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これまでのメッセージ

主日礼拝メッセージ:金子辰己雄師

【タイトル】

「十字架の福音の恵み」

 

【聖書個所】

 ガラテヤ2:20

【導入】

質問:「『イエス様の十字架』はあなたにとって何ですか?」と質問さ

れたり、「教会にある十字架の意味は何ですか?」という質問がされた

としたら、それにどう答えるだろうか?―これらの質問にどう答えるか

は、私たちクリスチャンにとって非常に重要である。それは、私たちが

十字架をどのように理解し、どう信じているかということだからである。

 

 今日は、来週受難週を迎えるに当たり、このクリスチャンにとって重

要な十字架の福音についてみことばを分かち合う。

【本論】

(1)十字架は私たちの罪の完全な赦しのため

ヘブル10:1~10:「律法には、後に来るすばらしいものの影はあっても、その実物はないのですから、律法は、年ごとに絶えずささげられる同じいけにえによって神に近づいて来る人々を、完全にすることができないのです。…。雄牛とやぎの血は、罪を除くことができません。ですから、キリストは、この世界に来て、こう言われるのです。「あなたは、いけにえやささげ物を望まないで、わたしのために、からだを造ってくださいました。あなたは全焼のいけにえと罪のためのいけにえとで満足されませんでした。そこでわたしは言いました。『さあ、わたしは来ました。聖書のある巻に、わたしについてしるされているとおり、神よ、あなたのみこころを行うために。』」…。このみこころに従って、イエス・キリストのからだが、ただ一度だけささげられたことにより、私たちは聖なるものとされているのです。」

 ここで言われていることは、人は律法を行うことによっては罪の赦しを完全に受けることが出来ないので、そのために神は御子を用意され、私たちの罪を完全に贖うことの出来る生贄として十字架にかけて下さった。またイエス様ご自身もそのことを弁えて、「…。『さあ、わたしは来ました。聖書のある巻に、わたしについてしるされているとおり、神よ、あなたのみこころを行うために。』」(Ⅴ7)と言っているということです。

 

※ここに、先ず私たちにとっての十字架の第一の意味がある。それは、私たちにとって馴染みのある「私たちの罪の赦しのためのイエス様が身代わりにかかって下さった十字架」という理解である。そして聖書は、その罪の赦しというものがどういうものであるのか、次のように言っている。

Ⅴ10:「このみこころに従って、イエス・キリストのからだが、ただ一度だけささげられたことにより、私たちは聖なるものとされているのです。」

「聖なるものとされている。」とは、「完全に義とされている。」、「完全に神の子とされている。」ということだが、その完全さとはどれほどの完全なのだろうか!

イザヤ38:17C:「…。あなたは私のすべての罪を、あなたのうしろに投げやられました。」

イザヤ43:25:「わたし、このわたしは、わたし自身のためにあなたのそむきの罪をぬぐい去り、もうあなたの罪を思い出さない。」

 と言うほどの完全さであり、それは、「段々罪の赦しが行われる」とか、「徐々に救われる」とか、「段々義とされる、少しずつ聖なる者とされる」ということではないのである。私たちはつい現実の自分たちの状態に目が行ってしまいがちだが、私たちは聖書がどう言っているかに目を置かなければならないのです。聖書は私たちの救いについて、こう言っている。

Ⅱコリント5:17:「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」

 人の子というものが誕生した瞬間に人の子であるように、私たちも信じた瞬間に罪赦され、神の子となったのである。(ガラテヤ3:26)では、ピリピ2:12「恐れおののいて自分の救いを達成してください。」とか、聖化というのはどういうことか?と思うかもしれないが、それは成長という問題であって、私たちが現実にどうであろうと、真理(霊的事実)としては、私たちはもう完全に義人であり、決して「罪赦された罪人」などではないのであ

る。しかし、イエス様の十字架の福音はそれだけではない。

(2)十字架は私たちの古い人(罪人)の刑場である。

ローマ6:3~(5を飛ばして)11:「それとも、あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた私たちはみな、その死にあずかるバプテスマを受けたのではありませんか。私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。…。私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。死んでしまった者は、罪から解放されているのです。…。なぜなら、キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、キリストが生きておられるのは、神に対して生きておられるのだからです。このように、あなたがたも、自分は罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者だと、思いなさい。」

 イエス様は救い主です。そのために十字架について下さった。しかしその救いは私たちの古い人を十字架に釘づけ、死に至らせることによる救いです。それがよく現われているのが洗礼式。全身の浸礼は古い人の死を意味し、洗礼槽はその死んだ人が入る棺桶である。人がイエス様を信じ、それを現わす洗礼は、古い人の死を意味する。私たちはしばしば「罪の赦し」に関し、「私たちの罪が覆われた。」と表現するが、しかし罪は覆われるものではなく、取り出して捨てられるべきもの。イエス様はそれを完全に行うために、罪そのものではなく、罪を生み出す罪人の私たちを十字架で死に至らせ(殺し)、完全な罪の赦しをなされた。だから、イエス様は「見よ。世の罪を取り除く神の子羊」(ヨハネ1:29)と言われた。そしてパウロは、そのような罪の赦しについて、Ⅴ10で、「…思いなさい。」と言われた。これは、「勘定に入れなさい。」と言う意味であり、そのように何度も何度も思いに刻み、忘れてはいけないことなのである。次に;

(3)私たちは自分自身を、そのように救われた者として神様にささげる。それが信仰によって生きるということである。信仰の従順であり、献身のこと。

ローマ6:16~19:「あなたがたはこのことを知らないのですか。あなたがたが自分の身をささげて奴隷として服従すれば、その服従する相手の奴隷であって、あるいは罪の奴隷となって死に至り、あるいは従順の奴隷となって義に至るのです。…。あなたがたは、以前は自分の手足を汚れと不法の奴隷としてささげて、不法に進みましたが、今は、その手足を義の奴隷としてささげて、聖潔に進みなさい。」

ローマ12:1:「そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。」

 イエス様を私たちの救い主として信じて生きるということはこういうこと。イエス様に従順して、イエス様に自分をささげて生きることです。イエス様は、その歩みについてこう言った。

マタイ16:24:「それから、イエスは弟子たちに言われた。『だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。』」

【結論】

 パウロはそのことを、今日のみことばの中で言っている。ガラテヤ2:20:「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が肉にあって生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。」

―祈り―

 

 

 

 

 

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