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これまでのメッセージ

主日礼拝メッセージ 金子辰己雄師

 

【タイトル】

「神の国は子どものように...」

【聖書個所】

 マルコ10:13~16

【本論】

 ある時、イエス様にさわっていただこうとして人々が子供たちをイエス

様のみもとに連れて来た。するとイエス様の弟子たちがそのようなことを

した人々を叱ったという。どうしてそのようなことをしたのだろう?ー当

時、ユダヤの国では13歳で成人を迎えるまでは、子供は「一人前の人間」

として扱ってもらえず、「価値がない、役に立たない存在」ということで、

取税人や罪人と同じように見られていた。

 では何をもって一人前とされたのかというと、「律法を守ることが出来

るかどうか」が基準だった。それで、ユダヤでは男子の場合「バル・ミツ

バ」と呼ばれる、礼拝で律法を読むことが出来る13歳の成人となるため

の儀式、女子の場合、「バト・ミツバ」と呼ばれる12歳で成人となるた

めの儀式が行われている。ちょうど、日本の七五三と成人式が合わさったようなもの。つまり、当時も、また今も律法に厳格な人たちの間では律法が基準になっていて、それを守れる人が義人=正しい人、良い人、守れない人々は罪人=悪い人という構図になっていた。この時、弟子たちはイエス様の弟子とはいってもまだユダヤ人としての思考を持っていたので、当然の如く、子供たちがイエス様の所に連れて来られたので、「そんな子供たちをイエス様の所に連れて来ては駄目だ。」という意識をもって、連れて来た人たちを叱ったのである。

 イエス様はそんな弟子に対し、

Ⅴ14:「イエスはそれをご覧になり、憤って、彼らに言われた。『子どもたちを、わたしのところに来させなさい。止めてはいけません。神の国は、このような者たちのものです。』」

 

 と言われたのです。抄訳聖書では、「憤って」は「憤り、苦痛を覚えて」となっている。律法の本質を知らずに神のみこころを知らない弟子たちに対し、律法学者やパリサイ人に対するのと同じように、イエスさんは弟子たちに悲しみを持って憤られたのである。先ずここに重要な一つ目のメッセージがある。

(1)神の国は子どもたちのような者のもの。

 神の国は聖書の中の重要なテーマの一つ。その始まりが聖書の最初の書物「創世記」に記されている。神様は6日間掛かって世界のすべてのものを創造し、6日目に「神様のかたち」にならって私たち人を造られた。そして、エデンの園に置かれた。

創世記1:26~27:「神は仰せられた。『さあ人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて。彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配するように。』1:27 神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。」

創世記2:8:「神である【主】は東の方エデンに園を設け、そこに主の形造った人を置かれた。」

 エデンの園は神の国の品型です。神様が人を含め、その種類に従ってすべてのものを造られ、そして「それは非常に良かった。」(1:31)と言われたように完璧な世界だった。そして神様はそこに私たちを「置かれた。」(2:8)とある。つまり二つの聖句から分かるように、聖書は、私たちは自分でこの世界を造り、自分でこの世界に入って来た者ではなく、創造主なる神様によって造られ、そしてそこに置かれた神様によって造られた子供のような存在であるということである。ちょうどこの時、イエス様の所に人々によって連れて来られた子供たちのように。子供たちは自分で考えて、自分でそうしようとしてイエス様の所に来たのではなく、人々に連れて来られたのです。人が初めに神様によって造られ、エデンの園に置かれたように。

 ところが、人はこの後罪を犯してエデンの園を追放されてしまった。その経緯を簡単に話すと、最初の人であるアダムとエバは神様が食べてはならない、食べると死ぬと言われた「善悪の知識の木」の実をとって食べてしまい、それ以来すべての人がエデンの園である神の国から追放され、そして苦悩して自分の力で生きていかなければならない存在になった。聖書ではそのように、神の国から離れ、多くの苦悩や死の恐れを持って自分の力で生きて行かなければならなくなった状態を「死」=「神様との関係における断絶」と呼んでいる。神様は、そんな私たちを再びご自身の下に引き寄せて、もう一度神の国に入って生きることが出来るようにしようと、御子であるイエス・キリストをこの世に送って下さった。それがイエス様のこの世に来られた目的でした。

ルカ19:10:「人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです。」

 だからイエス様がこの時、「子どもたちを、わたしのところに来させなさい。止めてはいけません。神の国は、このような者たちのものです。」(V14)と言われたのは、神様のみこころに相応しいことだった。神様は、神様によって造られたすべてのものがそのように神の国の中で置かれた所で生きるようにと招かれておられる。それが神様に創造された者として最も相応しく幸いなことだからです。

 

 では、そのようになるにはどうしたら良いのか?―イエス様は次に、このように語っている。

(2)子供のように神の国を受け入れなければならない。

マルコ10:15:「まことに、あなたがたに告げます。子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに、入ることはできません。」

 この「子どものように神の国を受け入れる者でなければ」とはどういうことだろう。それは次のたとえ話の中に示されている。

ルカ18:9~14:「自分を義人だと自任し、他の人々を見下している者たちに対しては、イエスはこのようなたとえを話された。「ふたりの人が、祈るために宮に上った。ひとりはパリサイ人で、もうひとりは取税人であった。パリサイ人は、立って、心の中でこんな祈りをした。『神よ。私はほかの人々のようにゆする者、不正な者、姦淫する者ではなく、ことにこの取税人のようではないことを、感謝します。私は週に二度断食し、自分の受けるものはみな、その十分の一をささげております。』ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。『神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。』あなたがたに言うが、この人が、義と認められて家に帰りました。パリサイ人ではありません。なぜなら、だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。」

※自分の行いや正しさに立たず、神様のみわざと正しさに頼る人が神の国に入ることが「子供のような」者なのであり、そのような者が救いを受けることができるのです。自分が追放された神の国に入ることが出来るようにと、自分のために死んで、墓に葬られ、三日目によみがえって下さったイエス様を信じる信仰によって私たちは救われるのである。私たちの道徳的な行いや功績ではない。

【結論】

 今日、神様は私たちに語っている。まだイエス様を信じていない人にも、もうすでに信じている人にも、私たちは誰でも神様によって神の国に招かれている。神の国で神の造られた神の子供として、共に神様の素晴らしさを味わい、神様と共に過ごすようにと招かれている。私たちがそれぞれ置かれている所で、それぞれの働きをしながら、神様によって造られ、そこに置かれた者として、自分らしく生きることが出来るようにと招かれている。しかし、私たちはつい「自分の置かれている所」から離れ、自分ではない者のように生きようとする。だからそこに苦悩があるのではないか。満たされないものがあるのではないだろうか。

※今日もう一度神様の所に帰り、そしてその所に置いてもらおう。そうするならば、私たちは皆神の子どものように神の栄光を反映させて、輝いて生きて行くことが出来るのである。

 

―祈り―

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