天のはしご/牧師のメッセージを掲載しています。

 

 「…。見よ。一つのはしごが地に向けて立てられている。その頂は天に届き、見よ、神の使いたちが、そのはしごを上り下りしている。そし

 見よ。主が彼のかたわらに立っておられた。そして仰せられた。…。」(創世記28:12~15)
 ヤコブが父母の下から出奔し、パダン・アラムの叔父ラバンの下に向かう時の出来事です。彼はべテルの地で、夢の中で、天から地に向けて立てられたはしごを見た。その夢の中で彼は神に出会い、そして祝福の約束のみことばをいただいたのです。私たちは、私たちに向けて語られる神のみことばに耳を留めなければなりません。そのみことばが礼拝ごとに講壇より語られます。このコーナーを通して、皆様にみことばをお届けします。どうぞ天に目を向けて、お聞きください。

2021年11月28日 (日) 主日礼拝メッセージ:金子辰己雄師

【聖書箇所】

ルカ3:21~22:「さて、民衆がみなバプテスマを受けていたこ

ろ、イエスもバプテスマをお受けになり、そして祈っておられると、

天が開け、聖霊が、鳩のような形をして、自分の上に下られるのをご

覧になった。また、天から声がした。『あなたは、わたしの愛する子、

わたしはあなたを喜ぶ。』」

【タイトル】

「新しい出発(3)―聖霊の力と神のあいによって―」

【前置】

 今日で私のサンライズにおける講壇奉仕は最後になるが、今日は先

週お約束したように、前回に続いてアガペーの愛についてのメッセー

ジを語りたい。先週は、アガペーの愛は教会にとってなくてはならな

いもの、特に、神に仕える、人に仕えるという奉仕という点において、

私たちにとってはなくてはならないものであることを語った。今日も

その続きのメッセージではあるが、少し観点を変え、前回は、「だか

ら私たちはアガペーの愛をもって奉仕して行こう!」という、私たち

から出る、私たちが与える愛についてのメッセージだったが、今日は、

そのために必要な、私たちの奉仕の動機、根源、力、すなわち私たちが神様から受けるアガペーの愛について語りたいと思う。「与える愛」という観点ではなく、「受ける愛」と言う観点からのメッセージです。聖書箇所はルカ3:21~22、「聖霊の力と愛によって」と題して語る。

【序論】

 以前、2020年8月30日、「クリスチャンとしての私たちの公生涯の務め」と題し、マルコ1:14~15からメッセージを語った。そのメッセージの内容は、「時が満ち、神の国が近くなった。(だから)悔い改めて福音を信じなさい。」という福音を宣教するために、イエス様がキリストとして召されて公生涯を送られたように、私たちもそのために召されて、その召しに生きることが私たちのクリスチャンとしての公生涯であるというものだった。今日の聖書箇所は、そういう意味で、イエス様にとっての公生涯が始まる時の重要な箇所であると共に、私たちクリスチャンにとっても、私たちの公生涯を始めて行くに当たっての、なくてはならない重要なことが語れているところである。2つある。

【本論】

 先ず一つ、それは、私たちのクリスチャンとしての信仰生活、宣教活動は「聖霊を受けて始まる」ということ。

Ⅴ21~Ⅴ22a:「さて、民衆がみなバプテスマを受けていたころ、イエスもバプテスマをお受けになり、そして祈っておられると、天が開け、聖霊が、鳩のような形をして、自分の上に下られるのをご覧になった。」

 イエス様は神の子であったが、救い主として私たちを救うためにその御位を捨て、罪が全くないということ以外、私たちと同じ霊、魂、体をもって、人の子として生まれてくださった。そして30歳の時に、いよいよ救い主として公生涯を始められた。その時にイエス様はバプテスマのヨハネからバプテスマを受けたが、同時に聖霊のバプテスマも受けられて、そして公生涯を始められた。そのしるしは、「聖霊を受ける」ということであった。

※私たちもそうである。私たちが罪の赦しを受けるために御子イエスキリストを救い主として信じたとき、私たちにも神様は御霊なる神、聖霊様を与えて下さり、私たちのうちに住まわせて下さった。所謂、内住の聖霊のことである。

使徒2:38:「そこでペテロは彼らに答えた。『悔い改めなさい。そして、それぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう。』」

エペソ1:13~14a:「この方にあってあなたがたもまた、真理のことば、あなたがたの救いの福音を聞き、またそれを信じたことにより、約束の聖霊をもって証印を押されました。1:14 聖霊は私たちが御国を受け継ぐことの保証です。」

 これらは、その聖霊のことを言っている。イエス様を信じて罪赦された人には、誰にでもこの聖霊が与えられるのです。そして次に、その与えられた聖霊様に従う時、私たちはキリストの証人として、キリストを宣べ伝えて行く者に変えられて行く。それが、:「しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」(使徒1:8)ということである。

