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主日礼拝メッセージ:金子辰己雄師

【聖書個所】 ​エズラ8:24~36 ​ 【タイトル】 「エズラ記(11)―忠実な民、真実な神―」 ​ 【本論】 今日の箇所は、エズラ達がエルサレム到着以前に行なった事や出来事(V24~V31)の箇所と、エルサレム到着以降に行なったこと(V32~V36)の二つの部分に分かれる。しかし、そのように時系列的な分け方ではなく、内容的に見ると、2つのことに分けられる。 (1)エズラ達がエルサレムへの到着を含めて、その前後に行なった事と、(2)神様が彼らに行なってくれたことである。特に、その二つに関して、どちらにも「忠実さ」ということがその中心にあって、重要な柱になっていることが分かる。つまり(1)エズラ達の忠実さと、(2)神の実さである。 ​ 神の忠実さとは、V31:「私たちはエルサレムに行こうと、第一の月の十二日にアハワ川を出発した。私たちの神の御手が私たちの上にあって、その道中、敵の手、待ち伏せする者の手から、私たちを救い出してくださった。」とあるように、彼らの旅を、彼らの祈り(8:23)に答えて、敵の手や待ち伏せする者の手から守ってくれたということである。その神の忠実さである。 ​ 忠実を意味するFaithfulは、Faith(信仰)とful(満ちて)から成っている。神様は、御自身の口から出る言葉に対して忠実であり、それを必ず守られる。それは神の真実と言ってもいい。 ​ イザヤ45:22c~23b:「わたしが神である。ほかにはいない。わたしは自分にかけて誓った。わたしの口から出ることばは正しく、取り消すこと はできない。」 ​ Ⅱテモテ2:13:「私たちは真実でなくても、彼は常に

主日礼拝メッセージ:金子辰己雄師

【聖書個所】 マタイ6:12 ​【タイトル】 ​「主の祈り(6)―私たちの罪をお赦しください。―」 ​ 【本論】 マタイ6:12:「私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。」 ​ ここで言う「負いめ」とは罪のこと。(参照:ルカ11:4)そして、その負い目は、(ギ):オフェイレーマタと、複数形で書かれているように、複数の罪のことである。そして、この祈りには、私たちがこの祈りをする時に私たちが覚えておくべき3つの重要なことがある。 ​ (1)先ず、私たちの罪は完全に赦されているということ。 罪が完全に赦されているのなら、何故このように祈るのか?―それは、「私たちの罪は完全に赦されている」の罪は、ここで複数形で表されている負い目のことではなく、単数形で表される原罪のこと。そして、その原罪のゆえに過去に犯した罪、現在犯している罪、そして未来に犯してしまうかもしれない罪、そのすべての罪を神は赦して下さっているのだということです。 ​ ヘブル9:26b~28:「しかしキリストは、ただ一度、今の世の終わりに、ご自身をいけにえとして罪を取り除くために、来られたのです。そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように、キリストも、多くの人の罪を負うために一度、ご自身をささげられましたが、二度目は、罪を負うためではなく、彼を待ち望んでいる人々の救いのために来られるのです。」 ​ V26で言う「罪」は、(ギ)ハマルティア、単数形の原罪のこと。V28で言う「罪」は、(ギ)ハマルティアス、複数形の多くの罪のこと。神は御子イエス様により

主日礼拝メッセージ:金子辰己雄師

【聖書個所】 Ⅱコリント5:17 ​ 【タイトル】 「キリストにあって新しく造られた者」 ​ 【序論】 Ⅱコリント5:17:「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」 ​ 聖書は、誰でも例外なく「キリストのうちにあるなら」=イエス・キリストを私の救い主として信じるなら、「その人は新しく造られた者です。」というのです。そして「古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」=信じた私たちに関わる「すべてが新しくなりました。」というのです。今日から何回かに分けて、「主に在って」という今年のテーマの一環として、私たちが主に在ることにより「すべてが新しくなりました。」という、その「すべて」について、みことばから分かち合って行きたいと思う。今日はその第1回目。 ​ 【本論】 先ず、私たち自身が「新しく造られた」のです。「新しく造られた」というのは、ただ主を信じることによって、例えば、「今までは怒り易かったが、優しくなった。」とか、「今までは酒やたばこをやっていたが、どちらもやめることが出来た。」とか、「今までは映画や音楽を聴くことが好きだったが、今はそうではない。」とかいうことではない。「怒り易い」とか「優しい」というのは性格のこと、お酒やたばこは習慣、映画や音楽は好みのことで、それらの変化は主を信じて救われた結果のことであって、「新しく造られたもの」そのものではない。「新しく造られた」というのは、文字通り、新しい創造、New Creationなのです。 家で言うなら、壁紙が汚れて来たから張替えるとか

誰かになるということ A MATTER OF BEING SOMEONE

「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」(Ⅱコリント5:17) クリスチャンになるということは何かになるということではなく、誰かになるということです。クリスチャンという者は、ただ罪が赦された者、ただ天国に行くことが出来る者、ただ聖霊を賜った者、ただ新しい性質を得た者というだけではなく、クリスチャンは、アイデンティーという本質から言うならば、聖徒であり、霊的に生まれた神の子であり、神の作品であり、光の子であり、御国の市民である。新しく生まれて、それまで存在していた者以外の者に変えられた者なのです。クリスチャンとして何を受けたのかが重要なことではなく、大切なことは「あなたが誰か」ということです。あなたがクリスチャンとして行なうことがあなたという人物を決定づけるのではなく、あなたが誰であるかということがあなたを決定付けるのです。(Ⅱコリント5:17、エペソ2:10、Ⅰペテロ2:9~10、Ⅰヨハネ3:1~2) ​ キリストにあって自分が何であるかということを理解することは、クリスチャン生活を適切に送るために欠かすことができないものです。人は自分が何であるかと理解しているままに生きるものです。自分をどうしようもない者と見るなら、恐らく人はそのように生きて行くでしょう。しかし、もし自分をキリストにあって霊的に新しく生まれた神の子どもであると見ることが出来るなら、人は神が自由と勝利の中を生きたように生きることが出来るでしょう。神に関する知識に次いで、自分自身に対する知識を正しく持つことは最も重要なことです。 ​

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