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これまでのメッセージ

主日礼拝メッセージ:金子辰己雄師

February 18, 2018

【タイトル】

「エズラ記(2)ー信仰は神への応答」

【聖書個所】

 エズラ2:1~70

【本論】

Ⅴ1:「バビロンの王ネブカデネザルがバビロンに引いて行った捕囚の民で、その捕囚の身から解かれて上り、エルサレムとユダに戻り、めいめい自分の町に戻ったこの州の人々は次のとおりである。」

 と言い、聖書はこの後Ⅴ2~Ⅴ67に掛け、ゼルバベルと一緒にエルサレムに帰還した人々の数を、部族ごとや定住地ごとにそのすべてを書き出している。民の数だけではなく、彼らに仕えていた奴隷や家畜の数に至るまで、一頭も漏らさず記されている。それは一体何を意味するのか?ここに今日のメッセージの第一のポイントがある。

(1)神様は、一人でも忘れることなく、すべての人を勘定に入れている。

 決して一人の存在はどうでもよいということではないということである。例えばイエス様の十字架による救いについても、たとえ一人であっても、イエス様はその一人のために十字架に着いてくださるのである。神様はそのように、一人一人を勘定に入れ、大切に思っておられる。だから各氏族ごとの人数を漏らさず残しておられるのである。そのような「ひとり一人を勘定に入れて、大切にされている神様の御心」を、ルカ15:4~32の「いなくなった一匹の羊」、「なくなった一枚の銀貨」、「放蕩息子」の譬話の中に見ることができる。そこでの結論は、「ひとりの罪人が悔い改めるなら、天国では喜びをもって大宴会が始まる。」ということ。

ルカ15:10:「あなたがたに言いますが、それと同じように、ひとりの罪人が悔い改めるなら、神の御使いたちに喜びがわき起こるのです。」

(2)次に問題なのは、私たちは、その招きに、その恵みに応答しなければならない者であるということ。

 

 先程、神様は私たち一人一人に関心を持っておられると言ったが、それはただ単に頭数を数えるという意味だけではなく、私たち一人一人が人格をもった、名前を持った掛け替えのないオンリーワンの存在としての一人一人という人間であって、そのような私たち一人一人に関心、重荷、愛を持っておられるということである。そのようにして名前を挙げているのである。

 彼らは、ゼルバベルを筆頭に、Ⅴ2に上げられている11人の主だった人(群れの指導者)を中心にして、「さあエルサレムに帰ろう。」と、どこかに集まって、そして一斉に群れを成して帰って行っているはず。私たちは一斉に集まって何かをする時、特に、どこかに行こうとする時、何をするだろう?昔の学生時代、特に小学校や中学校の時を思い出してみると、そう、ひとりひとりの名前を呼んで点呼している。この時も、きっとそれぞれ名前を呼んでいたはず。

 Ⅴ3~Ⅴ61には、85の氏族名と18の定住地の地名が出て来るが、恐らく、氏族ごとに、また定住地ごとに、そこに属する人々の名前がひとりひとり呼ばれて、そして数が数えられて集まり、そしてバビロンからエルサレム目指して旅立って行ったことだろう。そしてエルサレムに帰還したのである。その時の人々の合計が、Ⅴ64で42,360名と記されているが、ここで使われている「全集団」という言葉が、まさにその呼び掛けに応えた集まった人々を意味する言葉なのである。セプトゥアギンダ(70人訳聖書:BC3半~BC1、アレキサンドリアで編纂)では、「エクレシア」(「呼び出された者」、「召し出された者」という意味のギリシャ語)となっている。

※そう、このように、神様の呼び掛けに応答するのが、私たちの信仰である。信仰というのは、神様の呼び掛けに対する応答であり、救いは、その結果である。

 先程の「いなくなった一匹の羊」、「なくなった一枚の銀貨」、「放蕩息子」の譬のところをもう一度見てみよう。

ルカ15:8~10:「また、女の人が銀貨を十枚持っていて、もしその一枚をなくしたら、あかりをつけ、家を掃いて、見つけるまで念入りに捜さないでしょうか。見つけたら、友だちや近所の女たちを呼び集めて、『なくした銀貨を見つけましたから、いっしょに喜んでください。』と言うでしょう。あなたがたに言いますが、それと同じように、ひとりの罪人が悔い改めるなら、神の御使いたちに喜びがわき起こるのです。」

 神様は、このなくなった一枚の銀貨を捜す女の人のようです。そして見つかると、「なくした銀貨を見つけましたから、いっしょに喜んでください。」と言うという。その時にイエス様は、つぶやいている律法学者やパリサイ人たちに何と言ったのだろう?

 

Ⅴ10:「あなたがたに言いますが、それと同じように、ひとりの罪人が悔い改めるなら、神の御使いたちに喜びがわき起こるのです。」

 「悔い改めるなら」:自分が誰で、どういう者で、どうあらねばならない者であるのかが分かるなら、ちょうど銀貨が見つかって、銀貨としての目的、役割を果すことが出来ることになって、銀貨が自分がどういうものであるのかが分かるなら、その人は救われたと言える。悔い改めるということはそういうこと。神様との関係において、神様の御手の中にあって、「ああ、自分はこういう者なのだ。」と分かる。それは、悔い改めたからです。方向転換したからです。「神様、私は・・・しました。・・・。」と、カトリックの懺悔のように、いちいち罪を告白することが悔い改めではない。だから、感謝して、悔い改めて神様に向かい合い、いつも神様と共に歩むこと、それが本当の悔い改めであり、悔い改めの実といえるのである。

(3)神の国とその栄光を第一にしよう。

Ⅴ70:「こうして、祭司、レビ人、民のある者たち、歌うたい、門衛、宮に仕えるしもべたちは、自分たちのもとの町々に住みつき、すべてのイスラエル人は、自分たちのもとの町々に住みついた。」

 彼らはみなエルサレムに着いたのだが、「こうして」とは何のことだろう?

Ⅴ68~Ⅴ69:「一族のかしらのある者たちは、エルサレムにある【主】の宮に着いたとき、それをもとの所に建てるために、神の宮のために自分から進んでささげ物をした。すなわち、彼らは自分たちにできることとして工事の資金のために金六万一千ダリク、銀五千ミナ、祭司の長服百着をささげた。」

 エルサレムに着いた人々は、先ず自分たちのもとの町々に住み着く前に、先ず、帰還の目的であった神殿建設のために、「自分から進んでささげ物をした」という。

※ここに、「エクレシア」=神様から名前を呼ばれ、神殿=教会を建てるように召された私たち一人一人の信仰の応答による働きがある。

【結論】

 この捕囚の民が、神様の点呼に答えてエルサレムに行ったように、私たちも神様の呼び掛けに答え、神殿の建設=教会の形成をしよう。それは、神様への呼び掛けに応答する信仰によって実現するのです。

 

Ⅰコリント6:19~20:「あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。6:20 あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現しなさい。」

―祈り―

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