い、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。」と記されている。 私たちの生まれながらの性質、クリスチャンになる前までの性質は罪の性質であって、その結果、当然死ぬもの(神から切り離されたもの)であった。そのように、私達は自分自身に、またサタンに仕えるものであったが、救いに預かったとき、私たちの本質的な性質は完全に変えられたのである。その結果、私達は神の性質に預かり、世にある欲のもたらす滅びを免れる者となったのです。(Ⅱペテロ1:4) あなたはもう肉にあるものではなく、キリストにあるものとなりました。救いを受けるまでは罪の性質を帯びていたが、今はもうキリストにある神の性質を受け継ぐものになったのです。あなた自身は永遠でもなく、神でもないが、あなたはキリストにある神性に永遠に預かるものとなりました。 パウロはこう言っている。「あなたがたは、以前は暗やみでしたが、今は、主にあって、光となりました。光の子どもらしく歩

責められることのない良心 

A Blameless Conscience そのために、私はいつも、神の前にも人の前にも責められることのない良心を保つように、と最善を尽くしています。(使徒24:16) 昔から人は、「自分の良心の声に聞き従え」と言う。しかしそれには残念ながら限界がある。何故なら、良心は思考に準ずるものだからである。この世界に生きている私たちの良心はこの世界の影響を受けており、誤まってプログラムが為されてしまっている。 基準はすべからず、すべてがそれに従うものなので、私たちはキリストのところに来るまでは、我々が生まれ育ったこの世界の価値観が基準であった。だから、多くの人々は真の罪意識ではなく、多くの場合、幼少期の時に形成された誤まった罪責感によって人生を歩んでいる。サタンはそれを要塞として、日夜私たちを告発しているのである。(黙示録12:10) 多くの完全主義者は、たとえ聖書から、「こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。」(ローマ8:1)と聞いていても、そのために、サタンの告発の下で喘いでいる。彼らはただ影響を受けているだけではなく、支配されているのである。それは、彼らは人の是認と人に喜んでもらうことを求めているからです。パウロはこう言っている。「いま私は人に取り入ろうとしているのでしょうか。いや。神に、でしょう。あるいはまた、人の歓心を買おうと努めているのでしょうか。もし私がいまなお人の歓心を買おうとするようなら、私はキリストのしもべとは言えません。」(ガラテヤ 1:10)と。 私たちの思考はこの世界の中で造られて来たので、私たちは、私たちの信

主日礼拝メッセージ:金子辰己雄師

【聖書個所】 エズラ7:1~10: ​【タイトル】 エズラ記(8)「神のビジョンに生きる人」 ​【序論】 前回のメッセージを振り返りながら、今日のメッセージに入って行こう。 ​ 前回のメッセージのポイントは、バビロン捕囚から解放されて神殿を再建したユダヤ人たちは、神殿の奉献式と過ぎ越しの祭りを祝った。つまり、彼らにとっては、捕囚という十字架の体験と解放という復活の出来事により、①新しく生まれ変わったイスラエルの民として神を礼拝した。②罪除かれた民として種なしパンの祭りを祝った。つまり、純粋な心で神を礼拝したということの2つだった。今日はそれに加え、V20:「ひとり残らず」から、「一つになって礼拝した。」ということを3つ目のポイントして加えたい。 ​ 私たち一人ひとりは小さな無名の存在である。この時の彼らもそうであった。しかし、彼らは一つになって神殿を建て上げ、一つになって礼拝をささげた。彼らが再建した神殿は、ソロモンの神殿に比べれば無きに等しいような小さな神殿だったが。 ​ ハガイ2:3:「あなたがたのうち、以前の栄光に輝くこの宮を見たことのある、生き残った者はだれか。あなたがたは、今、これをどう見ているのか。あなたがたの目には、まるで無いに等しいのではないか。」 ​ それだけでなく、彼らの奉げものである牛百頭、雄羊2百頭、子羊4百頭(エズラ6:17)も、ソロモンがささげた牛2万2千頭、羊12万頭(Ⅱ歴代7:5)に比べたら無きに等しいものだった。そのように、彼らが再建した神殿がどんなに小さく見える神殿でも、また、彼らの奉げものがどんなに少なくても、彼らのささげた礼拝は、ひとり残

主日礼拝メッセージ:金子辰己雄師

【聖書個所】 マタイ6:10a: ​ ​ 【タイトル】 主の祈り(3)「御国が来ますように」 ​ 【本論】 この箇所の原語のギリシャ語では、「エルセートー・ヘー・バスィレイア・スー」で、それぞれ、「エルセートー」(来ますように)、「ヘー」(定冠詞)、「バスィレイア」(国)、「スー」(あなたの)の意味である。だから、原語通り言うならば、「来ますように。あなたの国(つまり御国)が」となる。最初の「エルセートー」は、前回説明した「アオリスト」という「1回限りの過去の出来事を示す語形」で、それも命令形で書かれているので、「御国が来た」のだから「御国よ、来なさい。」と言う意味合いで「御国が来るように」祈りなさいということなのです。 ​ ここに、「来ますように」に関する「2面性」があることに注目したい。「もう既に来た」という過去の出来事としての「来ますように」と、「これから来る」という未来における出来事としての「来ますように」である。そして、これは、「あがめられますように」の時に説明したように、イエス様が二千年前に来られた目的(十字架の上での贖い、三日目のよみがえり、それを信じるすべての人に救いを与えるという救い主として来られた目的)に関わりがあるということです。 ​ イエス様は公生涯を始められた時、開口一番こう言われた。「この時から、イエスは宣教を開始して、言われた。『悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。』」(マタイ4:17)、「「時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい。」(マルコ1:15)と。天の御国に入るためには、悔い改めて福音を信じなければならないことを語られ

主日礼拝メッセージ:金子辰己雄師

【聖書個所】 ヨハネ15:5 【タイトル】 「主に在って、豊かに実を結ぼう!」 ​【導入・序論】 ​ この15章は、13章から16章にかけて語られている最後の晩餐と言われる夕食の席で語られた決別説教の中の説教であるということを、先ず覚えよう。 ​ 聖書のメッセージは、どういう場所で、どういう時に語られたのかという文脈の中で捉えることが重要である。でなければ、聖書が語ろうとしているメッセージを正しく受けとることは出来ない。では、ここでは何が語られているのか?―大まかにまとめると、次の4つになる。 ​ 【本論】 ①「私はもうじき居なくなる。」―まさに決別のメッセージです。 ヨハネ16:16a:「しばらくするとあなたがたは、もはやわたしを見なくなります。」 ただ、この説教には決別だけが語られていたわけではない。次に、 ​ ②「ふたたび現れます。」という再会を約束するメッセージが語られている。 ヨハネ16:16b:「しかし、またしばらくするとわたしを見ます。」 そして3番目に。 ​ ③聖霊を送るという聖霊降臨の約束のメッセージです。(16:7) そして、最後のメッセージ。それは; ​ ④「わたしがあなたがたがを愛したように、あなたがたも愛し合いなさい。」という命令であった。 ​ ヨハネ13:34:「あなたがたに新しい戒めを与えましょう。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」 ​ ※この命令は、ヨハネ15:5に最も関連する。何故なら、ここに先ず、①「わたしがあなたがたがを愛したように」という、私たちと主との関係が示されており、そして、

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