個人的な関係 A Personal Relationship


 「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。」(ヨハネ1:14)


 アダムの堕罪の結果、何がアダムにもたらされたか?それは、アダムとエバが、それにより現実を真に認知することが出来なくなってしまったことである。創世記3章7節~8節によると、彼らは神から身を隠そうとしたとある。それこそ彼らが神の現実を真に認識することが出来なくたってしまった証拠ではないだろうか。一体誰が神から隠れることが出来るというのだろうか。結局のところ、アダムとエバは罪を犯した結果、正しい思考力を失い、神について正しく理解することが出来なくなってしまったのである。


 神の創造においては、「知る」ということは関係の上に成り立つことであった。「誰かを知っている」ということは、個人的な親密性のある関係を示すのである。創世記4章1節に「人は、その妻エバを知った。彼女はみごもって・・・。」とある通りである。しかし私たちは未だ、「人を知る」ということが、そのように個人的に親密に知るというものであるという所までには理解が至っていないのである。堕罪後、アダムとエバは神を知った。勿論それは性的な意味ではなく、結婚のような親密な人と人との関係性においてであった。彼らは神と共に居るということで、神を知ったのである。彼らは罪を犯した時、そして園から追放された時、彼らは神との関係を失い、その関係性そのものである神を知る力を失ったのである。

 私たちは、アダムとエバのそのような無能さを受け継いでいる。キリストを知る前、私たちは神にいくらかは知っていた。しかし、神ご自身を関係性において親密に知るということは無かったのである。

 この神を関係性において親密に知るということは、ヨハネの福音書の中の言葉「ことば」(ギリシャ語で「ロゴス」)が「人となって」(ヨハネ1章14節)という所に明確に示されている。「ロゴス」という言葉は哲学的知性において最高の位置を占める言葉なので、ギリシャ人にとって、「ロゴスが人となった」ということは、究極的に知性が個人的な関係の中に現れたということなのである。神はヨハネを通して、神との親密な関係の中に於いてしか知ることが出来ない神を知る真の知識が、今、イエス・キリストという肉体を持った人を通して知ることが出来るということを世界に表したということなのである。

 キリストにあって、私たちは、ただ神を知るというだけではなく、神を個人的に知ることが出来るのです。


「主よ、今私はあなたとの親密な関係性を深く求めています。今日、私はあなたを個人的にもっと知ることを求めます。」(ニール・アンダーソン)

Freedom in Christ Ministries International 掲載許可

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