主日礼拝メッセージ 金子辰己雄師

【タイトル】

「家族の救いと信仰の継承(6)―家族の救いは自分から―」

【聖書個所】

マルコ9:14~24

【導入】

 今日この聖書個所を選んだのは、この後イエス様は、この子に取り憑いているおしとつんぼの霊に向かい、V25:「おしとつんぼの霊。わたしがおまえに命じる。この子から出て行きなさい。二度と入ってはいけない。」と命じ、この子とその父親を長い間苦しめていたものからこの親子を解放された。今日は、その解放のわざそのものについて語るのではなく、先程読んだように、自分の子をおしとつんぼの霊から解放してもらうためにイエス様のところに連れて来て、そしてイエス様と問答しているこの父親の言葉から、今年の私たちのテーマである「家族の救い」について、何が鍵になるのかを学んで行こうと思う。

【本論】

 イエス様がペテロとヤコブ、そしてヨハネを連れて山に登り、変貌を遂げてから再び山から下りて来ると、律法学者を始めとして、人々が残りの9人の弟子たちの周りに群がり議論していた。イエス様が、V16:「あなたがたは弟子たちと何を議論しているのですか。」と聞かれると、その群衆の中の一人がイエス様に答えて言った。

V17:「先生。口をきけなくする霊につかれた私の息子を、先生のところに連れて来ました。その霊が息子にとりつくと、所かまわず彼を押し倒します。そして彼はあわを吹き、歯ぎしりして、からだをこわばらせます。それでお弟子たちに、霊を追い出すよう願ったのですが、できませんでした。」

 するとイエス様は、弟子たちも含め、そこにいるすべての人に対してこう言った。

V19:「ああ、不信仰な世だ。いつまであなたがたといっしょにいなければならないのでしょう。いつまであなたがたにがまんしていなければならないのでしょう。その子をわたしのところに連れて来なさい。」

 「ああ、不信仰な世だ。」と、イエス様は彼らを責められた。そして、「その子をわたしのところに連れて来なさい。」と言われた。そこで、人々がその子をイエス様のところに連れて来ると、

V20:「その子」(脚注:「その霊」)がイエスを見ると、霊はすぐに彼をひきつけさせたので、彼は地面に倒れ、あわを吹きながら、ころげ回った。」と言う。そうすると、

V21:「イエスはその子の父親に尋ねられた。『この子がこんなになってから、どのくらいになりますか。』父親は言った。『幼い時からです。』」

このイエス様の、この父親に対する質問は不思議である。目の前で苦しんでいる子供に対して何もすることなく、父親に対して「この子がこんなになってから、どのくらいになりますか。」と、ある意味、悠長に尋ねているのである。ちょうど交通事故で瀕死の状態になっている人が救急病院に運び込まれたのに、医者が「どうしてこの人は交通事故にあって、こんな状態になってしまったのですか?」と、付き添いに訊いているようなものである。

※しかし、ここに私たちが「家族の救い」に関して覚えて置かなければならない重要な鍵がある。それは、「家族の救い」は、先ずそれを求める自分たちから始まるということ。イエス様は、おしやつんぼの霊に取り憑かれ、イエス様や父親、弟子や群衆の前であわを吹きながら転がり回っている子供には何もしないで、その父親に対して「この子がこんなになってから、どのくらいになりますか。」と尋ねた。それは、それがこの子にとっても、またこの父親にとっても、それが先ずこの時一番優先すべき大切なことだったからです。イエス様には、どんな時でも、判断の誤りとか見当違いなどはないのである。また、私たちが苦しんでいるのを放っておいて、それを弄ぶことなどないからです。

 イエス様が、「この子がこんなになってから、どのくらいになりますか。」と訊くと、父親は、「幼い時からです。」と答えた。この「幼い時からです。」の「時の経過」がどの位かは分からない。しかし、その時の経過がどの位かは分からなくても、唯一分かることがある。それは、この時のこの父親の子供の状態(おしやつんぼの霊が取り憑くと、このように子供がなってしまうということ)に対する「事の重大さ」に対する深刻さ、「事の重大さ」を深く受け止める深刻さが欠けていたということです。人は、どんなに大変な事態が起きても、それがずーっと続くことなく、間歇的に起きることだとするならば、「喉元過ぎれば熱さ忘れる。」という諺があるように、「事の重大さ」を深く受け止めることは難しい。人は何事も、良いことであっても悪いことであっても忘れやすいものだからである。従って、深く受け止めることがなければ、人はその事態に対する解決への強い求め、飢え渇きを持つことも難しいでしょう。この時この父親は、イエス様の「この子がこんなになってから、どのくらいになりますか。」の問いに対して次のように答えた。

V22:「この霊は、彼を滅ぼそうとして、何度も火の中や水の中に投げ込みました。ただ、もし、おできになるものなら、私たちをあわれんで、お助けください。」

 この彼の「もし、おできになるものなら」という言葉に、そのことが表わされている。必死さが欠けているのである。イエス様に対する飢え渇き、信仰の欠け=不信仰が表されている。イエス様は、初めの質問「この子がこんなになってから、どのくらいになりますか。」により、彼の事の重大さに対する気付きを呼び起こさせ、それと同時に、それに比例するかのように表れていたこのイエス様に対する不信仰ぶりを示す答えに対して、イエス様は次のように言われた。

V23:「するとイエスは言われた。「できるものなら、と言うのか。信じる者には、どんなことでもできるのです。」と。これは、信じる者はどんなことでも出来るということではなく、「神様を必死に求め、神様に信頼して求める者、信じる者」に対しては、「神様はどんなことでも出来るのである。」ということです。つまり、「必死になって求めなさい。」ということなのである。そのイエス様の言葉を聞いて、父親はこう言った。

V24:「するとすぐに、その子の父は叫んで言った。「信じます。不信仰な私をお助けください。」と。これを抄訳聖書で見ると、抄訳:「すると、その子の父親は、涙を流して<心からの、肺腑をえぐるような、言葉にならない>叫び声をあげて、言った。「主よ。信じます。私の弱い信仰をいつもお助けください。」となっている。

※これです!―イエス様は、父親がこの言葉を持って、自分を助けて下さいと自分の口から自分の弱さを告白し、ことの重大さ、それは実は子供の問題ではなく、彼自身がそれに気付いていないという、その「事の重大さ」に気付き、肺腑をえぐるような思い(憐み:(ギ)スプランクニゾマイ)を持って、心の底から悔い改め、必死になってイエス様に助けを求めさせるために、あの「この子がこんなになってから、どのくらいになりますか。」という問いをされたのである。

【結論】

 私たちは、どれだけ深刻な思いで家族の救いを求めているだろうか?今年の祈りの課題を出して下さったのは6人です。その中のある人は、「家族の救いを本気で祈る。」とあった。そうするならば、主は必ずその方の祈りを聞いて下さると信じます。私たちの家族の状況、これまでの年月にはそれぞれ違いがある。しかし、それがどんなに違っていても、またどんなに長い時の経過があるにしても、「信じる者には、どんなことでもできる。」のである。

※今日、イエス様は私たち一人一人にもこう尋ねておられる。「あなたの家族がこんなになってから、どのくらいになりますか。」と。今もう一度、主のこの言葉を真剣に受け止めてみよう。そして祈ろう!「信じます。不信仰な私をお助けください。」

―祈り―

これまでのメッセージ

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