父の日礼拝メッセージ 金子辰己雄師

【タイトル】父の心に生きる

【聖書個所】

マタイ18:21~35

【本論】

V21~V23:「そのとき、ペテロがみもとに来て言った。『主よ。兄弟が私に対して罪を犯した場合、何度まで赦すべきでしょうか。七度まででしょうか。』イエスは言われた。『七度まで、などとはわたしは言いません。七度を七十倍するまでと言います。このことから、天の御国は、地上の王にたとえることができます。」と言って、イエス様はこの譬え話をされた。それはペテロが、「主よ。兄弟が私に対して罪を犯した場合、何度まで赦すべきでしょうか。七度まででしょうか。」(V21)と訊かれたからだった。ではどうしてペテロはイエス様にその質問をされたのかというと、「そのとき」とあるように、V15~V20で、イエス様が弟子たちに教会の中での「赦し」と「回復」、「一致」の在り方について語られたことに対することだった。イエス様はそのペテロの問いに、「七度まで、などとはわたしは言いません。七度を七十倍するまでと言います。このことから、天の御国は、地上の王にたとえることができます。」と答え、この譬え話をした。そこには、「地上の王」に譬えられている天の御国の父なる神様の心が語られている。

(1)父なる神様の罪の赦しは、計り知れないほど大きなものである。

V23b~V27:「王はそのしもべたちと清算をしたいと思った。清算が始まると、まず一万タラントの借りのあるしもべが、王のところに連れて来られた。しかし、彼は返済することができなかったので、その主人は彼に、自分も妻子も持ち物全部も売って返済するように命じた。それで、このしもべは、主人の前にひれ伏して、『どうかご猶予ください。そうすれば全部お払いいたします。』と言った。しもべの主人は、かわいそうに思って、彼を赦し、借金を免除してやった。」

 「王」とは天の父なる神様。「しもべたち」とは私たちのこと。そして、「罪」が借金に譬えられている。それは、ただ譬えの中のことだけではなく、「主の祈り」の中でも語られている。

マタイ6:12:「私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。」

 譬えの中で、私たちの神様に対する借金、罪が「1万タラント」とされているのは、私たちの神様に対する罪と言うのは計り知れないほど大きなものであることを表す。(「1万タラント」:月25日労働として、20万年分の労賃(今の、平均年収約450万円として、9千億円に当たる)そして、その返済が免除されたことは、神様の赦しがいかに大きく完全なものであるかを示す。

「七度まで、などとはわたしは言いません。七度を七十倍するまでと言います。」(V22)というのは、7×70=490度ということではなく、その完全さ、無限さを表わすものである。

(2)このように赦されているのだから、私たちも私たちに対する罪を赦さなければならない。

V28~V35:「ところが、そのしもべは、出て行くと、同じしもべ仲間で、彼から百デナリの借りのある者に出会った。彼はその人をつかまえ、首を絞めて、『借金を返せ。』と言った。彼の仲間は、ひれ伏して、『もう少し待ってくれ。そうしたら返すから。』と言って頼んだ。しかし彼は承知せず、連れて行って、借金を返すまで牢に投げ入れた。彼の仲間たちは事の成り行きを見て、非常に悲しみ、行って、その一部始終を主人に話した。そこで、主人は彼を呼びつけて言った。『悪いやつだ。おまえがあんなに頼んだからこそ借金全部を赦してやったのだ。私がおまえをあわれんでやったように、おまえも仲間をあわれんでやるべきではないか。』こうして、主人は怒って、借金を全部返すまで、彼を獄吏に引き渡した。あなたがたもそれぞれ、心から兄弟を赦さないなら、天のわたしの父も、あなたがたに、このようになさるのです。』」

 この人は、神様からの無限の赦してもらったのに、自分に対して100デナリ(1万タラントの60万分の1)の借金のあるしもべ仲間を赦さなかった。そのため父なる神様はこう言われた。「私がおまえをあわれんでやったように、おまえも仲間をあわれんでやるべきではないか。』」(V33)と。そして、イエス様は弟子たちに次のように言われた。「あなたがたもそれぞれ、心から兄弟を赦さないなら、天のわたしの父も、あなたがたに、このようになさるのです。」(V35)