 イエス様はこの時、それを受けられたのである。イエス様には罪がないので、私たちがするように罪の赦しを受ける必要なないが、福音を宣べ伝えるために、聖霊のバプテスマを受ける必要があった。そして、その公生涯を始められたのである。しかし、その生涯は決して容易なものではなかったことを私たちは知っている。イエス様は、律法学者やパリサイ人、祭司であるサドカイ人や祭司長たち、また民の指導者と呼ばれている人々から妬まれ、悪霊の仲間呼ばわりされ、受け入れられなかった。そして、人々からも最初のうちは歓迎されていたが、最後には、捨てられ、罵られ、唾され、「十字架に付けろ。」とまで言われた。弟子たちまでもそうであった。

 

 そして極めつけは、神様ご自身からも捨てられたのである。それが、あの十字架の上での4つ目の言葉、「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになるのですか。」(マタイ27:46)という言葉であった。これは唯一、御自分を遣わした父なる神様に対して、「わが神、わが神」と呼んだ箇所である。他のところでは、すべて「アバ父、父なる神様、父よ。」と呼び掛けている。あの、血の汗を流されたゲッセマネの園での祈りでも「父よ。」と呼び掛けている。「父よ。みこころならば、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、みこころのとおりにしてください。」(ルカ22:42)そして、最後に息を引き取る時も、「イエスは大声で叫んで、言われた。『父よ。わが霊を御手にゆだねます。』こう言って、息を引き取られた。」(ルカ23:46)

※これは何を意味するのか。それは、イエス様はただ聖霊の力によってメシヤとしての働きをしただけではなく、父なる神様との関係の中でその働きを、信仰生活を、神様に従う生活を送られたということなのである。それが、次のみことばに示されている。

Ⅴ22c:「…。『あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ。』」

 イエス様はその生涯を歩むに当たり、ただ聖霊を受け、その力によって働きを行なっただけでなく、多くの困難、攻撃、拒絶、迫害があった中で、それらに耐え、その働きを最後まで全うすることが出来たのは、この父なる神からの言葉があったからなのである。「あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ。」と言う言葉、この言葉に示されている父なる「神の愛」により、イエス様は困難に満ちた、苦しみに満ちたイエス様の公生涯を、最後までずっと続けて来ることが出来たのである。これが二つの目のことです。

 神の愛が人としてのイエス様の信仰を支え、メシヤとしての公生涯を最後まで支え続けて来たものなのである。私たちの信仰生活にも、また宣教の生活、証の生活にも同じように苦しみ、困難、恐れや不安がある。しかも、私たちは神様に従って行こうとすればするほど困難、苦しみ、抵抗がある。聖書はそのことをはっきりと語っている。

ヨハネ16:33b:「あなたがたは、世にあっては患難があります。」

Ⅱテモテ3:12:「確かに、キリスト・イエスにあって敬虔に生きようと願う者はみな、迫害を受けます。」

 しかし、恐れることなく、この神様のアガペーの愛は、私たちに、無条件で、太陽の光のように、どんな時にも誰にでも注がれていることを覚えていよう。「天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるからです。」(マタイ5:45b)また、それだけではなく、「しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。」(ヨハネ16:33c)と言われるからです。

 イエス様は、「わたしはすでに世に勝ったのです。」と言われた。これはどういうことか。―これは、イエス様の先取りの信仰による勝利の宣言です。イエス様はさっき言ったように、この後、十字架の上で、「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになるのですか。」と叫ばれたが、最後には、「父よ。わが霊を御手にゆだねます。」(ルカ23:46)と言って息を引き取られ、そして死んで墓に葬られ、三日目によみがえられた。イエス様は、聖霊の力だけでなく、父と子の関係の中で、最後まで神の愛によって公生涯を終えられ、勝利を取られたのである。

※私たちにとっても、神の愛は私たちにとって無くてはならないものであり、だからこそ神様は、「あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ。」と言って、その愛を私たちに豊かに与えて下さるのである。

【結論】

 今日、あなたはどうだろうか?―私は神様に愛されていない。そんな資格はない。奉仕も、礼拝も、クリスチャンとして立派な信仰生活を送っていない。だから、神様が自分を愛しているとは思えない。…。―そのように感じているだろうか?思っているだろうか?―そんなことはない。神様は御子イエス・キリストをこの世に送って下さったように私たちを愛しておられる。

※神様は誰にでも、どんな時でも、「あなたは私の愛する子。わたしはあなたを喜ぶ。」と言って愛を注いでくださるのです。これが私たちのクリスチャン生活の源泉、力、いのちです。聖霊の力と共に、私たちの信仰と証の生活の源なのです。

―祈り―

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