天のはしご/牧師のメッセージを掲載しています。

 

 「…。見よ。一つのはしごが地に向けて立てられている。その頂は天に届き、見よ、神の使いたちが、そのはしごを上り下りしている。そし

 見よ。主が彼のかたわらに立っておられた。そして仰せられた。…。」(創世記28:12~15)
 ヤコブが父母の下から出奔し、パダン・アラムの叔父ラバンの下に向かう時の出来事です。彼はべテルの地で、夢の中で、天から地に向けて立てられたはしごを見た。その夢の中で彼は神に出会い、そして祝福の約束のみことばをいただいたのです。私たちは、私たちに向けて語られる神のみことばに耳を留めなければなりません。そのみことばが礼拝ごとに講壇より語られます。このコーナーを通して、皆様にみことばをお届けします。どうぞ天に目を向けて、お聞きください。

2021年10月10日 (日) 主日礼拝メッセージ:金子辰己雄師

【聖書箇所】

マタイ14:22~34

【タイトル】

「水の上を歩む人生―奇跡の中を生きる―」

 

【本論】

 この箇所は、イエス様が5つのパンと二匹の魚によって、男だけで

5千人、女子供を含めれば倍以上の人々の胃袋を満たした「5千人の

給食」の奇跡の出来事の後のこと。イエス様はその奇跡の後、弟子た

ちを船に乗り込ませ、向こう岸、ガリラヤ湖の向こう岸に行かせたと

言う。そして、先ほど読んだように、その湖の上で、弟子たちは向か

い風に悩まされ、船を漕ぎ進めることも出来ずに、なかなか前に進め

ないでいるところでイエス様が現われ、そして彼らは無事に目的地で

ある向こう岸に着いたということが記されている。彼らにとっては短い航海だったが、そこに、人生とは、誰にとっても船旅のようなもの、そして、もう一つ重要なこと、それが今日のメッセージの中心的テーマだが、私たちイエス様を信じる者にとっては、信仰生活というのは、それは水の上を歩くようなものであるということが語られていた。

 

 先ず、人生とは、誰にとっても船旅のようなものであるということについて見てみよう。

 

V22:「それからすぐ、イエスは弟子たちを強いて舟に乗り込ませて、自分より先に向こう岸へ行かせ、その間に群衆を帰してしまわれた。」

 

 私たちは毎月、兄姉の誕生日を覚えて、毎月誕生祝福式を行なっているが、ここで皆さんに質問するが、皆さんの中で、自分はそのように、いついつ生まれようと、いついつ、あそこに、ここに、という風に、自分で決めて生まれて来た方いるか?―いないでしょう。

 

※そう、私たちは皆、自分の計画や思い、また自分の意思によってこの世に生まれて来たわけではない。そのような人は誰もいない。ここに、そのように、人生とは自分の計画や思いとは関係なく、つまり自分の意思とは関係なく始まるものであることが示されている。「イエスは弟子たちを強いて舟に乗り込ませて」とあるように、私たちの人生と言うのは、私たちの人生の航海というものは、自分で始めようとして始まるものではなく、イエス様、神様によって始まるもの、始められるものであるということ。

 

 「強いて」、(ギ)「アナンカゾー:必要とさせるように、無理に、強いて」という言葉がそれをもの語っている。私たちは皆、自分はどうしてあの日に、あの父親と母親との間に、あのような環境の中で生まれて来たのだろう?!と思う。その理由は、聖書から正解を言うならば、皆誰でも、「神様の栄光を現わすために造られ、生まれて来た。」と言える。

 

イザヤ43:7:「わたしの名で呼ばれるすべての者は、わたしの栄光のために、わたしがこれを創造し、これを形造り、これを造った。」

 

 まあ、これは聖書的正解だが、しかし、それでも私たちは皆、しばしば納得が行かず、「どうしてなのか」と、すべてのことを受け入れることが出来ないでいることがある。しかし、その理由や訳がはっきり分からなくても、神様はある目的をもって私たちを造られ、そしてこの世にいのちを与えてくださったのである。

 

※それは、神様の御手の働き、神様の導きである。それが「強いて」という言葉に表されている。

 

 そしてそのように、神様の導きによって始まった私たちの人生だけれども、私たちの人生には、この時、舟に乗り込んだ弟子たちが経験したように、思うようにいかないこと、前進を妨げることが起こる。

 

Ⅴ24:「しかし、舟は、陸からもう何キロメートルも離れていたが、風が向かい風なので、波に悩まされていた。」

 

 このように、私たちの人生は、決して順風満帆(じゅんぷうまんぱん)ではないのです。健康の問題、経済の問題、いろいろな悩み事が人生には起きて来る。それが私たちの前進を妨げる。皆さんにもそのようなことがいろいろとあったのではないか?また、今もそれに直面しているかもしれない?!

