主日礼拝メッセージ:金子辰己雄師

【聖書箇所】

Ⅱコリント4:16:

【タイトル】

「日々新たにされる内なる人」

【導入】

 今年も猛暑の夏だったが、先週辺りから暑さも幾緩み過ごしやすくなった。我が家では今年は久しぶりにゴーヤを植えたが、長雨が続く中で今年は駄目かなと思っていたら、8月に入って一挙に成長し、沢山の実を結ぶようになった。毎朝雨戸を開けるたびに、今日は「どうかな」と楽しみにしていたが、そんな中で気付くことがあった。ある実はすくすくと成長するが、ある実は萎れて枯れてしまう。その理由は専門家で

ないので分からないが、はっきりと言えることは、成長して行く方には、成長に必要な養分が行き渡って行くが、萎れてしまう方には行かないということ。物の本を見ると、蔓科の植物は豊かな結実のためには摘心という作業が必要とのこと。

 聖書では、「わたしはまことのぶどうの木であり、わたしの父は農夫です。わたしの枝で実を結ばないものはみな、父がそれを取り除き、実を結ぶものはみな、もっと多く実を結ぶために、刈り込みをなさいます。」(ヨハネ15:1~2)とあり、また、「…。わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。」(Ⅴ4~Ⅴ5)とある。このように聖書は、私たちに、ぶどうの木であるイエス様にしっかりととどまることを求めている。そしてイエス様から実を結ぶための霊的養分をしっかりと受け取ることを求めている。今日は、「私たちはイエス様につながって霊的養分をしっかりと受けなければならない者」ということを頭に置きながら、「…。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。」(Ⅱコリント4:16)というみことばを合わせて考えて行きたい。それはどちらも、クリスチャンとしての霊的成長のことを取り上げているからです。

【本論】

 そもそも「私たちの外なる人」とは何だろう。また「内なる人」とは何だろう。私たちは「日々」とまでは行かなくても、年々肉体は衰えて行く。身長の変化、目や耳の昨日の低下等。しかし、この「外なる人」というのはそういうことを言っているのだろうか?年と共に張りがなくなり、皺やたるみが出て来る外見の肉体のことを言っているのだろうか。それもある。「土の器」(Ⅴ7)という言葉があるように、私たちは神の霊が吹き入れられて生きる土の器の肉体であるけれども、また、「私たち生きている者は、イエスのために絶えず死に渡されていますが、それは、イエスのいのちが私たちの死ぬべき肉体において明らかに示されるためなのです。」(Ⅴ11)とあるように、「死ぬべき肉体」であるけれども、それだけではない。前後のみことばを見て分かるように、「外なる人」とは、思いや考え、感情を含んだ精神のこと、心のことも指している。

Ⅴ8:「私たちは、四方八方から苦しめられますが、窮することはありません。途方にくれていますが、行きづまることはありません。」

 肉体が「窮すること」があるだろうか?肉体が「途方にくれること、行きづまること」があるだろうか?―窮したり、途方にくれたり、行きづまるのは、心です。また、「私たちは勇気を失いません。」(Ⅴ16)とあるように、「勇気」に関わること、つまり、心に関することでもある。「外なる人」とは、この肉体と共に私たちの心のことでもある。

 この個所でパウロは、コリント教会のクリスチャンに対して、そして今日の私たちに対して、外なる人の私たちがこの世で福音に相応しく生活し、福音宣教のために働こうとするならば、この世から迫害を受けたり、失望させられたり、苦しめられたりする。また、「いつでもイエスの死をこの身に帯びていますが」(Ⅴ10)とか、「私たち生きている者は、イエスのために絶えず死に渡されていますが、」(Ⅴ11)とあるが、これは実際に私たちの体が死ぬということではなく、イエス様が私たちのために御自身の体を十字架に付けて苦しまれたように、私たちも福音に相応しく生活し、福音宣教のために生きるならば、同じ苦しみを体験する。しかし、「失望しない、勇気を失わない。自分たちは大丈夫なのだ。」と言っているのです。

「私たちは、四方八方から苦しめられますが、窮することはありません。途方にくれていますが、行きづまることはありません。迫害されていますが、見捨てられることはありません。倒されますが、滅びません。」(Ⅴ8~Ⅴ9)。その理由は、「それは、主イエスをよみがえらせた方が、私たちをもイエスとともによみがえらせ、あなたがたといっしょに御前に立たせてくださることを知っているからです。」(Ⅴ14)というからです。

どんなに私たちの外なる人、私たちの肉体や私たちの心が衰えても、苦しんでも、私たちのために死んでよみがえってくださったイエス様が、私たちを慰め、励まし、生かしていてくださるというのです。そして、このイエス様によって新しく生まれ、生かされている私たちこそ、「内なる人」のことです。それは、「わたしはよみがえりです。いのちです。」(ヨハネ11:25a)と仰るイエス様が、「イエス・キリストは、きのうもきょうも、いつまでも、同じです。」(へブル13:8)と仰るイエス様が、私たちの中に住んでいて下さり、私たちのうちに絶えず新しいいのちを流し続け、注ぎ続けて下さるからです。

 ゴーヤの実は、蔓につながって豊かに実が結ばれた。みことばが言うように、ぶどうの実も、枝が木にしっかりと留まり続けているならば、豊かに実が結ばれる。そのように、イエス様の贖いによって救われた私たちの「内なる人」は、イエス様に繋がり続けているならば、日々新たにされて行くのです。

 新改訳聖書では、「新たにされています。」となっているが、正確には、「新たにされ続けています。」ということです。Being 現在進行形です。だから重要なことは、日々、今日、今がどうであるかということです。昨日繋がっていたから、今日はいいということではない。さっき繋がっていたから、今はいいということではないのです。「わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。同様にあなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。」(ヨハネ15:4)。また、「わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。」(ヨハネ15:5)とある通りです。

【結論】

 マルチン・ルターは次のような言葉を残している。「たとえ明日、世界が滅亡しようとも、今日私はリンゴの木を植える。」。いろいろ解釈があるが、はっきりと言える一つのことは、「明日はどうであろうと、今日どうするか!」ということ。少し広げて言うなら、「昨日はどうであっても、今日どうするか!」ということです。だから今日、私たちは皆、クリスチャンであってもそうでなくても、例外なく「外なる人は衰えて行く。」しかし、私たちは知らなければならない。それは、クリスチャンであるならば、イエス様を信じて救われた者であるならば、イエス様につながり続けることにより、イエス様を私たちの救い主、王の王として信じて、つながり続けて行くならば、イエス様の尽きることのない新しいいのちにより、私たちは皆例外なく、「内なる人は日々新たにされて行く」のです。

―祈り―

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