※これが、教会生活を送る私たちに対し、「赦す」ことがどんなに大切かを教えるものです。しかし、ここにもう一つ、イエス様が私たちに伝えようとしている重要なメッセージがある。それは、

(3)何故あのように大きな罪を赦してもらった人が、僅かな罪を赦せなかったか?ということ。

 このことを理解すると、この譬え話がただ「罪の赦し」、「借金の免除」ということだけではなく、実は私たちの教会生活そのもののことなのだと言うことが分かって来る。どうして彼は仲間の僅かな罪を赦すことが出来なかったのだろう?―それを理解するために、罪の赦しを、(-)から0ではなく、0から(+)の「得したこと」という風に考えてみる。つまり、神様の恵みにより、1万タラントを何の働きもないのにもらったという風に考えてみる。そんなに沢山得した彼が、どうして100タラントを与えることが出来なかったのだろう?―それは、人には誰にでも、「得すること」は歓迎するが、「損すること」つまり「与えること」は歓迎しない、惜しむ心があるからである。この「自分さえ良ければ」という自己中心の心が、教会の中の赦しや回復、一致の妨げになるのです。

※私たちは信仰によって罪の赦しを受ける。そして多くの人たちが教会に加わる。しかし、それだけではイエス様が伝える福音の半分しか受け取っていない。イエス様の伝える福音は、「罪の赦しを得させる」福音と共に、「天の御国の福音」を宣べ伝えているからです。それが、この譬え話を通してイエス様が伝えようとしている一番重要なメッセージなのです。だから、「天の御国は、地上の王にたとえることができます。」(V23)と言って、天の御国=教会の中での私たちの在り方を教えようとされたのである。「天の御国の福音」と、「罪の赦しを与える福音」という二つの福音があるわけではない。「天の御国の福音」の中に「罪の赦しを与える福音」がある。

※私たちは、「罪の赦し」=「救い」というものがどういうものなのかを本当に知って、そして「天の御国の福音」に相応しく生きることが出来るのです。兄弟の間での罪の赦しを、7度を70倍するまで赦すことが出来るほど生きることが出来るのです。これが神様の救いの計画です。

◎どんな自己中心の人でも、イエス様を信じるなら救われる。そして救われた後、自己中心のままで居続けても、決して救いからもれることはない。何故なら、福音は私たちに信仰以外の何も要求しないからです。イエス様は「あなたは自己中心だから、私はあなたを救うことはしない。」とは言われない。それが信仰による罪の赦しを得させる福音です。しかし、本当に罪の赦しの大きさを知った者は、決してそのままで在り続けることは出来ない。「あー得した。」と思って、与えられたものを惜しみ、人に与えることを惜しむことは出来ないのである。何故なら、イエス様を信じて救われた人には誰にでも聖霊様が与えられているからです。聖霊様、神様の性質は「与える」こと。だからパウロも、:「このように労苦して弱い者を助けなければならないこと、また、主イエスご自身が、『受けるよりも与えるほうが幸いである。』と言われたみことばを思い出すべきことを、私は、万事につけ、あなたがたに示して来たのです。」(使徒20:35)と言われた。

※しかし、聖霊様に従うかどうかはその人次第。信仰もその人次第であるように、従うこともその人次第です。だからイエス様は、「心から兄弟を赦しなさい。」と言うのです。そうしなければ、「天のわたしの父も、あなたがたに、このようになさるのです。』」と言われる。それは、罪の赦しから漏れると言うことではなく、天の御国から漏れると言うこと。天の御国は「義と平和と聖霊の喜び」(ローマ14:17)です。救われていても、本当のその喜びを味わうことが出来ないということです。

【結論】

 今日、私たちはもう一度、私たちに与えられた罪の赦しを考えてみよう。そしてもう一度、恵みの御座に出よう。赦されるためではなく、義と平和と聖霊の喜びに満ちたクリスチャン生活を送るために、その力と愛をもらうために。また惜しみなく従うことが出来るために!

―祈り―

これまでのメッセージ

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