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主日礼拝メッセージ:金子辰己雄師

【聖書個所】 エズラ9:1~15 ​ 【タイトル】 「エズラ記(12)―神の恵みを知った者の祈り―」 ​ 【本論】 V1:「これらのことが終わって後、…」 ​ 「これらのこと」とは、エズラたちがアルタシャスタ王を始めとして、多くの人々から預かって来た金銀や多くの器類、また動物のいけにえとして神殿にささげて、主を礼拝したこと。エズラは彼のエルサレム帰還の目的であった、この時より約80年前に帰還したイスラエルの人々に向かい、「さあ、いよいよ教えて行こう。」と張り切っていたと思うが、そんな矢先、彼と一緒に帰還していたつかさたちから、その出鼻を挫くような知らせが届いた。その内容は、「イスラエルの民や、祭司や、レビ人は、カナン人、ヘテ人、ペリジ人、エブス人、アモン人、モアブ人、エジプト人、エモリ人などの、忌みきらうべき国々の民と縁を絶つことなく、かえって、彼らも、その息子たちも、これらの国々の娘をめとり、聖なる種族がこれらの国々の民と混じり合ってしまいました。しかも、つかさたち、代表者たちがこの不信の罪の張本人なのです。」(V1b~V2)という知らせであった。それは、エズラにとっては全く信じがたいものだった。何故なら、モーセの律法にあるように、イスラエルの民はそうであってはならなかったからである。 ​ 申命記7:1~3:「あなたが、入って行って、所有しようとしている地に、あなたの神、【主】が、あなたを導き入れられるとき、…。また、彼らと互いに縁を結んではならない。あなたの娘を彼の息子に与えてはならない。彼の娘をあなたの息子にめとってはならない。」 ​ 彼らは、短い期間にこの教えを破るよう

革新的な内なる変革 A Radical, Inner Transformation

「ところが、神の恵みによって、私は今の私になりました。そして、私に対するこの神の恵みは、むだにはならず、私はほかのすべての使徒たちよりも多く働きました。しかし、それは私ではなく、私にある神の恵みです。」(Ⅰコリン15:10) もしあなたが部分的に光であり部分的に暗闇、また部分的に聖徒、部分的に罪人であると思っているとするならば、あなたはノンクリスチャンと殆ど何も変わらない世の人の歩みをすることになるでしょう。あなたは自分には罪を犯す傾向があり、また同時により良いものを求めることが出来る者であるとしても、あなたは自分自身が神の恵みによって罪赦された唯の罪人であり、この世をただ軽挙されるまで何とか生きて行く者に過ぎないと考えているだけなら、あなたは敗北の人生を歩むだけである。サタンはあなたの真実の姿に対して何もすることが出来ないことを知っているが、もしサタンがあなたに、あなたは生まれながらの人間と何も変わらないと信じさせることが出来るとするならば、そのようにあなたは自分のことをそう見ることしか出来ないだろう。 このように自分のことを見るクリスチャンが多く居るのはどうしてなのだろうか?-それは、私たちがキリストにある私たちの真のアイデンティティーを知らないからである。罪人を聖徒に変えるという神の贖いのみわざは、この世における神の最も偉大な働きの一つである。内面の変化や義とされることは救いの瞬間に為されることである。信者の日常生活における外面的な変化や聖化は生涯を通して継続的に行なわれるものである。しかし、聖化が漸進的に行なわれるのは、義とされたことによる内面での革新的な変化が、信仰が

揺るがない信仰によるもの A Solid Belief System

「あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、『アバ、父。』と呼びます。」 (ローマ8:15) 私が数年前まで関わっていた大学内の学生ミニストリーの中にクレアという女子学生がいた。彼女は見た目に全く何も取り得のない、敢えて言うならば、小太りで決して美人とは言えない学生だった。そればかりではなく、彼女の家の状態を見ても、父親はアル中で家族を顧みることもなく、また、彼女の兄は薬物依存で家に落ち着くこともなく、そのため彼女の母親は下働きのような仕事を掛け持ちして働かなければならず、それでどうにか経済的な必要が満たされるような大変な家庭でもあった。だから私が最初に彼女を見たとき、彼女は所謂「壁の花」のような存在で、学生仲間の間では特に目立つことも無く、決して華やかさを勝ち取るようなことはないだろうと思っていた。しかし驚いたことに、予想に反して彼女は仲間の中でも誰よりも愛され、多くの友達を持っていたのである。最終的には、彼女は学部の中で最もハンサムな男性と結婚のゴールを切ったのです。 一体彼女のどこにその秘密があったのだろうか?―それは、彼女が自分はどういう者であるのかということに関して揺るがない信仰を持っていたからである。その信仰とは、「私は神の子どもです。」という信仰である。彼女は、神が彼女をキリストにあってどう見ているかについてそのままを受け入れ、そして、神の彼女に対する将来像-「神の荷姿に造り変えられこと」と「人を愛すること」の中に、確信をもって献身したのです。彼女は誰に対しても強圧的な態度をとる

