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これまでのメッセージ

主日礼拝メッセージ:金子辰己雄師

 

【タイトル】

「御霊の実(1)―愛の実―」

【聖書個所】

ガラテヤ5:22~23

【本論】

 パウロはガラテヤの兄姉に、救われたクリスチャンには2つの生き方があると言っている。一つは、「肉によって歩む生き方」、もう一つは「御霊によって歩む生き方」である。

ガラテヤ5:13~16:「兄弟たち。あなたがたは、自由を与えられるために召されたのです。ただ、その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕えなさい。律法の全体は、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」という一語をもって全うされるのです。もし互いにかみ合ったり、食い合ったりしているなら、お互いの間で滅ぼされてしまいます。気をつけなさい。私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。」

 パウロがこのことを言っているのは、この手紙が書かれた背景と深く関わりがあるので、その背景を簡単に説明する。パウロは、第1回の宣教旅行で小アジア(現在のトルコ)に行き、ガラテヤ地方に教会を建て上げて行った。(使徒14:19~21)しかし、彼のその宣教旅行の実(信仰によってのみ救われるという信仰義認の実)を摘み取るかのように、律法主義者的ユダヤ人クリスチャンがやって来、「信仰だけでは駄目で、私たちと同じように割礼を受け、律法を守らなければ救われないのだ。」と言う教えの種を蒔き、折角「律法を守らなければ救われない」という教えから人々を自由にしたのに、再び古い生き方に戻らせ、また自ら戻ってしまう人々が現れたので、パウロは緊急な思いでこの手紙を書いた。また、戻ってしまうだけではなく、その結果、異なる考え同士の人たちが互いにいがみ合う状況になって来たので、そんなことをしないようにと諭すためにもこの手紙を書いた。それが背景である。そんなパウロの思いが、Ⅴ13~Ⅴ15の言葉に現れている。それをもう一度、言い換えながら見てみよう。

Ⅴ13~Ⅴ15:「兄弟たち。あなたがたは、自由を与えられるために召されたのです。(言い換えるならば、「あなたがたは、律法を守らなければ救われないという律法の行いに関する間違った教えの奴隷の状態から救われました。」)ただ、(だからと言って律法を無視して、何でもしてもいいということではなく、)その自由を(その救いを)肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕えなさい。(なぜなら、守らなければならない)律法の全体は、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」という一語をもって全うされるのです。(全うされるからです。)」と、律法の行いに対する奴隷の状態から救い出し、イエス・キリストを信じる信仰によって自由が与えられたのだから、互いにいがみ合ったりせず、その自由を、本来の律法の要求するただ一点だけ、『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』という律法を行なうために使いなさい。」とパウロは言うのです。これが、パウロが言う御霊の実です。

Ⅴ22~Ⅴ23:「しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません。」と、御霊の9つある実の一番最初に「愛」が挙げられているのはそのためであり、「愛」が御霊の実の中心であり、また、その他の「喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」という実を結ばせ、また覆うものでもからです。よく、御霊の実は3つの部分、「愛、喜び、平安」は神様との関係において結ばれる実、「寛容、親切、善意」は人との関係において結ばれる実、そして「誠実、柔和、自制」は自分自身の中に結ばれる実と言われるが、それと同時に、「愛」がすべての根源であり、すべてを覆う一番大切な実なのです。そのことを、パウロはコロサイの手紙の中でも語っている。

 

 

コロサイ3:12~14:「それゆえ、神に選ばれた者、聖なる、愛されている者として、あなたがたは深い同情心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。互いに忍び合い、だれかがほかの人に不満を抱くことがあっても、互いに赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたもそうしなさい。そして、これらすべての上に、愛を着けなさい。愛は結びの帯として完全なものです。」

 パウロは、救われた者として身に付けるべき、同情心、慈愛、謙遜、柔和、寛容、…を、「御霊の実」と同様のように語り、それを完成させるのが「愛」であると言っているのです。

◎ここで、「御霊の実」に関して、行いとの関連で私たちがどうしても知っておかなければならないことが2つある。

 

①「御霊の実」は、私たちが頑張って行いや態度によって結ぼうと思っても結ぶことの出来る実ではないということ。何故なら、それは御霊が私たちのうちに結ばせる実だからです。

 

②しかし同時に、パウロが、「愛をもって互いに仕えなさい。律法の全体は、『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』という一語をもって全うされるのです。」とあるように、私たちが律法に従って、行ないの実として結ばせる実でもあるということです。

 

 これは一体どういうことでしょう?―これを図で説明する。

 

 先ず「愛」という御霊の実を、神様は私たちのために結んで下さった。これは天から地に立てられた

「神の愛」を示す十字架の縦の柱である。神様は私たちを救うため、御子であるイエス・キリストをこ

の地上に送って下さった。

Ⅰヨハネ4:10:「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめ

の供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」

※この縦の柱=「神の愛」が他の実を結ばせるための土台の柱になるのです。この柱に、私たちの神様

 

との関係における「愛、喜び、平安」、人との関係における「寛容、親切、善意」、そして自分自身の

中における「誠実、柔和、自制」という横の柱にある実が結ばれるのです。横の柱が先ではないのです。縦の柱がないのに横の柱を付けることは出来ません。律法の行いによって救われ、また、その行いによって実を結ぼうとするのは、縦の柱もないのに救われ、実を結ぼうとするようなものであり、それは実

 

現不可能なことである。

※先ず神様が私たちを愛して下さったから、次に私たちは神様を、そして人を、また自分自身を愛し、こうして私たちは人との関係の中に、自分自身の中に実を結ぶことが出来るのです。

Ⅰヨハネ4:11:「愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた互いに愛し合うべきです。」という、「互いに愛し合う」ということが出来るのです。

 またしばしば、私たちは御霊の実を結ぼうと、「自分の肉を十字架につける。」と言う表現で、肉の思いと戦うが、それは勝利することのない無用な戦いである。何故なら、キリストがそのために私たちの肉の姿をとり、十字架に釘付けられて、代わりに死に、肉の力で戦う必要のないようにしてくださったからである。

ガラテヤ5:24:「キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、さまざまの情欲や欲望とともに、十字架につけてしまったのです。」

【結論】

 ハレルヤ!このように、恵みによって私たちに御霊の実を結ばせてくださるようにしてくださった主に感謝しよう。ただ、恵み深い主に目をとめ、主を愛し、救いを喜び、感謝して歩もう。主は豊かに私たちに御霊の実を結ばせてくださいます。

―祈り―

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