主日礼拝メッセージ 金子辰己雄師

【タイトル】

「イスラエルの回復と主のみこころ(3)―イスラエルは私たちの愛すべき兄弟―」

【聖書個所】

ルカ15:11~32:

【導入】

 今日はルカ15:11~32の放蕩息子の箇所から、「イスラエル人と私たちとの関係」について見て、そこに現わされている主のみこころを学んで行く。放蕩息子の譬えからイスラエル人と異邦人の関係を見るというと、伝統的な見方として、父の許から出て行って放蕩を尽くし、真の神に気付いて立ち返った弟が異邦人であると言う風に考える。それは、エペソ2:11~12の「キリストから離れ、イスラエルの国から除外され、約束の契約については他国人であり、この世にあって望みもなく、神もない人たちでした。」のみことばからそう言われる。そして、父の家に居て、まじめに働いていた兄の方をイスラエル人という風に考える。しかし今日は反対に考え、まじめに父に仕えている兄を私たち異邦人とし、放蕩を果たして帰って来た弟をイスラエル人と考えて、その関係の中から父なる神のイスラエルの回復に対するみこころを学んで行こうと思う。

【本論】

 連休が始まった。連休中は田舎に帰ったりする計画があると思うが、田舎に帰る人にとっては、それは懐かしいものであり、ワクワクした気持ちになるものである。イスラエルの民にとっても、1948年5月14日の建国はそのようなものだった。AD70年にエルサレムがローマ軍によって破壊されて以来、イスラエルの民は国を失い、約1,900年の間、世界に離散していた。このように2,000年近くも国を失ったままでいた民族が、再び国を持つということは歴史上かつてない。それは、イスラエル民族は神によって選ばれた民族として、その国の再建が聖書の中で預言されていたからである。その成就した預言を幾つか見てみよう。

イザヤ43:5:「恐れるな。わたしがあなたとともにいるからだ。わたしは東から、あなたの子孫を来させ、西から、あなたを集める。」

エゼキエル36:24:「わたしはあなたがたを諸国の民の間から連れ出し、すべての国々から集め、あなたがたの地に連れて行く。」

 イザヤの時代とエゼキエルの時代には約150年の開きがあるが、年代や人物が違っていても、イスラエルの再建に関する預言には変わりはない。それは神の言葉だからである。彼らは、実際には建国に先立つ19世紀後半から現在のイスラエルの地に帰還し始め、多くの苦難や迫害を経験して建国を果した。そして多くのユダヤ人が世界各国から今なお帰還している。それは、聖書の預言のように、そのようにして神様が御自身の民をこの終わりの時代に集めているのであり、また神様はそのように、ご自身の民が帰って来るのを待っておられるのである。ちょうど放蕩息子が自分の財産の分け前をもらい、遠い国に行ってそれを使い果たし、大飢饉が起こって彼は食べるにも困り始めた時、その国のある人のもとに身を寄せて助けてもらおうとしたが、誰からも助けてもらうことがなく、万事窮す、底尽きになった時に我に返って、「父のところには、パンのあり余っている雇い人が大ぜいいるではないか。それなのに、私はここで、飢え死にしそうだ。立って、父のところに行って、こう言おう。『お父さん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。雇い人のひとりにしてください。』こうして彼は立ち上がって、自分の父のもとに行った。ところが、まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけ、かわいそうに思い、走り寄って彼を抱き、口づけした。」(ルカ15:17~20)とあるように、父なる神様は、AD70年に国を失い、それ以来世界各国に離散して、離散して行った先の国々で放蕩息子のように歓待されることなく、財産等を持つことも許されず、迫害と追放の憂き目にあって来たイスラエルの民が再び約束の地に帰って来るのを、今も首を長くして待っているのである。その神様の御心をよく表現しているのが、現代訳聖書である。

ルカ15:20:「そこで立って、父の家へ向かって行った。ところが、まだ家からずいぶん離れた所まで来た時、あの日以来、ずっと彼を待ちわびていた父親は、遠くから彼を見つけ、哀れに思って走り寄り、彼を抱きかかえて、何度も何度も口づけした。」

 「まだ家まで遠かったのに」、息子を見つけることが出来たのは、父なる神様が、「あの日以来、ずっと彼を待ちわびていた」からです。だから父親は彼に一番良い着物を着させ、手に指輪をはめさせ、足に靴をはかせた。そして肥えた子牛を引いて来てほふり、食べて祝宴を開いたのです。そんな父親に対し、ずっと父親の下に居て仕えていた兄はこう言った。

ルカ15:29~30:「…。『ご覧なさい。長年の間、私はお父さんに仕え、戒めを破ったことは一度もありません。その私には、友だちと楽しめと言って、子山羊一匹下さったことがありません。それなのに、遊女におぼれてあなたの身代を食いつぶして帰って来たこのあなたの息子のためには、肥えた子牛をほふらせなさったのですか。』」と。それに対する父親の言葉は;

ルカ15:31~32:「父は彼に言った。『子よ。おまえはいつも私といっしょにいる。私のものは、全部おまえのものだ。だがおまえの弟は、死んでいたのが生き返って来たのだ。いなくなっていたのが見つかったのだから、楽しんで喜ぶのは当然ではないか。』」

 これはどこかで聞いたような言葉である。この父親の言葉は、取税人ザアカイに対するイエス様の言葉でもある。

ルカ19:9~10:「イエスは、彼に言われた。『きょう、救いがこの家に来ました。この人もアブラハムの子なのですから。人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです。』」

 アブラハムの子でありながらイスラエル人であることを忘れていたザアカイは、イエス様に出会って我に返り、イスラエル人ならば当然すべきこと(施しと償い)をした。これは、神の民であるイスラエルの回復の姿であり、そのために来たというイエス様の目的を告げた言葉です。イエス様は、12弟子を選んで遣わす時にもこう言われた。マタイ10:6:「イスラエルの家の失われた羊のところに行きなさい。」そして、シドンの地方でカナン人の女が現れた時も、弟子たちに、マタイ15:24:「しかし、イエスは答えて、『わたしは、イスラエルの家の失われた羊以外のところには遣わされていません。』と言われた。

※これは、イエス様の偏狭な心ではなく、罪=的を外している民であるイスラエルに対する愛と憐みに満ちた御心である。この御心をもって、神様は兄に、そして私たちに語っているのである。

ルカ15:31~32:「父は彼に言った。『子よ。おまえはいつも私といっしょにいる。私のものは、全部おまえのものだ。だがおまえの弟は、死んでいたのが生き返って来たのだ。いなくなっていたのが見つかったのだから、楽しんで喜ぶのは当然ではないか。』」と。

 私たちはイエス様にこのように言われている。

マタイ28:18~20:「イエスは近づいて来て、彼らにこう言われた。「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。」と、福音宣教と弟子作り、そして教会形成が命じられた。その時、イエス様は私たちにこう言われた。V20:「見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」と。

【結論】

 愛する兄姉の皆さん。私たちは、「先の者が後になり、後の者が先になる。」(マタイ20:16)という神様の恵みにより救われた。だから私たちはこの神様の恵みと、イスラエルに対する神様の御心を覚え、先に救われて天のお父様の家にいる者として、私たちの兄弟であるイスラエルの民が救われるように祈り、そのための働きをしよう。

ローマ11:28~29:「彼らは、福音によれば、あなたがたのゆえに、神に敵対している者ですが、選びによれば、父祖たちのゆえに、愛されている者なのです。神の賜物と召命とは変わることがありません。」

―祈り―

これまでのメッセージ

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