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これまでのメッセージ

主日礼拝メッセージ 金子辰己雄師

【タイトル】

「網を捨て、網をとって主に従う人の祝福」

【聖書個所】

   マタイ4:18~20

【導入】

 ある人が池で魚釣りをしていた。しかし、その人は魚がかかる度に棒切れを魚に当て、棒切れよりも小さいと魚籠に入れ、大きいと池に投げ返してしまう。それを見ていた人がその人に訊ねた。「どうしてそんなことをするのか?」と。普通は大きい魚を魚籠に入れ、小さい魚は池に返すことがあるだろうけれども、その人は反対のことをしていたからだ。その人は答えた。この棒切れは家にあるフライパンの大きさで、これ以上大きな魚を取ってもフライパンに入らないから捨てるのだと。人にはこのように生きて行くためのフライパンを持っている。それは魚を料理するためのフライパンではなく、何を基準に生きて行くかというフライパンである。生き方、信条、生活習慣のようなものである。

 今日読んだ聖書個所にも、フライパンならぬ、何を基準に、何を支えに生きているかという「網」が出て来た。イエス様の弟子になったペテロとアンデレの場合の漁師としての網だった。だから、彼らにとってはその網は無くてはならない大切な網だった。しかし、イエス様はそんな彼らに、「わたしについて来なさい。あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう。」つまり、魚を捕る網とは違う「人間をとる網をあげよう。」と言われたのです。すると彼らは、彼らにとって大切な網を捨て、イエス様が言う「人間をとる網」をとるためにイエス様について行った。

 今日は、①彼らが大切にしていた網を捨て、代わりに手にした、イエス様の言う「人間をとる網」とは何なのか。②イエス様の言われた「わたしについて来なさい。あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう。」とはどういうことなのか。そして、③大切な網を捨ててイエス様に従って行った彼らの人生、イエス様の言葉に従って行く人の人生とはどういう人生か、どういう祝福があるのか―ということについてメッセージを取り次ぐ。

【本論】

(1)人間をとる網

 結論から言う。それは、「神を神とする信仰の網」、「神信仰」のこと。ペテロやアンデレは魚を捕ることを生業(なりわい)にしていた。人は誰でも生きて行くために働く。だから魚が捕れるか捕れないかは彼らにとって生死に係わる大切な事。人には衣食住という最低限必要な3つのことがあるが、魚が捕れなければ、私たちの場合、収入がなければ、それらの必要を満たすことが出来ない。だから私たちは心配するわけです。

 しかし聖書はこう言う。

マタイ6:24~33:「だれも、ふたりの主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛したり、一方を重んじて他方を軽んじたりするからです。あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません。だから、わたしはあなたがたに言います。自分のいのちのことで、何を食べようか、何を飲もうかと心配したり、また、からだのことで、何を着ようかと心配したりしてはいけません。いのちは食べ物よりたいせつなもの、からだは着物よりたいせつなものではありませんか。空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。けれども、あなたがたの天の父がこれを養っていてくださるのです。あなたがたは、鳥よりも、もっとすぐれたものではありませんか。あなたがたのうちだれが、心配したからといって、自分のいのちを少しでも延ばすことができますか。なぜ着物のことで心配するのですか。野のゆりがどうして育つのか、よくわきまえなさい。働きもせず、紡ぎもしません。しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を窮めたソロモンでさえ、このような花の一つほどにも着飾ってはいませんでした。きょうあっても、あすは炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこれほどに装ってくださるのだから、ましてあなたがたに、よくしてくださらないわけがありましょうか。信仰の薄い人たち。そういうわけだから、何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などと言って心配するのはやめなさい。こういうものはみな、異邦人が切に求めているものなのです。しかし、あなたがたの天の父は、それがみなあなたがたに必要であることを知っておられます。だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」

・「仕える」:信じ、頼り、依存するということ。

・「異邦人」:ユダヤ人ではないというだけではなく、神を知らず、神を神としない人のこと。

・「神の国」:神の完全な支配

・「義」:(原語)ディカイオスネーで、関係用語として、「神の子とされる」ということ。

・「第一」:単に順番の「第一」ではなく、重要性における「第一」のこと。つまり、「絶対に無くてはならない大切なものとして」ということ。

 私たちは、神様が私たちを心配してくれるので自分で自分のことを心配しなくてよい。その神様を信じて行けばすべての必要は満たされると信じるのである。これが「神信仰」の網である。だから2番目の、

(2)「わたしについて来なさい。あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう。」というのは、このように、自分が信じる「神信仰」の網を自分がとるだけではなく、それを人にもバトンタッチしてとってもらうための働きをする者にしようということであって、これが、神様を伝える宣教の働きなのです。

 宣教は、ただ単に「神様に関する情報」を伝えるだけではなく、神様を第一にして生きる者が、その信じている神様を伝えること。だから、人はその神様を信じることができるのです。信じるに足るものとして信じることができるのです。人は、私たちが幾ら神の言葉、福音を宣べ伝えても、自分たちがそれを100%信じて生きていなければ、信じるに値するものとして信じることはないでしょう。

※神の言葉に、本気になって生きよう!

(3)イエス様の言葉に従って行く人の人生の祝福

 マタイ6:25~34で言われていることの結論は、「心配するな。神の国とその義を第一にして、安心していなさい。」つまり、平安でいなさいということです。自分の網を捨て、イエス様がくださる網をとってイエス様に従って行く者には、完全なる平安があるのです。

Ⅰペテロ5:7:「あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。」ともある。

【結論】

 私たちには、日々のいろいろな必要や夢や願いもある。またその中で、さまざまな葛藤やストレス、また思い煩いを覚える。しかしどのような必要があっても、また夢が願いを持っていて、葛藤やストレスを覚えても、私たちには、天地万物を造られた神様であり、全知全能なる神様であるイエス様がともにいて下さり、そしてイエス様は私たちに「わたしについて来なさい。あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう。」と語って下さるのである。私たちは、このイエス様のみことばに目を留めて、私たちの網を捨て、それを信じて、従って行こう。

 今日もイエス様は私たちに語っておられる。

マタイ4:19:「…。「わたしについて来なさい。あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう。」と。

―祈り―

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