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これまでのメッセージ

主日礼拝メッセージ:金子辰己雄師

【タイトル】

 神のかたちの完成目指して(6)「自由の喪失と回復」

 

 【聖書個所】

 創世記1:26、2:15~17

【本論】

 神様は地上のあらゆる植物や動物を、植物は3日目に、魚や鳥は5日目に

、地の上の動物は6日目に造られ、そして最後に、ご自身の「かたち」に似

るように私たち「人」を造られた。そして、その「神のかたち」として造ら

れた私たちに、その「神のかたち」としての存在意義と役割・使命を与えら

れた。その存在意義と役割・使命とは何だろうか、それは;

Ⅴ26:「そして神は、『われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。そして彼らに、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地を

はうすべてのものを支配させよう。』と仰せられた。」とあるように、この地球上のあらゆる動物を支配・管理することであった。またそのために神様は彼らに、地上の植物、草木を彼らの食物として与えられた。

創世記1:29:「神は仰せられた。『見よ。わたしは、全地の上にあって、種を持つすべての草と、種を持って実を結ぶすべての木をあなたがたに与える。それがあなたがたの食物となる。』

 そして、「どの木からでも思いのまま食べてよい。」(2:16)と言われたのである。ちょうどバイキングスタイルの食事に招かれ、「さあ、どれでも自由に、好きなだけ食べていいですよ。」と言われているようである。

 しかし残念ながら彼らには、「これだけは食べてはいけない。」というメニューがあった。それは善悪の知識の木の実。バイキングに行って、「さあどうぞ」と案内されるけれど、ある所で、「向こうにある食べ物は食べてはいけない。」と言われているようなものである。皆さんだったらその時どう思うだろうか?―「なにか不自由だな!なにか自由じゃないな?」と思いますか?

◎ここで、「自由とはどういうものか」について少し考えてみよう。自由の定義はいろいろあるが、聖書は何と言っているか、神様の言葉に目を留めてみよう。それは、先ほどの神様の言葉、「あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。」と言う「思いのまま」という言葉に、それは示されている。しかし、「思いのままに」ということから、何でもかんでも無制限に、無節操にということではなく、何を、いつ、どの位食べるかということや、或いはまた、食べるか食べないかということも含めて、自分で決めて、自分で選択して行う、つまり、人の選択や人の決定ではなく、自分に与えられている選択権や決定権を使って事を行なうということです。それが自由というものです。

 それはまた、「自由」という言葉からも分かる。「自分に由(よ)って、自分に従って」、「自分が由(よし)とするがままに」、行わない選択も含めて、ことを行なうことなのである。

 神様はアダムとエバに、その選択権と決定権、そして支配権を与えた。ところが彼らは、サタンの巧妙な嘘により、それらの権利、権威、力を失ってしまった。奪い取られてしまったのである。聖書的な意味で、自由に生きる力、自分に由ってことを支配する力を失ってしまったのです。

神様は彼らに、「善と悪の、(抄訳:善と悪、祝福と呪いの)知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ。」(Ⅴ17)と言って、彼らに、食べない選択と、食べない決定、そしてそのように自分を支配するチャンスを与えていたのに、彼らはそれに従わないで、自らそれらの権威、自由を失ってしまったのである。

※だからパウロが言うように、したいと願う善を行うことが出来ないで、したくないと思う悪を行ってしまうという災い、不自由さを被り、その中に生きるようになってしまったのです。それが今日の私たちの姿である。

罪を犯した者の最初の例:自分の捧げ物に目を留められないで、弟の捧げ物に目を留められたので、腹を立てたカインの例。

創世記4:7:「あなたが正しく行ったのであれば、受け入れられる。ただし、あなたが正しく行っていないのなら、罪は戸口で待ち伏せして、あなたを恋い慕っている。だが、あなたは、それを治めるべきである。」

※人はそのように、またパウロのように自分の心をも治めることが出来なくなってしまった。自由を失ってしまったのです。

※でもここにグッドニュース、福音がある。神様は私たちに、その失った自由を回復させるため、御子であるイエス様を十字架に釘付けて下さった。そして私たちを、パウロの言う通り、死の体から、自由を失った体から救い出して下さったのです。

ローマ7:24~25:「私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します。ですから、この私は、心では神の律法に仕え、肉では罪の律法に仕えているのです。」

・「罪の律法」:私たちを罪に定め、死に至らせる律法。力、(Ⅱコリント3:9)のこと。

・「神の律法」:いのちを与える律法、神の言葉、御霊、イエス様のこと。

ヤコブ1:25:「ところが、完全な律法、すなわち自由の律法を一心に見つめて離れない人は、すぐに忘れる聞き手にはならないで、事を実行する人になります。こういう人は、その行いによって祝福されます。」

 この「完全な律法」、「自由の律法」とはみことばのこと、神の言葉であるイエス様のことである。イエス様だけが私たちに自由を与えてくれるのです。

 初めに神様が私たちを「神のかたち」に造り、すべての選択権、決定権、そして支配権を与えられた。自由を与えられた。それはちょうど、アダムとエバに「支配せよ。」と命じられた「海の魚」、「空の鳥」、「地を這う生き物」と同じである。鳥は空にある鳥として自由であり、魚は海にある魚として自由であり、地を這う生き物は、地を這う生き物として自由である。そうでなければ死んでしまうのである。しかし、人は罪を犯して死んでしまった。でも私たちはイエス様の贖いにより、再び自由が与えられたのである。

 

【結論】

 だから、もう再びその自由を失うことのないようにしよう。そして、完全な律法、自由の律法、イエス様にしっかりと目を留め、イエス様から目を離すことなく歩んで行こう。そして、むしろその自由を用いて、神様から与えられた使命に生きて行こう。

ガラテヤ5:1:「キリストは、自由を得させるために、私たちを解放してくださいました。ですから、あなたがたは、しっかり立って、またと奴隷のくびきを負わせられないようにしなさい。」

―祈り―

 

 

 

 

 

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