 

※しかし、そのような私たちの人生だが、その航海の途中では、誰にでも「救いの時」がある。イエス様との出会いの時がある。

 

Ⅴ25:「すると、夜中の三時ごろ、イエスは湖の上を歩いて、彼らのところに行かれた。」

 

 舟を漕ぎあぐねて、にっちもさっちも行かない弟子たちの所に、イエス様が現われたのである。ところが、彼らは湖の上を歩いて近づいて来られるイエス様を見て、「あれは幽霊だ。」(Ⅴ26)と言って恐れたという。

 

※無理もない。普通考えたらあり得ないことが起きたのだから。自然の法則に従えば、人が水の上を歩くことなど出来ない。だから、それは(ギ)ファンタズマ:「妖怪、幽霊、まぼろし」に違いないと、弟子たちは考えたのである。

 

※皆さんの救いの時、皆さんは迷いもなく、また不安や恐れもなくイエス様を信じることが出来ただろうか?―私は出来なかった。救いに至る経過については、またその背景については、今までに何度も皆さんに話しているので、そのことは皆さん知っているだろうけれども、救いを受けるための祈りをする瞬間の時には、その時に至るまで、不安や恐れがあった。どんな不安や恐れだったか?というと;

 

 これは本当だろうか?本当に私は救われるのだろうか?と思った。罪は分かったので、救いのための祈りをしなければならないと、聖霊様に迫られていたので、それは分かったのだが、しかし、本当に救われるだろうか?変えられることができるだろうか?変わることができるのだろうか?と、恐れ、不安、疑いがあった。何故なら、それまで自分の力で変わろう、変えられたいと、いろんなことをやり、いろんなところを通って来たけれども、結局変わることが出来なかったということがあるので、今度またそうなったら、どうしたらよいだろうか?という不安や恐れ、また疑いであった。

 

 この時、弟子たちもそうだった。「イエス様だ。」とは分かったのだろうけれども、しかし、逆に「イエス様だ。」と分かったからこそ、「いや、そんなはずがない。いくら、イエス様でも人間だから、水の上をあることなど出来るわけがない。」と、彼らの知識、経験から、そのように考えたのである。

 

 人は誰でも、「救い」というイエス様のみわざ、神様の超自然的なみわざを、人間の知恵や知識、体験に基づく知恵や知識では、決して受け入れることが出来ない、自然には理解することは出来ない。それは本当に奇(くす)しいみわざだからである。

 

 そこで、そんなに恐れている弟子たちに対して、イエス様は;

 

Ⅴ27:「しかし、イエスはすぐに彼らに話しかけ、『しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない。』と言われた。」とある。

 

 私の時には、このような言葉はなかったが、私の場合は、不安や恐れはあったのだけれども、でも「もうこの時を逃したら、もう時はないかもしれない。大丈夫!」という聖霊様の促しが強かったので、「罪人の祈り」と呼ばれる、罪を告白して救いを受け入れる祈りをした。その時どう変わったか、それ以来どのように変わったか、何度か証をしたので覚えておられると思うので、それについては省く。

 

 この時、このイエス様の言葉に応答して、ペテロは;

 

Ⅴ28:「すると、ペテロが答えて言った。「主よ。もし、あなたでしたら、私に、水の上を歩いてここまで来い、とお命じになってください。」と言った。するとイエス様は;

 

Ⅴ29a:「来なさい。」と言われた。

 

※この後のイエス様とペテロとの問答、そして行動に、私たちの信仰生活とはどういうものであるのか、ということが明らかに示されている。ペテロは、その「来なさい。」というイエス様の言葉に応答して、舟から出て、水の上を歩いてイエス様の方に行ったのである。

 

Ⅴ29b:「そこで、ペテロは舟から出て、水の上を歩いてイエスのほうに行った。」

 

※イエス様を信じて歩むという私たちの信仰生活というものは、イエス様の言葉に従って、「水の上の歩く」という、超自然的な、「奇跡の中を歩むこと」なのである。勿論、それは文字通り「水の上を歩く」ということではない。イエス様を信じる信仰とは、その信仰によって、こんなことは無理だろう、こんなことは起こる筈がない、出来るわけがない、と自分の頭で考えることであっても、イエス様の言葉を信じて疑わず、イエス様がおっしゃるなら、神様がそう仰るなら、それを信じて疑わずに従って行くこと、歩むこと、それが水の上を歩む信仰生活、奇跡の中を歩む信仰生活なのです。

 

※そして、それは、私が受けたように、救いを受ける信仰の一歩から始まる。先ほど言ったように、私は救いを受け入れる時、恐れと不安があった。大丈夫だろうかという疑いもあった。しかし、聖霊様の促しにより、イエス様を信じた。これは、私の行ない、働きによるのではなく、神様の働き、神様の行ない、恵みです。だから、救いは恵みであって、行いではないと言われるのです。

 

エペソ2:8~9:「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。2:9 行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。」

 

※私たちはこのようにして、救われて、奇跡の人生を歩み始めた。水の上を歩み始めたのです。

 

◎この奇跡の人生、水の上を歩む信仰生活にとって大切なことは何か?―それは、何があってもなくても、イエス様を信じて疑わずに、イエス様だけに目を留めて、歩む続けること。ペテロは、せっかく水の上を歩み始めたのに、奇跡の人生を歩み始めたのに、それをしなかったので、沈みかけたのです。だからイエス様から、「信仰の薄い(無い)人だな。なぜ疑うのか。」(Ⅴ31)という言葉がかけられたのです。

 

【結論】

 これから私たちは一人ひとり、この信仰が試される時を迎えるだろう。否、もう迎えている。私たちは皆今、向かい風を受けて、波に悩まされている。

 

しかし、今日、一人ひとり、もうこの水の上を歩む者、神様の御手による奇跡の中を歩むことが許された、恵まれた者として、このお方を仰ぎ見て、そして、これから何も起ころうと起こるまいと、ただイエス様だけを信じて、イエス様から目を離さず、何があってもなくても疑わず、信じて従って行こう。

 

―祈り―