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主日感謝礼拝メッセージ:金子辰己雄師

December 31, 2017

 

【タイトル】

「数え切れぬ恵み」​​

【聖書個所】

 創世記15:5~7

【導入】

 神様は12章のアブラハム契約の中で、アブラハムに子孫が与えられ、

その子孫の祝福と、その子孫を通してのすべての民族の祝福を約束をさ

れた。しかし、この時点では未だアブラハムには子供が与えられていな

かったので、「私の家の奴隷が、私の後取りになるのでしょう?」(Ⅴ3)

と言うと、神様はアブラハムに、「…。ただ、あなた自身から生まれ出

て来る者が、あなたの後を継がなければならない。」(Ⅴ4)と言われ、

そして、今日のこのみことばが語られた。

 今日はこの、神様からアブラハムに語られたみことばの中から、「数え切れない神様の恵みの中の2つのポイント」に目を留めて、そして神様をあがめて行きたいと思う。

【本論】

(1)神様の、私たちの「選びに関する恵み」は数えきれない。

 神様はアブラハムをカルデヤ、現在のイラクがある地域のユーフラテス川沿いにあるウルという町から連れ出したとある。

Ⅴ7:「また彼に仰せられた。『わたしは、この地をあなたの所有としてあなたに与えるために、カルデヤ人のウルからあなたを連れ出した【主】である。』」

 聖書ではこれを、アブラハム、アブラハムに続くイスラエル民族、そして、イスラエル民族を通して神様の祝福に預かる、私たちを含めたすべての人々に対する「神の選び」と言っている。

イザヤ41:8~9:「しかし、わたしのしもべ、イスラエルよ。わたしが選んだヤコブ、わたしの友、アブラハムのすえよ。41:9 わたしは、あなたを地の果てから連れ出し、地のはるかな所からあなたを呼び出して言った。「あなたは、わたしのしもべ。わたしはあなたを選んで、捨てなかった。」

 

・「地の果て」とは「ウル」のこと。神様は、「アブラハムのすえよ。」と言って、アブラハムを選び、アブラハムをウルから呼び出すことから始まったイスラエルの選びと、イスラエルの子孫として生まれたイエスキリストを通してイスラエルの民に信仰の民として加えられた私たちすべての人に対して、このように、「わたしはあなたを選んだ。」と言う。そして聖書は、さらにその選びに対し、それは選ばれたアブラハム、そしてイスラエル、そして私たちに何か選ばれるに相応しいような資格があったからではなく、ただ一方的な神様による選びと、アブラハム、イスラエル、そして私たちに対する神様の愛のゆえのことであると言う。

申命記7:7~8:「【主】があなたがたを恋い慕って、あなたがたを選ばれたのは、あなたがたがどの民よりも数が多かったからではない。事実、あなたがたは、すべての国々の民のうちで最も数が少なかった。7:8 しかし、【主】があなたがたを愛されたから、また、あなたがたの先祖たちに誓われた誓いを守られたから、【主】は、力強い御手をもってあなたがたを連れ出し、奴隷の家から、エジプトの王パロの手からあなたを贖い出された。」

 この世の中では、「選び」というのは、それに相応しい者が選ばれる。例えば、今、ピョンチャンオリンピックの代表選手が選ばれているが、その成果、成績のゆえの選びのように。

※しかし、神様の私たちに対する選びはそうではない。神様は、私たちにそれに相応しい資格とか立場があったわけではなく、むしろ全く「選び」に相応しくない者であっても、神様はご自身の愛のゆえに、また、神様の誓いを守られるという真実のゆえに、私たちを選ばれたのである。

ヨハネ15:16:「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものは何でも、父があなたがたにお与えになるためです。」

Ⅰヨハネ4:10:「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」

 この神様の私たちに対する「愛」また「選び」は、神の「恵み」そのものである。恵みとは、「受けるに値しない者が受けることができる特別な顧み、贈り物」のこと。だから、たとえ私たちが神様を愛することがなくても、神様を選ぶことがなくても、神様は私たちを愛して下さり、また選んで下さるというのである。それが神様の恵みなのである。私たちは、この神様の恵みによって愛され、選ばれているのです。次に、

(2)神様の、私たちを「義とする恵み」は数えきれない。

 この神様の恵みは、「私たちの救い」、「私たちが義とされること」に関しても言えることです。

エペソ2:4~5:「しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、2:5 罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、──あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです。──」

 パウロはその「恵み」について、アブラハムの信仰による義と並べて次のように言っている。

ローマ4:3~5:「聖書は何と言っていますか。『それでアブラハムは神を信じた。それが彼の義とみなされた。』とあります。4:4 働く者の場合に、その報酬は恵みでなくて、当然支払うべきものとみなされます。4:5 何の働きもない者が、不敬虔な者を義と認めてくださる方を信じるなら、その信仰が義とみなされるのです。」

 まさに、「何の働きもない者が、不敬虔な者を義と認めてくださる方を信じるなら、その信仰が義とみなされるのです。」とあるように、私たちには何の働きもなかったが、ただ主を信じる信仰によって義とされたのである。

※何という恵みだろうか!―それは本当に、アブラハムが主によって、Ⅴ5:「…、『さあ、天を見上げなさい。星を数えることができるなら、それを数えなさい。』さらに仰せられた。『あなたの子孫はこのようになる。』」とある通り、本当に「数え切れない、大きな、豊かな恵み」がアブラハムだけではなく、アブラハムと同じ信仰を持つ私たちにも与えられているのである。何と感謝なことだろうか!

【結論】

 このような神の測り知れない恵み、数えきれない恵みについて、詩篇の作者は沢山の神様をほめたたえる賛美の歌、感謝の歌を残している。

詩篇57:7~11:「神よ。私の心はゆるぎません。私の心はゆるぎません。私は歌い、ほめ歌を歌いましょう。57:8 私のたましいよ。目をさませ。十弦の琴よ。立琴よ、目をさませ。私は暁を呼びさましたい。57:9 主よ。私は国々の民の中にあって、あなたに感謝し、国民の中にあって、あなたにほめ歌を歌いましょう。57:10 あなたの恵みは大きく、天にまで及び、あなたのまことは雲にまで及ぶからです。57:11 神よ。あなたが、天であがめられ、あなたの栄光が、全世界であがめられますように。」

 これは、ダビデがサウル王に命を付け狙われている時、荒野の中の洞窟を住処としていたが、その洞窟の中で作った歌です。ダビデは、天を見上げることが出来ない洞窟にあっても、信仰の目をもって天を見上げ、天にある変わることのない神様の恵みを覚えて、主を賛美したのです。

 現代の詩篇とも言ってよい賛美を歌おう。「数え切れぬ恵み」(2010年、マッド・レッドマン作)。特に1年を振り返って見た時、或いはまた、人生の晩年に入ろうとしている時、或いはまた、新しい年を迎えようとしている私たちにとって、相応しい賛美だろう。

―祈り―

 

 

 

 

 

 

 

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