【タイトル】
「信仰の目をもって見る」
【聖書個所】
ルカ19:1~10
【導入】
今日は、有名な「ザアカイ」の箇所から、「人を見ること」に関して、聖書は何が大切か、どのようなことを教えているか、ご一緒に学びたいと思う。
【本論】
ここに、人が人を見る時の3つの見方が描かれている。見られる「人」というのは、勿論、ザアカイである。
(1)人々のザアカイを見る見方
イエス様がエリコにやって来たということを聞き、ザアカイはイエス様を一目見ようといちじく桑の木に登った。それは彼は背が低く、そのため群衆が前の方にいたので見ることができなかったからである。どうしてザアカイはそこまでしてイエス様を見てみたいと思ったのか?―それは聖書には何も記していないので想像するしかないが、「彼は取税人のかしらで」(V2)とあるように、一般に人の上に立つ人は良きにつけ悪しきにつけ、あることに熱心になることが出来る者であり、彼がどういう理由で人々から嫌われるローマのための取税人になったのかは分からないが、彼はその熱心さをもって自分の仕事を一生懸命やり、その地位に登りつめたのである。そして彼はその仕事柄、交通の要所にあったエリコで、国内外のさまざまな情報を耳にすることが出来、イエス様に関する良い評判を多く耳にした。人は自分に無いものを持っている人に関心を持つもので、彼には多くの富はあったが、人から嫌われていたため良い評判など何一つなかったため、彼はそんな良い評判を得ているイエス様を一目見たいと見に行ったのだろう。彼はいちじく桑の木に登り、イエス様を見ようと待ち構えていた。しかし彼は、今まで人から聞いたことがない驚くべきことをイエス様聞くのである。それは、「『ザアカイ。急いで降りて来なさい。きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから。』」(V5)というイエス様の言葉です。それでザアカイは、「…、急いで降りて来て、そして大喜びでイエスを迎えた。」(V6)とある。そんなザアカイとイエス様とのやり取りを見て、人々はザアカイのことを何と言ったのだろうか?―そこに人々のザアカイを見る見方がある。
V7:「これを見て、みなは、『あの方は罪人のところに行って客となられた。』と言ってつぶやいた。」
※人々は、ザアカイを「罪人」として見ていたのである。勿論ザアカイはこの後の彼の告白にあるように、そう見られても仕方がないようなことをしていた。(V8:「私がだまし取った物は…。」)
しかし人々がザアカイをそのように見ていたのは、彼の行なっていた「行為」を問題にしていただけではなく、それ以上に、同じユダヤ人でありながらユダヤを支配するローマの手先になっているという彼の「存在」の故であった。それが、人々が彼を「罪人」として見る根拠であった。しかしこれは「偏見」であり、間違った根拠に基づく感情的な思い込みである。彼らの聖書(旧約聖書)には、支配する国に仕えることが罪であるとは記されていない。むしろ反対の例さえある。ヨセフのエジプトでの立場やエレミヤの預言である。(エレミヤ29:7:「わたしがあなたがたを引いて行ったその町の繁栄を求め、そのために【主】に祈れ。そこの繁栄は、あなたがたの繁栄になるのだから。」)人にはこのように、偏見によって人を見てしまう見方があるのです。
(2)ザアカイ自身の自分を見る見方
V3~V4:「彼は、イエスがどんな方か見ようとしたが、背が低かったので、群衆のために見ることができなかった。それで、イエスを見るために、前方に走り出て、いちじく桑の木に登った。ちょうどイエスがそこを通り過ぎようとしておられたからである。」
ザアカイは、自分が背が低いということで劣等感や「欠け意識」をもって自分を見ていたかもしれない。しかし、彼はただ身体的なことでの「欠け意識」だけではなく、どんなに富を得ても、また地位を得ても満たされることのない心の「欠け」、「不全感」を持っていた。それは、「自分は駄目なのだ。」という意識である。このように、人にはザアカイのように、「今の自分では駄目なのだ。」という、「欠けた思い、不全感」を持って自分を見る見方がある。勿論、私たちはどんな風になっても、たとえザアカイのように富や地位を得ても、「これで満足。もう自分には必要なものなどない。」と高慢になってもいけないが、と言って「今の自分では駄目なのだ。」と自分を見てもいけない。聖書は別の見方を教えている。それは「今のあなたのままでいいのだ。」という見方である。「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」(イザヤ43:4)とあるように。ではどうすればこのような見方をすることが出来るのだろうか?
(3)それが、信仰の目を持って見る見方
V9~V10:「イエスは、彼に言われた。『きょう、救いがこの家に来ました。この人もアブラハムの子なのですから。人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです。』」
イエス様は、ザアカイが回心して「主よ。ご覧ください。私の財産の半分を貧しい人たちに施します。また、だれからでも、私がだまし取った物は、四倍にして返します。」(V8)と言ったからこう言ったのではない。イエス様は、ザアカイがどうであろうと「アブラハムの子なのですから」という「存在」のゆえにこう言ったのである。「救いがこの家に来ました。」というのは、その「アブラハムの子」として行なうべき律法を守る行いをしたから、その行いの実を見て「救いが来た。」と言った。イエス様は初めからザアカイを神の民である「アブラハムの子」として見ていた。このような見方がどこから来たのだろうか?―V5をもう一度よく見てみよう。
V5:「イエスは、ちょうどそこに来られて、上を見上げて彼に言われた。「ザアカイ。急いで降りて来なさい。きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから。」
「上」とは、勿論ザアカイが登っているいちじく桑の木の所であるが、それだけではなく、「上」とは「天」、つまり神のおられる所であり、イエス様の目はいつも神の御心に目を留めておられ、語ること為すことすべてを神の御心で行なっていた(ヨハネ5:19、8:28)ので、この時もイエス様は神の御心からザアカイを見て、そして彼に語ったのである。イエス様のザアカイを見る見方は、人々がザアカイを見る見方でもなく、ザアカイ自身が自分を見る見方でもなく、天の父なる神様の見る見方であった。これがイエス様の神様から与えられている信仰から来る見方です。
例:サウロ(パウロ)に対するアナニヤの見方の変化(使徒9:10~19)、サウロを疑いの目で見ていた他の弟子たちとは異なるバルナバの見方(使徒9:26~27)
【結論】
私たちは何をもって、またどのようにして人を見ているだろうか、また自分を見ているだろうか?―私たちはイエス様のように、いつも天のお父様を見て=「信仰」、そこから来る「信仰」=「神は何と仰っているか。」、「聖書は何と言っているか」の目で人を見、また自分を見たいものである。
イザヤ43:4:「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」
エペソ1:4:「すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前から彼にあって選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。」
へブル13:5:「…。主ご自身がこう言われるのです。『わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない。』」
このように人を見ることが出来るなら、自分自身を見ることが出来るなら私たちは幸いである。このようにして人を見、自分を見て生きて行こう!
―祈り―