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主日礼拝メッセージ 金子辰己雄師

April 23, 2017

【タイトル】

「小預言書(24)ホセア書⑪―親の愛、神の愛―」 

 

【聖書個所】

ホセア11:1~12

 

【導入】

 神の愛は親の愛に似ているとよく言われる。今日はホセア書から、私たちを無条件の愛で愛して下さっている父なる神様に対して、「私たちは神の子供としてどうあらねばならないか」、つまり、「子の、親に対して持つべき心」について学んで行きたいと思う。

 

【本論】

V1:「イスラエルが幼いころ、わたしは彼を愛し、わたしの子をエジプトから呼び出した。」

 これは、「彼」をイスラエルの民とするならば、イスラエルの民の出エジプトのことであり、また、「彼」を「わたしの子」という呼び方から、神の御子であるイエス様とするならば、イエス様の出エジプトのことを預言したものでもある。イスラエルの民の出エジプトのことは私たちはみな知っているが、「イエス様の出エジプト」のこととは何のことか?―それは、マタイ2:13~15:「彼らが帰って行ったとき、見よ、主の使いが夢でヨセフに現れて言った。『立って、幼子とその母を連れ、エジプトへ逃げなさい。そして、私が知らせるまで、そこにいなさい。ヘロデがこの幼子を捜し出して殺そうとしています。』そこで、ヨセフは立って、夜のうちに幼子とその母を連れてエジプトに立ちのき、ヘロデが死ぬまでそこにいた。これは、主が預言者を通して、『わたしはエジプトから、わたしの子を呼び出した。』と言われた事が成就するためであった。」そして、マタイ2:19~21:「ヘロデが死ぬと、見よ、主の使いが、夢でエジプトにいるヨセフに現れて、言った。『立って、幼子とその母を連れて、イスラエルの地に行きなさい。幼子のいのちをつけねらっていた人たちは死にました。』そこで、彼は立って、幼子とその母を連れて、イスラエルの地に入った。」とあるように、ヘロデの殺害の手からの救いに関わるエジプト脱出の出来事のことである。どちらも、イスラエルが幼いころ、またイエス様が幼いころに神様が成して下さった救いのみわざである。

 

※神様の救いのみわざがイスラエルの民の上に、またイエス様の上に現わされていたように、神様は私たち「罪の世界」=「エジプト」から救おうと、私たちを救いへ

 

導こうとされている。これが神様の私たちに対する救いの御計画であり、みこころなのです。

 

V2:「それなのに、彼らを呼べば呼ぶほど、彼らはいよいよ遠ざかり、バアルたちにいけにえをささげ、刻んだ像に香をたいた。」

「それなのに」、民は、私たちはそのみこころに応えようとしない者である。

 

V3:「それでも、わたしはエフライムに歩くことを教え、彼らを腕に抱いた。しかし、彼らはわたしがいやしたのを知らなかった。」

「それでも」神様は、不従順な幼い私たちに歩くことを教え、守り導いてくださる。「しかし」、民は、また私たちは、その神様の守りも、救いも知らないと言うのである。しかし、それでも、

 

V4:「わたしは、人間の綱、愛のきずなで彼らを引いた。わたしは彼らにとっては、そのあごのくつこをはずす者のようになり、優しくこれに食べさせてきた。」

 「くつこ」とは、家畜が餌を食べないようにと、口に結び付けたかごのこと。そのくつこをはずすように、神は私たちを優しく諭し、守り、導いてくださるのです。

 

※ここに、私たちの頑なさ、不従順、罪深さがあると同時に、神様の豊かな愛と憐みがある。

 

V5~V7:「彼はエジプトの地には帰らない。アッシリヤが彼の王となる。彼らがわたしに立ち返ることを拒んだからだ。剣は、その町々で荒れ狂い、そのかんぬきを絶ち滅ぼし、彼らのはかりごとを食い尽くす。わたしの民はわたしに対する背信からどうしても離れない。人々が上にいます方に彼を招いても、彼は、共にあがめようとはしない。」