新しく造られた者 A New Creature

「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」(Ⅱコリント5:17) ダンとシンディーは、宣教師になるための準備をしている若いクリスチャン夫婦でした。しかしその時、悲劇的な出来事が起きました。シンディーがレイプに遭ったのです。彼女は、普通の生活に戻ろうと頑張れば頑張るほど、忌まわしい記憶と過去の出来事を忘れることが出来ませんでした。 その出来事が起きてから6ヶ月が経った頃、ダンとシンディーは私がスピーカーを務めることになっていた教会の大会に出席しました。大会の中で、シンディーは私に問いかけました。「アンダーソン先生、私は神がすべてを良くして下さると分かりましたが、しかし、神はそれをどのようにして為さるのでしょう?」 私は「ちょっと待って、シンディー。私は『神はすべてのことを働かせて益にして下さる。』とは言いましたが、『神は悪いことを良いことに変えられる。』とは言いませんでしたよ。あなたに起きた出来事は悪いことでした。しかし、神の為さる良いことは、そのあなたを、その悲しい出来事からどのようにして歩み出して、今より良いあなたにするかを教えて下さることなのです。」。「しかし、私は私のその過去の出来事から私自身を引き離すことが出来ないのです。」と彼女はすすり泣き、「私はレイプの犠牲者なのです。この先ずーっとそうです、アンダーソン先生。」と訴えました。 しかし私は、「いいえ、シンディー。レイプは確かにあなたに起きました。しかし、そのことであなたがあなたで無くなったわけではありません。また、そのことがあなたをずっー

葛藤する聖徒 A Struggling Saint

「私には、自分のしていることがわかりません。私は自分がしたいと思うことをしているのではなく、自分が憎むことを行っているからです。」         (ローマ 7:15) ​  私たちがクリスチャン生活の中で顕著に見ることができる葛藤は、恐らくローマ書7:15-25に記されているものではないだろうか。15節と16節で、パウロはその問題をこう述べている。「私には、自分のしていることがわかりません。私は自分がしたいと思うことをしているのではなく、自分が憎むことを行っているからです。もし自分のしたくないことをしているとすれば、律法は良いものであることを認めているわけです。」​ この二つの節で、私たちは唯一ことを行なっている人は一人であることが分かると思う。それは、「私には」、「自分の」、「私は」、「自分が」、…と、9回も出て来る「私」という人物である。そして、この人物には良心というものがあるのが分かると思う。彼は神の律法に同意しているが、しかし、この良心的クリスチャンは行ないの上に問題を抱えているのである。彼は何をしたら良いか分かってはいるのだが、どういうわけかそれをすることが出来ないのである。彼は神の望むことを行いたいと願ってはいるのだが、最後にはそれを行なうことが出来ず、彼のしたくないことをしてしまっているのである。​ そして、17節から21節でその理由が明らかにされている。「ですから、それを行っているのは、もはや私ではなく、私のうちに住みついている罪なのです。私は、私のうち、すなわち、私の肉のうちに善が住んでいないのを知っています。私には善をしたいという願いがいつもあるのに、

主日礼拝メッセージ:金子辰己雄師

【聖書個所】 ​マタイ6:13 ​ 【タイトル】 「主の祈り(7)-試みに会わせず、悪よりお救いください。」 ​ 【本論】 今日は「私たちを試みに会わせず、悪よりお救いください。」という祈りについてみことばを取り次ぐが、この祈りは、恐らく私たちが普段祈る祈りの中で最もよく祈る祈りの一つではないだろうかと思う。何故なら、私たちは日頃からいろいろな「試み」(ギ:ペイラスモス:罪を犯させる誘惑)に会っているし、また「悪」(ギ:ポネロス:漠然とした善悪の悪というものではなく、悪い者、また悪魔を指す)によって試みられたり、誘惑せられたりしているからです。私たちは皆、大なり小なり何らかの形で悪魔の試みに会っているのです。「愛する者たち。あなたがたを試みるためにあなたがたの間に燃えさかる火の試練を、何か思いがけないことが起こったかのように驚き怪しむことなく」(Ⅰペテロ4:12)とあるように、試みに会うことは決して思いがけないことではなく、普通にあることであり、また「私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。」(ヘブル4:15)とあるように、私たちは紛れもなく試みに会う者、誘惑を受ける者なんです。 ​ 「ハイデルベルク信仰問答」というものがあるが、そこでは、「私たちは生まれながらにまことに弱く、片時も保ち得ず、それに加えて、私たちにとって恐ろしい敵である悪魔、この世、そして私たち自身の肉は、私たちを攻めることを止めないので、願わくは、私たちを助け、あなたの聖なる御霊の力によって強め、彼ら(悪魔

