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主日礼拝メッセージ:金子辰己雄師

【聖書個所】 ネヘミヤ1:1~6a: ​ 【タイトル】 ネヘミヤ記(1)「ネヘミヤの祈り(1)」 ​ 【本論】 V1:「ハカルヤの子ネヘミヤのことば。第二十年のキスレウの月に、私がシュシャンの城にいたとき、」 ​ 「ハカルヤ」と言う人がどういう人物かについては不明です。聖書にはこのように分からないことが多くある。同様に私たちの人生にも理解不能なことが多くある。先週、ある人に会うために家内と那須に行った。この人は那須の閑静な別荘地に住んでいるが、こう言っていた。この那須は、本来ならば水も野草も新鮮で美味しいのに、8年前の福島の原発事故のために土壌が汚染され、今でも多くの人が井戸水や庭に出来る野草を食べることをしないと。原発事故があればそのように環境が汚染されることは分かっているが、ではどうして那須でなければいけなかったのだろうかと地元の人達は考えるだろう。「どうして自分なのだ?」と言う、私たちがよく持つ疑問である。このように、世の中の不公平や理不尽に思えることに対して私たちは解答を持っていない。しかし答えを見出せなくても、私たちが天に召され、イエス様と顔と顔とを合わせるように出会う時、すべてのことが明らかになるのです。 ​ Ⅰコリント13:12:「今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ていますが、その時には顔と顔とを合わせて見ることになります。今、私は一部分しか知りませんが、その時には、私が完全に知られているのと同じように、私も完全に知ることになります。」 だからそれまでは、私たちは答えは分からなくても、善をもって全てを治めておられる神を信じて生きて行くのである。これが私たち信仰者

礼拝メッセージ:金子辰己雄師

【聖書個所】 ルカ23:34 ​【タイトル】 「十字架上の7つの言葉(1)―父よ。彼らを赦してください。―」 ​ 【本論】 V1:「そのとき、イエスはこう言われた。」と言って、主は、「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分で分からないのです。」と言われた。このイエス様の十字架の言葉を言われた時の、「そのとき」とはどういう時だったのか、先ずそのことを考えてみよう。 ​ V33:「『どくろ』と呼ばれている所に来ると、そこで彼らは、イエスと犯罪人とを十字架につけた。犯罪人のひとりは右に、ひとりは左に。」とあるように、イエス様が十字架刑で処刑されるために連れて来られ、それも一人ではなく、他の二人の犯罪人と一緒に十字架に付けられた時のことでしょうか?―直接的には、そうです。しかしそれだけではない。この十字架刑がピラトによって宣告された時でもあり、それによって鞭打たれた時でもある。そのような刑罰を受けている間、ローマ兵や人々の嘲笑を受けていた時でもあり、また、そこに至るまで、ピラトは死刑にするには及ばないと民の指導者や祭司長、また人々に向かって語ったけれども、それでも「十字架につけろ。」(ルカ23:21)と、人々が叫び続けた時でもある。そのように、上げれば切りがないが、イエス様が公生涯に入られてから、イエス様が人々から嘲りや蔑み、妬みから来る拒絶の反応を受けたすべての時である。そして、「そのとき」というのを、このように十字架に掛けられたイエス様のこの時のことを中心にして見るならば、これは人類史上、つまりアダム誕生以来、今日まで、そしてこの先もイエス様の再臨の時まで、人々が

主日礼拝メッセージ:金子辰己雄師

【聖書個所】 ローマ12:3~5 【タイトル】 「主に在って(7)―主にあって、私たちは互いのもの―」 【本論】 パウロは、前回の箇所、V1:「そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。」と、「神のあわれみのゆえに、」私たちは救われたのだから、そのように私たちは神によって救われた者として、「私たちはひとりひとり、自分自身を神様に対して、生きた供え物、真実な捧げものとして捧げて行こう。」という、神様との関係の中での私たちの存在について学んだ。 ​ ​ ​ 今日は、パウロはこの箇所で、V3:「私は、自分に与えられた恵みによって、あなたがたひとりひとりに言います。」と、神様が自分に与えて下さった恵みによって、私たちに何かを語ろうとしている。それが、今日のテーマの、「私たちは、主にあって、お互いにそれぞれのもの、お互いのものである。」ということです。 ​ パウロは、彼の書いた多くの書簡の書き出して、自分のことを紹介する時に、表現はそれぞれ違っていても「自分は神のみこころによって人々に仕えるように召された者であること」を明らかにしている。つまりパウロは、彼自身がそうであるように、私たちもみな、何らかの形で神様に召され、その中で、私たちはお互いにそれぞれのものであるというのである。 ​ その時に大切なのが、V3b~V5:「だれでも、思うべき限度を越えて思い上がってはいけません。いや、むしろ、神がおのおのに分け与えてくださった信仰の

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