 

 「彼」とは「エフライム」=イスラエルのこと。エフライムはエジプトで生まれたヨセフの子。だからアッシリヤが攻め込んで来た時、イスラエルはエジプトに逃れようとするが、それが出来ないというのである。「アッシリヤが彼の王となる。彼らがわたしに立ち返ることを拒んだからだ。」とあるように、アッシリヤの「剣」=「軍勢」により滅ぼされ、「彼らのはかりごと」であるエジプトに助けを求める計画も成ることはないという。そして、「人々」=「預言者」が、「上にいます方」=「神様」に「彼」=「イスラエル」を招いても、「彼は、共にあがめようとはしない。」と言うのである。これは、イスラエルの民の背信と、アッシリヤによる攻略の有様である。そういう中で、

 

V8~V9:「エフライムよ。わたしはどうしてあなたを引き渡すことができようか。イスラエルよ。どうしてあなたを見捨てることができようか。どうしてわたしはあなたをアデマのように引き渡すことができようか。どうしてあなたをツェボイムのようにすることができようか。わたしの心はわたしのうちで沸き返り、わたしはあわれみで胸が熱くなっている。わたしは燃える怒りで罰しない。わたしは再びエフライムを滅ぼさない。わたしは神であって、人ではなく、あなたがたのうちにいる聖なる者であるからだ。わたしは怒りをもっては来ない。」

 

 「アデマ/ツェボイム」は、ソドムやゴモラと同じように、繁栄はしていても腐敗した町。それゆえに滅ぼされた。神様は御自身の子であるイスラエルの民を、そのように滅ぼすことはしないと言う。どうして親が子を滅ぼす者に引き渡すことが出来ようかと言う。ここに、神様の熱い胸の内が語られている!しかし、この後彼らは、アッシリヤによってBC721年に攻略され、諸国に移住させられる。それは彼らの不従順、頑なさのゆえにであった。しかし、

 

V10~V11:「彼らは【主】のあとについて来る。主は獅子のようにほえる。まことに、主がほえると、子らは西から震えながらやって来る。彼らは鳥のようにエジプトから、鳩のようにアッシリヤの地から、震えながらやって来る。わたしは、彼らを自分たちの家に住ませよう。──【主】の御告げ──」

 

 終末の預言の成就として、イスラエルの民は神に対して「震えながら」(不従順の罪を恥じながら、恐れおののきながら)帰って来ると言う。

 

【結論】

 このように神様は、ご自身の民であるイスラエルを、そして私たちを、イエス・キリストを通し、「エジプト」=「罪の中」から、神の都であるエルサレム、ご自身の身許へと集めてくださるのです。その神様の私たちへの愛は、次の親が子を集めようとする愛に現わされている。

 

ルカ13:34~35:「ああ、エルサレム、エルサレム。預言者たちを殺し、自分に遣わされた人たちを石で打つ者、わたしは、めんどりがひなを翼の下にかばうように、あなたの子らを幾たび集めようとしたことか。それなのに、あなたがたはそれを好まなかった。…。」

 

 また、御自身の都であるエルサレムに対して流されたイエス様の涙にも現わされている。

 

ルカ19:41~44:「エルサレムに近くなったころ、都を見られたイエスは、その都のために泣いて、言われた。「おまえも、もし、この日のうちに、平和のことを知っていたのなら。しかし今は、そのことがおまえの目から隠されている。やがておまえの敵が、おまえに対して塁を築き、回りを取り巻き、四方から攻め寄せ、 そしておまえとその中の子どもたちを地にたたきつけ、おまえの中で、一つの石もほかの石の上に積まれたままでは残されない日が、やって来る。それはおまえが、神の訪れの時を知らなかったからだ。」

 

※しかし、私たちはこのイエス様のみわざにより救いに預かった。今は恵みの時、救いの日です。だから、この恵みの時であることを覚え、恵みに応えて歩んで行こう。神様が「それなのに」ということのないように!

 

―祈り―

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