主日礼拝メッセージ:金子辰己雄師


【タイトル】

「御霊の実(2)ー神への愛、喜び、平安の実ー」

【聖書個所】

ガラテヤ5:22~23

【本論】

 前回、御霊の実の「アガペーの愛」は9つある御霊の実の中の柱になる実であり、他の8つの実をすべてカバーしている実であるということを学んだ。(Ⅴ14、コロサイ3:14)また、その「愛」は、相手の最善を願い、その実現のためならば、どんなことでもするものでもあることを学んだ。そのことを現わしているのが、イエス様の十字架であるということでした。

ピリピ2:3~8:「何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい。自分のことだけではなく、他の人のことも顧みなさい。あなたがたの間では、そのような心構えでいなさい。それはキリスト・イエスのうちにも見られる

ものです。キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。」

 ここには、私たちの最善(私たちの救い)を願い、そのためにご自分の神という立場を捨てられて、私たちの救いのために十字架に架かって下さったイエス様の私たちのために結ばれた愛の実を見ることができる。また、愛の実だけではなく、その十字架に「喜び」の実が結ばれているのも見ることができる。

へブル12:2:「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。」

 また、御霊に導かれている中での「平安」の実が結ばれていたのを、ガリラヤ湖上の嵐の中の出来事の中で見ることが出来る。(マルコ4:35~41)。このように、イエス様は人として歩まれる中でも、いつも御霊に導かれていたので、御霊の実を結んでいたのである。

 ここで、イエス様のように「愛、喜び、平安」の実を結んでいたひとりの人を見てみよう。

ルカ10:38~42:「さて、彼らが旅を続けているうち、イエスがある村に入られると、マルタという女が喜んで家にお迎えした。彼女にマリヤという妹がいたが、主の足もとにすわって、みことばに聞き入っていた。ところが、マルタは、いろいろともてなしのために気が落ち着かず、みもとに来て言った。『主よ。妹が私だけにおもてなしをさせているのを、何ともお思いにならないのでしょうか。私の手伝いをするように、妹におっしゃってください。』主は答えて言われた。「マルタ、マルタ。あなたは、いろいろなことを心配して、気を使っています。しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。マリヤはその良いほうを選んだのです。彼女からそれを取り上げてはいけません。」」

 そう、「マリヤ」がその人物。マリヤはこの時、「イエス様の足もとにすわって、みことばに聞き入っていた。」(Ⅴ39)とあるように、マリヤの耳にはイエス様の声、イエス様の語るみことばしか入らず、マリヤの目にはイエス様の姿しか映らず、どんなに周りでマルタが忙しく動き回っていても、他の何ものもマリヤの目にも耳にも入るものはなかったのである。そのように、マリヤはこの時、「愛、喜び、平安」の実を結んでいた。ちょうど、嵐の中にあって、艫で寝ているイエス様のようであった。(マルコ4:38)

 どうしてこのようでいることができたのであろうか?―それは、「御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません。」(Ⅴ22~23)とあり、その律法が要求している唯一のことは、「律法の全体は、『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』(Ⅴ14)という一語をもって全うされるのです。」とあるように、神様が本当に求めている、御霊が本当に求めている「隣人への愛」にマリヤは生きていたからです。つまり、御霊に満たされ、御霊に導かれて生きていたからである。

※「アガペーの愛」は何だったでしょう?―「愛する人の最善を求めること」、その「最善が実現するように、どんなことでも実行すること」でした。マリヤは、それを実行していたのです。

 ここで、イエス様は何のためにマルタとマリヤの家に来たのか考えてみよう。この時、イエス様が彼らに求めていたのは何だったのだろう?つまり、この時の「イエス様にとっての最善」とは何だったのだろうか?

 イエス様はこう言われた。

マルコ10:45:「人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。」

 マリヤは、イエス様の彼らに仕えるという目的に従って、みこころに従って、みことばに聞き言っていたのです。それがイエス様にとっての最善だからです。ところがマルタはそうではなかった。イエス様のして欲しいことをしないで、自分のしたいことをしていた。イエス様の最善ではなく、自分にとっての最善をしていた。勿論、動機はイエス様への愛だったのだろうけれども、でもその愛はアガペーの愛ではなく、自分の思いを満足させるための、自分を愛するという的外れの愛だった。

 私たちは、「神様を愛する、神様を信じる」と言いながら、実はそうではなく、マルタのように的外れの愛、的外れの信仰にしばしば陥ってしまいやすい。そしてマルタのように、御霊の実ではなく、肉の実を結んでしまいやすい。マルタはこの時、肉に導かれて、肉に支配されて、敵意、争い、そねみ(ねたみ)、憤りの実を結んでしまっていたのである。(ガラテヤ5:19~21)

 では、どうすれば肉の行い、肉の実を結ぶことなく、御霊に導かれて御霊の実を結ぶことができるのだろうか?―パウロは、Ⅴ16:「私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。」と言うが、では、具体的に「御霊によって歩む」とは、「御霊に導かれて歩む」とは、どうすればそれが可能になるのだろうか?

※それは繰り返しになるが、「神様を愛すること」=「神様の最善を第一にすること」です。

※「自分は本当に神様の最善、御心を第一にしているだろうか?―神様を愛すると言いながら、自分の最善を第一にしてはいないだろうか?」と、心を吟味することです。

 もし、そう思えず、平安も喜びもなく、肉の行いをし、肉の実を結んでいるのなら、それを認め、告白し(Ⅰヨハネ1:9)、そして悔い改めて、御霊の実を結ぶようにしよう。パウロはそれを、ローマ12:2で、「心の一新によって自分を変えること」だと言っている。

ローマ12:2:「この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全(最善)であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。」

 ここでの「この世」とは、周りの世の中のことだけではなく、私たちの中にある、この世的な生き方のことでもある。つまり、救われる以前の古い生き方、肉の思いによる生き方のことです。私たちはそのようなものに導かれるのではなく、御霊に導かれなければならないのです。

【結論】

 今日、もう一度、自分の信仰の在り方、自分と神様との関係を点検してみよう。私たちが本当に神様を愛し、神様の求める最善のこと求め、行なっているだろうか?

―祈り―

これまでのメッセージ

© 2015-2020 by Sunrise Christian Center Misato Yoshikawa Church

大きな幻を持ち、小さいことにも忠実に、・・・主の愛に生きる教会

 Big enough to vision and small enough to care, ...living in the love of our Lord.

  • Twitter Social Icon
  • c-facebook
This site was designed with the
.com
website builder. Create your website today.
Start Now