2020年10月4日 主日礼拝メッセージ:金子辰己雄師

【聖書箇所】

マタイ7:1~5

【タイトル】

「聖い生き方をする敬虔な者(11)」

ーはっきりと見える目を持とう!―

【本論】

 この個所は、Ⅴ1「さばいてはいけません。さばかれないためです。」から、人を裁いてはいけないということが教えられていると思われているが、勿論、それもここでのメッセージの一つだが、ここの中心的テーマはそうではない。ここの中心的テーマは、Ⅴ5「偽善者よ。まず自分の目から梁を取りのけなさい。そうすれば、はっきり見えて、兄弟の目からも、ちりを取り除くことができます。」とあるように、裁くにしても何をするにしても、事の本質をはっきりと見えるようになるということが大切であって、それから間違いなくことを為すことができる、裁くことが出来るということを教えているのです。

 イエス様はこの山上の垂訓を弟子に向かって語っているが、その背後に、弟子たちが生きている社会の宗教的指導者、律法学者や祭司、またパリサイ人達を意識して、「彼らのようであってはならない」ということを教えるために語っているのである。例えば;

マタイ5:31~32:「また『だれでも、妻を離別する者は、妻に離婚状を与えよ』と言われています。しかし、わたしはあなたがたに言います。だれであっても、不貞以外の理由で妻を離別する者は、妻に姦淫を犯させるのです。また、だれでも、離別された女と結婚すれば、姦淫を犯すのです。」

 このように、「あなたがたは『…。』と言われているのを聞いている」がと、弟子を始めとして一般の人々は、当時の宗教的指導者や律法学者やパリサイ人から、「…。」と教えられているが、「私はこう言う。」と、聖書の教えを正しく教えるために弟子たちに語っているのである。というのは、律法学者やパリサイ人は、聖書の教えを彼らの都合のよいように解釈し、それを教えていたからである。或いは、正しく教えてはいても、彼ら自身がそれを守っていなかったからである。そのことが分かるイエス様とパリサイ人たちとの離婚に関するやり取りを見てみよう。

マタイ19:3~9:「パリサイ人たちがみもとにやって来て、イエスを試みて、こう言った。「何か理由があれば、妻を離別することは律法にかなっているでしょうか。」イエスは答えて言われた。「創造者は、初めから人を男と女に造って、『それゆえ、人は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となる。』と言われたのです。それを、あなたがたは読んだことがないのですか。それで、もはやふたりではなく、ひとりなのです。こういうわけで、人は、神が結び合わせたものを引き離してはなりません。」彼らはイエスに言った。「では、モーセはなぜ、離婚状を渡して妻を離別せよ、と命じたのですか。」イエスは彼らに言われた。「モーセは、あなたがたの心がかたくななので、その妻を離別することをあなたがたに許したのです。しかし、初めからそうだったのではありません。まことに、あなたがたに告げます。だれでも、不貞のためでなくて、その妻を離別し、別の女を妻にする者は姦淫を犯すのです。」

 彼らは当時、些細なことでも、いろいろ理由をつけて離婚状を渡して妻を離別していた。そんな彼らにイエス様はこのように言われた。彼らは、マタイ15:6にあるイエス様の言葉のように、「自分たちの言い伝えのために、神のことばを無にしていた。」のである。そういう背景の中で、イエス様は弟子たちに対して、神様のみこころを悟り、事の本質をはっきりと理解して、人を裁く必要があるならば正しく裁きなさいということを教えているのです。決して裁いてはいけないということを言おうとしているのではない。何故なら、Ⅴ3~Ⅴ4「また、なぜあなたは、兄弟の目の中のちりに目をつけるが、自分の目の中の梁には気がつかないのですか。兄弟に向かって、『あなたの目のちりを取らせてください。』などとどうして言うのですか。見なさい、自分の目には梁があるではありませんか。」と言われるように、裁く者の目の中に相手の「ちり」よりも大きな「梁」があっては、決して「ちり」を取り除くことなど出来ない、つまり、正しく裁くことなど出来ないのだから、正しく裁こうと思うなら、相手の目の中の「ちり」を取り除こうとするならば、Ⅴ5のように、「偽善者たち。まず自分の目から梁を取りのけなさい。そうすれば、はっきり見えて、兄弟の目からも、ちりを取り除くことができます。」、正しく裁くことが出来ると言うのです。

 この「偽善者」という言葉は、原語では「ヒュポクリテース」という言葉が使われている。これは、動詞の「ヒュポクリノー」という言葉から来ていて、この「ヒュポクリノー」は、「ヒュポ」(~以下、~より低い、~が欠如しているという意味)と、「クリノー」(決める、理解する、判断する、裁くという意味)の二つの言葉から出来ていて、従って、「本当は決めたり、判断したり、理解したり、裁いたりすることが出来ないのに、それが出来るかのように振舞う、見せかける、偽装する、演じる」という意味を持つ。

 人は誰でも目の中に「ちり」(ある聖書では「おが屑、木くず」)を持っている。つまり、小さな物かもしれないが、それが目の中にあれば視界を遮って完全には見えないということ。つまり、人の不完全さを示しているのである。ところが、そうであるにも拘わらず、何でも分かっているかのように振舞う所に問題がある。イエス様はそれを「目の中の梁」(ある聖書では「丸太」)と呼んだのです。つまり、「ちり」であろうと「梁」であろうと、同じ木から出来ているということで、人には大なり小なり、同じような「ちり」、欠けがあるということなのです。では、どうしてその同じ「ちり」が「梁」になるかと言うと、「ちり」があるにも拘わらず、私は完全で何でも分かっている」というようなプライド、驕り、自己過信があるから、それが「梁」になると言うのです。見えるものもさらに見えなくなるというのです。

 イエス様はそれを指摘された。だから、正しく物事を理解し、何かを決めるためには、先ず自分の目から「梁」、そのような高ぶり、プライド、自己過信を捨てなさいと言う。それによって、私たちははっきりと目が見えるようになるのです。

 黙示録には現代の代表的な教会の姿が描かれているが、その中にラオデキヤの教会がある。この教会の問題の一つは高慢だった。だから神様はその教会に対して次のように言っている。

黙示3:17~18:「あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、乏しいものは何もないと言って、実は自分がみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸の者であることを知らない。わたしはあなたに忠告する。豊かな者となるために、火で精錬された金をわたしから買いなさい。また、あなたの裸の恥を現さないために着る白い衣を買いなさい。また、目が見えるようになるため、目に塗る目薬を買いなさい。」

 目薬とは、神のみことばであり、聖霊様です。聖霊様に従う時、私たちは自分の真の姿を知ることが出来る。肉は私たちを高ぶらせ、御霊に逆らうけれども、聖霊様は真の教師だから、私たちを遜らせてくださり、事の本質をはっきり見えるようにさせて下さるのです。そして、「誠実、柔和=謙遜、自制」という敬虔の実を結ばせて下さるのです。

【結論】

 終末の時代の教会にはさまざまな誘惑が働く。私たちはそのような誘惑に掛からないために、また聖い生き方をする敬虔さを保つためにも、目がはっきりと見えて、何が神のみこころなのか、何が良いことなのかを弁え知るために、御霊に導かれて、遜って神と共に歩んで行こう。

ミカ6:8:「主はあなたに告げられた。人よ。何が良いことなのか。【主】は何をあなたに求めておられるのか。それは、ただ公義を行い、誠実を愛し、へりくだってあなたの神とともに歩むことではないか。」

―祈り―

これまでのメッセージ

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