主日礼拝メッセージ:金子辰己雄師

【聖書個所】 ヨハネ8:31~36 ​【タイトル】 「主に在って、私はキリストの弟子です。」 【本論】​ 初めの質問―「あなたはキリストの弟子ですか?」と訊かれたら…?―「弟子」という言葉のイメージは、何かの専門的な領域で、先生や師匠、親方と呼ばれるような人の下で、一人前になるために訓練され、その間は自分の好きなことは何も出来ない不自由な者、厳しさに耐える者というイメージがあると思うが、聖書では「弟子」とはどういう者であると言っているだろうか? ​ 「弟子」と言う言葉は新約聖書では318回、このヨハネの福音書では79回出て来る。その中で、イエス様の言葉として出て来るのは3箇所。この箇所と、ヨハネ13:35、ヨハネ15:8です。 ​ ​ ヨハネ8:31:「そこでイエスは、その信じたユダヤ人たちに言われた。「もしあなたがたが、わたしのことばにとどまるなら、あなたがたはほんとうにわたしの弟子です。」 ​ ヨハネ13:35:「もし互いの間に愛があるなら、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです。」 ヨハネ15:8:「あなたがたが多くの実を結び、わたしの弟子となることによって、わたしの父は栄光をお受けになるのです。」 ​ これらの箇所を読んで分かるように、そこでは、イエス様ご自身の言葉で、弟子としての共通の姿、こうであれば弟子だという姿が明確に語られている。―それは、みことばに留まり、みことばを実行して、みことばによって生きようとする者の姿です。「多くの実を結び」(ヨハネ15:8)は、「留まっているなら、多くの実を結びます。」(15:5)とあるように、留

個人的な関係 A Personal Relationship

「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。」(ヨハネ1:14) アダムの堕罪の結果、何がアダムにもたらされたか?それは、アダムとエバが、それにより現実を真に認知することが出来なくなってしまったことである。創世記3章7節~8節によると、彼らは神から身を隠そうとしたとある。それこそ彼らが神の現実を真に認識することが出来なくたってしまった証拠ではないだろうか。一体誰が神から隠れることが出来るというのだろうか。結局のところ、アダムとエバは罪を犯した結果、正しい思考力を失い、神について正しく理解することが出来なくなってしまったのである。 神の創造においては、「知る」ということは関係の上に成り立つことであった。「誰かを知っている」ということは、個人的な親密性のある関係を示すのである。創世記4章1節に「人は、その妻エバを知った。彼女はみごもって・・・。」とある通りである。しかし私たちは未だ、「人を知る」ということが、そのように個人的に親密に知るというものであるという所までには理解が至っていないのである。堕罪後、アダムとエバは神を知った。勿論それは性的な意味ではなく、結婚のような親密な人と人との関係性においてであった。彼らは神と共に居るということで、神を知ったのである。彼らは罪を犯した時、そして園から追放された時、彼らは神との関係を失い、その関係性そのものである神を知る力を失ったのである。 ​ 私たちは、アダムとエバのそのような無能さを受け継いでいる。キリストを知る前、私たち

反抗的な時代 A Rebellious Generation

「まことに、そむくことは占いの罪、従わないことは偶像礼拝の罪だ。」 (Ⅰサムエル15:23a) 私たちは反抗的な時代に生きている。多くの人は、何事にも当然自分には裁くことが出来る権限があると感じている。クリスチャンも例外ではない。私たちは聖歌隊に対し、また説教に対して容易に批判的になり易い。私たちは、礼拝に入ったのであるならば、神の言葉を私たちの裁きの座に着かせなければならないのである。 ​ 神への反抗は問題をもたらすだけである。私たちの指揮官として、主は私たちに「私に従え。そうすればあなたは誘惑に遭うことはないのである。私はあなたを悪から守ろう。」と言われるのです。しかし私たちはしばしば、「いいえ、今日はあなたには従いたくないのです。」と言うのです。そして私たちは自分勝手にやりたいことをし、その結果、痛い目に遭うことになると、神を非難して、「どうして守ってくれなかったのか。」と文句を言うのである。 ​ 私たちはまた、社会の中で権威ある立場に対しても反抗し易いものである。私たちは、神に認められた権威ある立場に対し、聖書的見地から言って、2つの責任がある。彼らのために祈ること。そして、彼らに従うことである。唯一神が私たちに地上の権威者に対する不従順を許すのは、彼らが神の御前に道徳的な悪を行なわせようとする時か、彼らが彼ら自身の権威が及ぶ範囲を超えて事を行なおうとする時だけである。権威に対する私たちがなすべき応答については、以下の聖書箇所を参照してください。 ​ ・各自治体の権威に対して(ローマ13:1~5、Ⅰテモテ2:1~4、Ⅰペテロ2: 13~16) ・両親に対して(エペソ6:

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