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これまでのメッセージ

主日礼拝メッセージ 金子辰己雄師

 

【タイトル】

「家族の救いと信仰の継承」(11)―イエス様を家に迎えよう!―」

 

【聖書個所】

ルカ8:40~42、49~55

 

【本論】

V1:「さて、イエスが帰られると、群衆は喜んで迎えた。みなイエスを待ちわびていたからである。」

 

 私たちの人生にはいろいろなことが起きる。先週一週間もそのようなことがあったのではないだろうか?―この時、カペナウムの町の人たちもそうだった。ある人は家庭問題、ある人は職場での問題、子供たちは友達や学校での問題、さまざまな問題が起こり、イエス様に何とかして欲しいと思って待ちわびていた。イエス様はカペナウムをホームにして、伝道の働きをしては「自分の町」(マタイ9:1)に帰られた。人々はイエス様が帰って来るのを待ちわびていたのである。

 

 私たちはどうだろうか。教会はイエス様のホームです。ここに今イエス様はおられる。或いは、「Welcome Home!おかえりなさい。」と書いてあるドアを開け、「ただ今!」と今入って来られるかもしれない。皆さんはイエス様に会うために、待ちわびてここに来られただろうか?礼拝はそんな期待があるところです。そして期待のあるところにみわざが起こる。―今朝もイエス様に期待しよう。

 

 聖書に戻ると、ここに、そのようにイエス様を待ちわびる一人の人がいた。会堂管理者のヤイロという人である。彼には12歳のひとり娘がいたが、その娘が死にかけていたので、何とか助けて欲しいと願ってイエス様のところにやって来た。そして足元にひれ伏して「自分の家に来て下さい。」と願った。ここに、先ず一つ目の「家族の救い」の実現にとって重要なことがある。

 

(1)イエス様を家に迎え入れること。

 

V41:「するとそこに、ヤイロという人が来た。この人は会堂管理者であった。彼はイエスの足もとにひれ伏して自分の家に来ていただきたいと願った。彼には十二歳ぐらいのひとり娘がいて、死にかけていたのである。イエスがお出かけになると、群衆がみもとに押し迫って来た。」

 

 彼はイエス様を待ちわびている多くの人々を掻き分け、必至の思いでイエス様の前に出た。そして足もとにひれ伏して、「自分の家に来ていただきたいと願った」のである。

 

 「願う」は原語で「パラカレオー」。単にお願いする(アイテオー)よりももっと強い言葉。そこに父親の娘の救いのための必死の思いがある。このように、私たちの家族の救いに対しても、必死な思いをもって、イエス様に家に来て頂こう!その必死な願いが必要である。次に、

 

(2)恐れないで、家族の救いを信じ続けること。

 

V50:「これを聞いて、イエスは答えられた。『恐れないで、ただ信じなさい。そうすれば、娘は直ります。』」

 

 イエス様が会堂管理者の家に向かう途中、会堂管理者の家から人が来て、V49:「あなたのお嬢さんはなくなりました。」と、父親に娘の死を告げ、「もう、先生を煩わすことはありません。」と言った。つまり、「もうお嬢さんは死んだのだから、イエス様に来てもらう必要はありません。来てもどうすることもできません。」と言ったのです。しかしイエス様はそれに対して、V50:「恐れないで、ただ信じなさい。そうすれば、娘は直ります。」と言われた。

 

※ここには二つのメッセージがある。

 

①人がどう言おうと、状況がどうであろうと、イエス様がこうしようと思われたら必ずそうなる。だから、恐れないで、ただ信じていていいのである。

②イエス様の「死」に対する見方は、私たちの見方とは違う。父親や人々は、肉体の死を「死」と見ていた。しかしイエス様はそうではなかった。次のイエス様の言葉に注目!

 

V52:「人々はみな、娘のために泣き悲しんでいた。しかし、イエスは言われた。『泣かなくてもよい。死んだのではない。眠っているのです。』」「死んだのではない。眠っているのです。」と言われた。これはどういうことか?―イエス様が言われる「死」というのは、父親や人々が見ていた「肉体の死」のことではなかったからだ。イエス様がここで「死んだのではない。」と言っている「死」は、罪から来る霊的死(ローマ6:23:「罪から来る報酬は死です。」)のことであって、単なる肉体的な死のことではないのである。

 

 聖書では、肉体の死のことを「眠る」と、しばしば表現される。

 

ヨハネ11:11~14:「イエスは、このように話され、それから、弟子たちに言われた。『わたしたちの友ラザロは眠っています。しかし、わたしは彼を眠りからさましに行くのです。』そこで弟子たちはイエスに言った。『主よ。眠っているのなら、彼は助かるでしょう。』しかし、イエスは、ラザロの死のことを言われたのである。だが、彼らは眠った状態のことを言われたものと思った。そこで、イエスはそのとき、はっきりと彼らに言われた。『ラザロは死んだのです。』」

 

Ⅰコリント15:51:「聞きなさい。私はあなたがたに奥義を告げましょう。私たちはみな、眠ることになるのではなく変えられるのです。」

 

※ここに、私たちの家族の救いに関してしっかりと知らなければならない三つ目のメッセージがある。それは、

 

(3)イエス様は、永遠の滅びという死から私たちを救うために来られた救い主であって、イエス様以外に私たちの家族を、「罪から来る報酬」である霊的な永遠の死から救うことの出来る方はいないということ。そしてそれを家族に伝えなければならないということ。

 

 イエス様の次の言葉に注目!

 

V50:「恐れないで、ただ信じなさい。そうすれば、娘は直ります。」

 

 「直ります」(脚注:「救われます」)の「直る」には、原語で「救い」を意味する「ソーゾー」と言う言葉が使われている。イエス様は人々があざ笑っていても、V54:「しかしイエスは、娘の手を取って、叫んで言われた。『子どもよ。起きなさい。』」と叫んで言われた。この「起きなさい」は、原語では、「エゲイロー」=「死の床から起き上がる」という意味。サタンは、罪を犯した私たちを、その報酬である死に縛り付けるが、イエス様は死の力のあるお方であり、永遠の滅びから私たちを救い出される唯一の救い主である。だから、次の言葉にも注目!

 

V55:「すると、娘の霊が戻って、娘はただちに起き上がった。それでイエスは、娘に食事をさせるように言いつけられた。」

 

【結論】

 イエス様は、私たちのどんな問題でも解決することが出来る。どんな病でも癒すことが出来る。だから私たちはイエス様にどんなことでも願い、またどんな小さなことでも祈ることが出来る。しかしイエス様には、イエス様にしか出来ないことがある。病気になれば、病院に行けば癒されるだろう。心が病めば、カウンセラーに行けば癒されるかもしれない。人間関係の問題が起これば、裁判でその問題事を解決出来るだろう。しかし、魂の救い、永遠の滅びの問題、罪の問題は、イエス様以外にはその赦しも、救いもないのである。イエス様がこの世に来られた最大の目的、究極の意味はそこにあるのです。

 

 ルカ15章には、失くした一匹の羊を必死に探す人の話や、失くした一枚の銀貨を必死になって探す女の人の話がある。どうしてそこまで必死になって探すのか?―それは、失くしたままでは滅んでしまうからです。私たちの家族の救いの問題はそのような緊急の問題であり、先延ばしに出来る問題ではない。サタンは罪の力で私たちのまだ救われていない家族を縛っている。しかし、イエス様は十字架の上で、その力を打ち砕いて下さった。だからイエス様に助けを求めよう。救いを求めよう。イエス様に私たちの家に来ていただこう!

 

―祈り―

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