主日礼拝メッセージ 金子辰己雄師

【タイトル】

「小預言書(24)ホセア書⑪―親の愛、神の愛―」 

【聖書個所】

ホセア11:1~12

【導入】

 神の愛は親の愛に似ているとよく言われる。今日はホセア書から、私たちを無条件の愛で愛して下さっている父なる神様に対して、「私たちは神の子供としてどうあらねばならないか」、つまり、「子の、親に対して持つべき心」について学んで行きたいと思う。

【本論】

V1:「イスラエルが幼いころ、わたしは彼を愛し、わたしの子をエジプトから呼び出した。」

 これは、「彼」をイスラエルの民とするならば、イスラエルの民の出エジプトのことであり、また、「彼」を「わたしの子」という呼び方から、神の御子であるイエス様とするならば、イエス様の出エジプトのことを預言したものでもある。イスラエルの民の出エジプトのことは私たちはみな知っているが、「イエス様の出エジプト」のこととは何のことか?―それは、マタイ2:13~15:「彼らが帰って行ったとき、見よ、主の使いが夢でヨセフに現れて言った。『立って、幼子とその母を連れ、エジプトへ逃げなさい。そして、私が知らせるまで、そこにいなさい。ヘロデがこの幼子を捜し出して殺そうとしています。』そこで、ヨセフは立って、夜のうちに幼子とその母を連れてエジプトに立ちのき、ヘロデが死ぬまでそこにいた。これは、主が預言者を通して、『わたしはエジプトから、わたしの子を呼び出した。』と言われた事が成就するためであった。」そして、マタイ2:19~21:「ヘロデが死ぬと、見よ、主の使いが、夢でエジプトにいるヨセフに現れて、言った。『立って、幼子とその母を連れて、イスラエルの地に行きなさい。幼子のいのちをつけねらっていた人たちは死にました。』そこで、彼は立って、幼子とその母を連れて、イスラエルの地に入った。」とあるように、ヘロデの殺害の手からの救いに関わるエジプト脱出の出来事のことである。どちらも、イスラエルが幼いころ、またイエス様が幼いころに神様が成して下さった救いのみわざである。

※神様の救いのみわざがイスラエルの民の上に、またイエス様の上に現わされていたように、神様は私たち「罪の世界」=「エジプト」から救おうと、私たちを救いへ

導こうとされている。これが神様の私たちに対する救いの御計画であり、みこころなのです。

V2:「それなのに、彼らを呼べば呼ぶほど、彼らはいよいよ遠ざかり、バアルたちにいけにえをささげ、刻んだ像に香をたいた。」

「それなのに」、民は、私たちはそのみこころに応えようとしない者である。

V3:「それでも、わたしはエフライムに歩くことを教え、彼らを腕に抱いた。しかし、彼らはわたしがいやしたのを知らなかった。」

「それでも」神様は、不従順な幼い私たちに歩くことを教え、守り導いてくださる。「しかし」、民は、また私たちは、その神様の守りも、救いも知らないと言うのである。しかし、それでも、

V4:「わたしは、人間の綱、愛のきずなで彼らを引いた。わたしは彼らにとっては、そのあごのくつこをはずす者のようになり、優しくこれに食べさせてきた。」

 「くつこ」とは、家畜が餌を食べないようにと、口に結び付けたかごのこと。そのくつこをはずすように、神は私たちを優しく諭し、守り、導いてくださるのです。

※ここに、私たちの頑なさ、不従順、罪深さがあると同時に、神様の豊かな愛と憐みがある。