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主日礼拝メッセージ 金子辰己雄師

September 3, 2017

【タイトル】

「家族の救いと信仰の継承(9)―親から子に宿る信仰とつながり」

【聖書個所】

Ⅱテモテ1:5:

「私はあなたの純粋な信仰を思い起こしています。そのような信仰は、最初あなたの祖母ロイスと、あなたの母ユニケのうちに宿ったものですが、それがあなたのうちにも宿っていることを、私は確信しています。」

【本論】

 この言葉はパウロから弟子テモテに語られた言葉です。パウロは、使徒16:1~2にあるように、テモテに第2次伝道旅行の時に会った。

使徒16:1~2:「それからパウロはデルベに、次いでルステラに行った。そこにテモテという弟子がいた。信者であるユダヤ婦人の子で、ギリシヤ人を父としていたが、ルステラとイコニオムとの兄弟たちの間で評判の良い人であった。その時はまだテモテは20歳前後の若者だったが、人々から良い評判を得た青年だった。パウロは彼を重用し、そのまま伝道旅行に、またその後の第3次伝道旅行にも連れて行き、またその間、パウロは幾つもの書簡をコリントや地域の教会に送っているが、テモテはその共同執筆者になっている。それだけ、テモテはパウロにとって特別な存在だった。そのパウロが自分の殉教が近づいているのを知り、最後の手紙となるこの手紙をテモテに書き送った時、テモテに対して、彼のことを思い起こしては神に感謝をささげ、またその純粋な信仰を思い起こしていると言い、このようにパウロに書かせるほど、テモテの信仰は純粋な信仰だったのである。そしてパウロは続けて、その信仰に対して次のように言っている。

V5:「…。そのような信仰は、最初あなたの祖母ロイスと、あなたの母ユニケのうちに宿ったものですが、それがあなたのうちにも宿っていることを、私は確信しています。」と。

 

 ここに先ず、今日私たちが目を留めたいポイントがある!

(1)「信仰は宿るもの」ということ。

 私たちは、「信仰」とは「持つもの」とあるように、能動的なものだと考えている。しかし聖書は、「信仰」は受身的なものだと言うのである。何故なら、「信仰が宿る」というのは、「信仰が私の中に入って来て、そして私の中に住む」ということだからです。次の箇所を読んでみよう。

ルカ1:35~38:「御使いは答えて言った。『聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。それゆえ、生まれる者は、聖なる者、神の子と呼ばれます。ご覧なさい。あなたの親類のエリサベツも、あの年になって男の子を宿しています。不妊の女といわれていた人なのに、今はもう六か月です。神にとって不可能なことは一つもありません。』マリヤは言った。『ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように。』こうして御使いは彼女から去って行った。」

 この個所は、御使いガブリエルがマリヤに、「あなたは身籠って、男の子を産みます。名をイエスと付けなさい。」(V31)と語った時に、「どうしてそのようなことになりえましょう。私はまだ男の人を知りませんのに。」(V34)と答えたことに対する御使いの返事。その御使いの言葉によって、彼女は「ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように。」(V38)と言ったのです。

 

 このマリヤの言った言葉は、私の「みことば体験」の言葉でもある。2002年1月のTACFの教役者大会で、Charles Carrin師が聖霊の働きについて語り、このみことば「どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように。」を語った時、このみことばが私に宿った。それ以来、マリヤがイエス様を宿したように、私も聖霊様を宿している。だから、「信仰が宿る」ということは単なる教理ではなく、霊的現実なのです。

 皆さんはこの信仰を宿しているだろうか?―自ら持つ信仰は自ら手放してしまうことがあるかもしれないが、自分の内に宿る信仰にはそれがない。何故なら、内に宿っているからです。「みことばの種まき」の譬え(マタイ13:3~)を見ても分かるように、「岩地、茨の地」の信仰は、何かあれば手放してしまう。しかし「良い地」の信仰は手放すことはない。「良い地」の信仰は、いのちが宿っている生きた信仰だからです。

◎ではどうすれば、そのような良い地の信仰は宿るのだろうか?―それは、みことばを受け入れ、聖霊様に従うことです。マリヤがみことばを受入れ、聖霊様に従ったようにです。それがどんなに困難でリスクが伴うものであっても、マリヤのように完全に心を開き、自分の思いを捨てて、「どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように。」と告白することです。

※今、信仰に行き詰まりを覚えていますか?-もし、いのちのないような信仰生活を送っていて、生き生きとした信仰を持ちたいと思っている人は、今がその時です。マリヤのようにみことばを受け入れて、生きた信仰が宿るようにしよう。

(2)このように宿る信仰は「親から子に、世代を超えて宿り、その家の信仰」となる。

 これは、イエス・キリストを個人的に信じて救われることを否定しているのでもなく、親が信じて救われれば、自動的に子供もそのまま救われるということを言っているのではない。「家族が救われ、信仰が繋がる信仰」はどのような信仰だろうかということである。先ほどの「みことばの種まき」のところで見たように、「良い地」の信仰にはいのちが宿っているので、その信仰は必ず繋がって行く。何故なら、生きている親が子を宿すことが出来るように、生きている信仰は、必ず生きている信仰を生み出すのである。しかし、死んでいる信仰は何も生み出すことが出来ない。何故なら、いのちが無いからである。

◎では、死んだ信仰とはどんな信仰だろうか?―それは、「道端の信仰」、「岩地の信仰」、「茨の信仰」、また「砂の上に立てた家」(みことばを聞いても実行しない信仰)(マタイ7:24~)、また「行いが伴わない信仰」(ヤコブ2:17)です。

ヤコブ2:17:「それと同じように、信仰も、もし行いがなかったなら、それだけでは、死んだものです。」

 このような信仰は、証しをしたり、みことばを宣べ伝えたり、何も行なうことがないのですから、信仰を生み出すことはできない。だからパウロは、テモテに次のように勧めているのです。

V6~V9a:「それですから、私はあなたに注意したいのです。私の按手をもってあな たのうちに与えられた神の賜物を、再び燃え立たせてください。神が私たちに与えてくださったものは、おくびょうの霊ではなく、力と愛と慎みとの霊です。ですから、あなたは、私たちの主をあかしすることや、私が主の囚人であることを恥じてはいけません。むしろ、神の力によって、福音のために私と苦しみをともにしてください。神は私たちを救い、また、聖なる招きをもって召してくださいましたが、それは私たちの働きによるのではなく、ご自身の計画と恵みとによるのです。」

【結論】

 神様はこのように、私たちに、ロイスとユニケ、そしてテモテに信仰が宿ったように、いのちのある信仰が私たちに宿り、繋がり、そして、私たちの家族の信仰となることを計画しておられるのです。その見える形としての信仰がイスラエルの家の信仰です。(申命記6:4~9)

引用:ルターの小教理問答集:ルーテル教会の信仰基準であると同時に、信仰生活のガイドラインである。それも、一家の長=父である信徒に向けてのガイドラインです。その最後には、こう記されている。「みんなの者がその教えを気をつけて学ぶなら(宿すなら)、全家庭は幸福に暮らすことが出来るであろう。」と。

※だから、希望をもってみことばの種を蒔き続けよう、祈り続けよう。恐れることなく、大胆にみことばを宣べ伝え、主を証ししよう。主イエスを信じる「個人の信仰」が、全家族が救われて、「家の信仰」になるまで!

―祈り―

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