主日礼拝メッセージ 金子辰己雄師

【タイトル】

「小預言書(26)ホセア書⑬―それでも主は救われる。ー」

【聖書個所】

ホセア13章:1節~16節

【本論】

V1:「エフライムが震えながら語ったとき、主はイスラエルの中であがめられた。しかし、エフライムは、バアルにより罪を犯して死んだ。」

 「震えながら」とは「恐れおののきながら」ということ。ここに、神と人との関係において何が無くてはならないか、そして、それが無いと神と人との関係はどうなるのかが語られている。神と人との関係において、人の側に神に対する恐れが無いと、人はバアル(偶像)に走り、その罪のために死ぬことになる。パスカルは、「人間の心には、神しか埋めることが出来ない空洞がある。」と言った。作家の三浦綾子さんは、「夫といて なおも淋しきこの夕べ 聖句幾つか胸に浮かび来。」と詠った。愛する伴侶の愛でさえも埋めることが出来ない空洞があるのである。その空洞を神以外のもので埋めようとしても、虚しさは残るのである。イスラエルの民は、それをバアルに求めた。その偶像礼拝の様子とその虚しさが、V2~V3で語られている。

V2~V3:「彼らは今も罪を重ね、銀で鋳物の像を造り、自分の考えで偶像を造った。これはみな、職人の造った物。彼らはこれについて言う。『いけにえをささげる者は子牛に口づけせよ。』と。それゆえ、彼らは朝もやのように、朝早く消え去る露のように、打ち場から吹き散らされるもみがらのように、また、窓から出て行く煙のようになる。」

 この偶像は、人の手で作った偶像である。そんな民に神はご自身を明らかにする。

V4~V5:「しかし、わたしは、エジプトの国にいたときから、あなたの神、【主】である。あなたはわたしのほかに神を知らない。わたしのほかに救う者はいない。このわたしは荒野で、かわいた地で、あなたを知っていた。」

 「知っていた」とは、「契約を結んだ」ということ。しかし、そうであるにも関わらず、イスラエルの民は、その契約を結んだ神を忘れ、もう一つの偶像に走ってしまうので、神は彼らを、獅子やひょう、雌熊が襲うように、彼らを裁くと言った。

V6~V8:「しかし、彼らは牧草を食べて、食べ飽きたとき、彼らの心は高ぶり、わたしを忘れた。わたしは、彼らには獅子のようになり、道ばたで待ち伏せするひょうのようになる。わたしは、子を奪われた雌熊のように彼らに出会い、その胸をかき裂き、その所で、雌獅子のようにこれを食い尽くす。野の獣は彼らを引き裂く。」

 このもう一つの偶像礼拝とは、「しかし、彼らは牧草を食べて、食べ飽きたとき、彼らの心は高ぶり、わたしを忘れた。」とあるように、「物質的な、そしてそこから来る満ち足りた豊かさ」である。神様は御自身の恵みのゆえに、私たちに必要なものを豊かに与えて下さるが、私たちはその「豊かさ」のゆえに、それに満足し、それを与えて下さる神を忘れてしまうものである。神様はイスラエルの民に、かつてモーセを通し、恵みの地であるカナンに入っても、決して神様を忘れてはならないと警告された。もし忘れることがあるならば、その豊かさは取り上げられ、滅びることになると警告されたのであった。

申命記6:10~15:「あなたの神、【主】が、あなたの先祖、アブラハム、イサク、ヤコブに誓われた地にあなたを導き入れ、あなたが建てなかった、大きくて、すばらしい町々、あなたが満たさなかった、すべての良い物が満ちた家々、あなたが掘らなかった掘り井戸、あなたが植えなかったぶどう畑とオリーブ畑、これらをあなたに与え、あなたが食べて、満ち足りるとき、あなたは気をつけて、あなたをエジプトの地、奴隷の家から連れ出された【主】を忘れないようにしなさい。…。」