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これまでのメッセージ

主日礼拝メッセージ:金子辰己雄師

【タイトル】

「神のかたち(3)ー互いによってー」

【聖書個所】

 創世記1:27、2:18~25

【導入】

 前回は、神様は私たちを「神のかたち」に創造されたというところか

ら、その「神のかたち」の中の、「一体になる」ということはどういう

ことかということについてみことばを取り次いだ。今日は別の視点を加

え、さらに「一体となる」ということについて理解を深めて行きたいと

思う。私たちはモノを見る時、左右二つの目でモノを見るが、それによ

って、私たちはモノをより立体的に、深み、距離感が加わって見ること

 

が出来る。同様に、今日は「一体となる」ということをより深みを持っ

て理解することが出来るように、もう一つの視点をもって見て行きたい

と思う。それは、「互いによって」という視点です。

【本論】

 神様は人を造られた後、Ⅴ18:「人が、ひとりでいるのは良くない。」と言われた。それまで神様は、地上にあらゆる生き物を造られた時、その後必ず「それはよい。」と言われていた。例えば、創世記1:25:「神は、その種類にしたがって野の獣を、その種類にしたがって家畜、その種類にしたがって地のすべてのはうものを造られた。神はそれを見て、よしとされた。」とあるように。

 何故、「ひとりでいる」のは良くないのか?―それは、神様は人を、それまで造って来られた地上のすべての被造物を支配させるために造られたからです。

Ⅴ26:「そして神は、『われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。そして彼らに、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配させよう。』と仰せられた。」とある。

 しかし、それを人は「ひとり」では実行出来ないからである。だから「良くない。」と言われた。

 また、神様は人を2つの意味あいで造られた。1つは、「何のために存在しているのか」という「存在の意義」を与えて、それを理解して生きるため。2つ目は、「何をするために存在しているのか」という、「役割」を与え、それを理解して生きるため。その二つのことを考える人間観を、それぞれ「存在論的人間観」、「機能論的人間観」と言うが、神様は、人を「存在論的人間」として、「互いに」という関係の中で生きるために造られたのです。そのために、神様は「人が、ひとりでいるのは良くない。」と言われたのである。ただ「使命・役割」を果たすために「良くない。」ではなく、「互いに存在しなければならないもの」として良くないと言われたのである。それで、神様は、「…。わたしは彼のために、彼にふさわしい助け手を造ろう。」と言われ、人からあばら骨を一つ取り、それを一人の人、女を造り上げ、その人を、元のその人のところに連れて来られた。すると、人は何と言ったと聖書は記しているだろうか。

Ⅴ23:「人は言った。『これこそ、今や、私の骨からの骨、私の肉からの肉。これを女と名づけよう。これは男から取られたのだから。』」

 

 人はもう一人の人と向き合い、こう言ったのである。ここで初めて人は、男と女になった。女は、ヘブル語で「イッシャ」、男は「イッシュ」となっているが、正確には、女は「イッシュシャ」、「シャ」というのは「~から」という意味の言葉で、つまり「イッシュ」(男)から取られたのでということなので、それを詰めて「イッシャ」になった。

※ここに、男と女の関係だけではなく、神様が造られたすべての人の人間関係における「イッシュ」、「イッシャ」の関係、つまり、お互いが向かい合って、お互いを必要とし合って存在するという「存在意義」をもった人が描かれている。だからこの二人は、共に全被造物の支配という役割を果たすけれども、互いに向かい合い、互いに結び合って「一体」となるという存在になったのです。そして、Ⅴ25:「人とその妻は、ふたりとも裸であったが、互いに恥ずかしいと思わなかった。」と言う。「裸」というのは、造られたままの、あるがままの状態を言う。二人はお互いに造られたものとして、あるがままで、それを互いに恥ずかしいとも思わなかったと言う。

 ところが、この麗しい関係は壊れた。何によってか?―サタンの誘惑のよって人が罪を犯したためである。それ以来、人は男も女も、どちらも恐れと恥の中で生きて行かざるを得なくなった。人は罪を犯した後、裸であるのを恥ずかしく思い、腰の覆いを造った。そして、神様の呼び掛けに対し、

 

3:10:「私は園で、あなたの声を聞きました。それで私は裸なので、恐れて、隠れました。」と言った。

 これは罪を犯した結果、私たち人間がみんな持つ、罪の結果としての「思い」です。この思いが、どれだけ私たち一人ひとりの人生を、またお互いの人生を傷つけ、破壊し、苦しめて来ただろうか?この後、神様の罪の指摘に対し、人が神様に対して答えた答えがそれを物語っている。恐れのために、罪を認めずに人に転嫁したのです。(Ⅴ11~Ⅴ13)

 

 しかし神様はそれを放置することなく、御子イエス・キリストを送って下さり、十字架で私たちの罪を贖い、恥と恐れの罪から私たちを救って下さった。

※パウロはこの救いの奥義を、キリストと教会、男と女の結婚の奧義として明らかにしている。

エペソ5:29~33:「だれも自分の身を憎んだ者はいません。かえって、これを養い育てます。それはキリストが教会をそうされたのと同じです。私たちはキリストのからだの部分だからです。『それゆえ、人は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となる。』この奥義は偉大です。私は、キリストと教会とをさして言っているのです。それはそうとして、あなたがたも、おのおの自分の妻を自分と同様に愛しなさい。妻もまた自分の夫を敬いなさい。」

【結論】

 私たちは互いに向き合い、結び合って一体となるために造られた。しかし、罪を犯したためにそれを失ってしまった。しかし、神様は私たちを「これこそ、今や、私の骨からの骨、私の肉からの肉。これを女と名づけよう。これは男から取られたのだから。」と言って、私たちを愛し、私たちのために十字架に架かって死んで下さったキリストと、互いに結び合う者として一つにして下さった。言い換えるならば、初めに神様が造られたように、お互いに「裸」の状態にして下さったのです。

◎「裸」は何だろう?―文字通り、オープンであり、隠し事がないこと。現実の社会の中では、救いが完成していないから困難かもしれないが、神様は元々はそのような状態のものとして私たちを造ってくださった。キリストは御自身の贖いによって、その「神のかたち」を回復して下さったのです。だから、

エペソ4:25:「ですから、あなたがたは偽りを捨て、おのおの隣人に対して真実を語りなさい。私たちはからだの一部分として互いにそれぞれのものだからです。」と言うのです。

※私たちは、キリストとの関係においてオープンになり、お互いとの関係においてオープンになって、キリストが私たちに対して「これこそ、今や、私の骨からの骨、私の肉からの肉。これを女と名づけよう。これは男から取られたのだから。」と言われたようにお互いに生きるなら、私たちはキリストにあって一体であるように、私たちも一体となることが出来るのです。

―祈り―

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