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主日礼拝メッセージ:金子辰己雄師

【聖書箇所】 マルコ1:14~15 【タイトル】 「クリスチャンとしての私たちの公生涯の務め」 ​ 【序論】 Ⅴ15のみことばは、イエス様が公生涯に入って最初に語られた宣教開始の言葉で、イエス様はここで語られていた通りの公生涯を送られた。それは、「神の国が近くなった。」とあるように、神の国のことを語り、神の国を目で見えるように、耳で聞こえるように、手で触れることが出来るように現わされたからです。イエス様はそのような公生涯を送られたのです。 ​ 先週金曜、阿部首相の首相辞任の発表があった。言い換えるなら、首相という公的職務から退くという「公生涯からの辞任」と言ってもいい。私たちの場合はどうだろうか? ​ ※私たちはイエスキリストを信じる信仰によって罪赦され、贖われ、言い換えるなら、それまで仕えていたこの世にではなく、神の国に仕える者として、神の国のために働く者となった。贖われて主人替えとなり、神の国のために生きることが私たちの公生涯になったのです。 ​ 今日は午後、下期総会が開かれて、教会の今後の歩みについて大切な話合いがある。なので、今朝はもう一度原点に帰り、私たちクリスチャンとして、神の国のために生きる者としての生涯を「クリスチャンとしての公生涯」と呼ぶことが出来るなら、その公生涯の姿、務めについて、イエス様が公生涯の初めに語られたメッセージから学んで行きたい。 ​ 【本論】 このイエス様のみことばには3つのメッセージがある。 ​ (1)「時が満ち」 私たちの人生は、時間というものによって作られている。その時間の流れによって出来ている。そして、その時間には2種類の時、時間があ

主日礼拝メッセージ:金子辰己雄師

【聖書箇所】 ネヘミヤ6:1~19: 【タイトル】 「ネヘミヤ(11)―専心し続けるネヘミヤ―」 【序論】 ネヘミヤは、エルサレムに戻って城壁政権工事を開始したが、さまざまな問題が起きて困難を極めた。しかし、ついに城壁の再建工事の完成が告げられた。 Ⅴ15:「こうして、城壁は五十二日かかって、エルルの月の二十五日に完成した。」 エレミヤはどのようにして多くの困難の中で工事の完成に辿り着いたのか、今までの個所を振り返ってみれば分かるが、今日は、今日の個所にあるように、もう少しで工事が完成するという時に起きたある妨害行為に対して取ったネヘミヤの行動に目を留め、私たちの教会生活や信仰生活、また教会形成の働きにも似たような事例が生じる場合があるが、そのような時、私たちはどのような行動を取ればよいのか、御一緒に考えてみたい。 【本論】 どのような妨害行為が起きたのだろうか?―2つある。 (1)人の言葉、評判、噂によって恐れさせ、工事を中断させようとする陰謀。 Ⅴ2~Ⅴ7:「サヌバラテとゲシェムは私のところに使いをよこして言った。『さあ、オノの平地にある村の一つで会見しよう。』彼らは私に害を加えようとたくらんでいたのである。そこで、私は彼らのところに使者たちをやって言った。『私は大工事をしているから、下って行けない。私が工事をそのままにして、あなたがたのところへ下って行ったため、工事が止まるようなことがあってよいものだろうか。』すると、彼らは同じようにして、四度も私のところに人をよこした。それで私も同じように彼らに答えた。サヌバラテは五度目にも同じようにして、若い者を私のところによこした。

主日礼拝メッセージ:金子辰己雄師

【聖書箇所】 ヨハネ14:6:「イエスは彼に言われた。『わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。』」 ​ 【タイトル】 「いのちなるイエス様に」 ​ 【序論】 このみことばは、前々回の「道なるイエス様に仕える道」の時にお伝えしたように、「イエス様を信じれば救われます。」という、伝道のために語られるみことばでもあるが、それだけではなく、このみことばは、「いのちなるイエス様に仕える道」というタイトルが示すように、何を信じ、何のために生きているのか、私たちの信仰生活、生き方そのものを示すみことばでもある。 ​ 初代教会のクリスチャンたちは、「この道の者」と呼ばれた。 ​ 使徒9:2:「ダマスコの諸会堂あての手紙を書いてくれるよう頼んだ。それは、この道の者であれば男でも女でも、見つけ次第縛り上げてエルサレムに引いて来るためであった。」 ​ 使徒22:4:「私はこの道を迫害し、男も女も縛って牢に投じ、死にまでも至らせたのです。」 ​ どちらも、パウロがまだサウロと呼ばれていた頃にクリスチャンたちを迫害していた時のことを記したみことばだが、そこにはっきりと、当時のクリスチャンたちは「この道の者」と呼ばれていたことが分かる。どうして「この道の者」と呼ばれていたのか、それは彼らの生き方の中に、彼らが何を信じ、何を第一にして生きているのかという、彼らの信仰そのものが明確に現わされていたからです。勿論、「この道」とは、「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。」と言われたイエス様であり、イエス様の生き方です。彼らは当

主日礼拝メッセージ:金子辰己雄師

【聖書箇所】 Ⅱペテロ3:11:「このように、これらのものはみな、くずれ落ちるものだ とすれば、あなたがたは、どれほど聖い生き方をする敬虔な人でなければならないことでしょう。」 ​ 【タイトル】 「聖い生き方をする敬虔な人(9)―幸いなるかな、敬虔な人―」 ​ 【序論】 今日もまた、このみことばから始めて行く。このみことばの伝えるメッセージは極めて明確で、前回も言ったが、この世のすべてのものは、世の終わりが来ると、どんなものでも焼け溶けて崩れ去り、消え去ってまう。だから、そのようなものを頼りとしないで、神様がくださった聖さ、神の子とされたこと、つまり敬虔さを大切にして、ますますそのようにして生きて行こうではありませんか、と教えているみことばです。それも、「どれほど…。」とあるようよおうに敬虔な人であってほしいという神様の願い、思いが伝わって来るみことばです。そうではないだろうか? さて、今日はそういう意味で、前回も引用したが、マタイの福音書5章~7章にある山上の垂訓の箇所から、イエス様が相反する二つの事物、それは神の国とこの世の違い、或いは神の国に生きる者とこの世に生きる物との違いを示しているわけだが、その対比を通して神の国に生きることの大切さ、聖い生き方をする敬虔な者であることの大切さを学んで行きたいと思う。今日はその山上の垂訓の中の5章3節~16節のところに出て来る「8福の教え」のところからです。 ​ 【本論】 マタイ5:3~16:「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるから。柔和な者は幸いです。その人たちは地を

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