ペンテコステ礼拝メッセージ:金子辰己雄師


【タイトル】

「ペンテコステの恵みー教会の誕生、そしてー」

【聖書個所】

使徒の働き1:3~8

 聖書の福音書では、イエス様のメシヤとしての働きが始まると、数多くの人々がイエス様につき従ったということを記録している(マタイ4:25)。 しかしまた、イエス様が十字架に架かり、そこで死ぬことを証しし始めると、あれほど大勢つき従っていた人々は、蜘蛛の子が散るようにどんどんイエス様の許から去って行き(ヨハネ6:66)、そして最終的には、イエス様がゲッセマネの園で捕らえられると、イエス様と3年半も共にいた弟子たちさえもイエス様を見捨てて逃げてしまったこと(マタイ26:56)、そしてイエス様がローマ兵の手にかかり、十字架の上で死んでしまうと、頼るべき司令官を失った軍隊のように、イエス様を十字架に架けた人々の目を恐れ、家の中に潜んでいるような有様だった(ヨハネ20:19)。 

 あれほど勢いのあったイエス様の弟子の群れは、もう消えかかる蝋燭のように、風前の灯の状態であった。しかしそんな中でイエス様は3日後によみがえられ、40日の間、弟子たちの間に現れ、ご自分が生きていることを示し、そして言葉を残して行かれた。その言葉とは、使徒1:4~5:「エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。ヨハネは水でバプテスマを授けたが、もう間もなく、あなたがたは聖霊のバプテスマを受けるからです。」という命令と約束だった。

 弟子たちはこのみことばに従い、約束のものを受けるために祈っていた。そしてそこに、イエス様の昇天後10日目、五旬節の日に聖霊が降り、教会が誕生した。しかし、聖霊が降って誕生したのは教会だけではなかった。私たちも誕生したのである。イエス様は言われた。

使徒1:8:「しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」と。

 この節はクリスチャンである私たちに対し、キリストの証人となるためには聖霊のバプテスマを受け、力を受けなければキリストの証人になることが出来ないということを教えているのではない。そのように教える人もいるが、このみことばは誰に語られていたのか、イエス様が「あなたがた」と呼んでいるのは誰のことか、それを見てみよう。―それは、

①イエス様がよみがえって、「わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしです。霊ならこんな肉や骨はありません。」(ルカ24:39)と言っているのに、よみがえりのイエス様を見ても、疑ったり、取り乱していたりした弟子たちであり、また、

②そのイエス様が現れるまでは、人々を恐れ、戸を閉めて隠れていた弟子たちであった。(ヨハネ20:19)また、、

③Ⅴ4~Ⅴ5:「エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。ヨハネは水でバプテスマを授けたが、もう間もなく、あなたがたは聖霊のバプテスマを受けるからです。」と聞いても、Ⅴ6:「主よ。今こそ、イスラエルのために国を再興してくださるのですか。」と頓珍漢な答えをし、イエス様から3年半の間いろいろ教えてもらっていたのにも拘わらず、イエス様が何のために来られ、死んで墓に葬られ、そしてよみがえられたのか、そして「父の約束」とは何なのか、「聖霊のバプテスマ」とは何なのか、その時点では全く分かっていなかった弟子たちに対してだったのである。

 つまりこの時点では、確かに彼らはイエス様に選ばれ12弟子になっていたが、本当の意味では(「本当の意味で」というのは、「実質的に」、「実際に」という意味)、彼らはまだクリスチャンに、弟子に、そして証人になっていなかった。彼らは、この後聖霊を受け、初めて本当の意味でクリスチャン(キリストの者)になり、キリストを証しすることが出来る者になったのです。それが、「聖霊のバプテスマを受ける」ということであり、受けた結果の「キリストの証人になる」ということです。

 だからペテロはそのバプテスマを受け、正しく「キリストの証人」として、ヨエル書のみことばを引用し、詩篇のみことばを引用し、彼らが受けた聖霊について、また十字架に付けられて死んでよみがえられたイエス様について証しをした。ガリラヤの漁師であったペテロが、使徒4:13では「無学な、普通の人」と言われているペテロが、どうして聖書を解き明かし、最後には3,000人もの人々を悔い改めに導くことが出来たのか?―それは彼の上に聖霊が臨み、力を受けてキリストの証人となったからです。―この「力」とは、聖霊のバプテスマを受けることによって受ける真理(イエス様、イエス様の語られた言葉)を知る力です。イエス様は十字架に架かられる前、弟子たちに次のように語られていた。

ヨハネ14:26:「しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。」

 ペテロはこの聖霊を受け、イエス様を十字架に付けたユダヤ人たちに対し、Ⅴ38:「…。『悔い改めなさい。そして、それぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう。』」と、今、彼自身が受けた聖霊のバプテスマを人々にも薦めたのです。これが聖霊のバプテスマであり、ペンテコステの恵みです。そして、その結果誕生したのが、キリストの証人であり、私たちクリスチャンです。

※キリストの証人とクリスチャンとの間には違いはない。人は、イエス様を信じて水のバプテスマを受けてクリスチャンとなり、そしてその後、聖霊のバプテスマを受けてキリストの証人となるというように、2段階で、2つのバプテスマを受けてなるというのではない。クリスチャンになるために、キリストの証人になるために、聖書は2つのバプテスマがあるとは言っていない。「イエス・キリストの名によるバプテスマ」、「父、子、聖霊の御名によるバプテスマ」、「聖霊のバプテスマ」と言い方は違うが、皆、キリストの「中に」、父、子、聖霊の「中に」、聖霊の「中に浸される=入る」というバプテスマなのである。エペソ4:5:「主は一つ、信仰は一つ、バプテスマは一つです。」とある通りです。

 では何故、クリスチャンとキリストの証人とに違いがあるかのような混乱があるのだろう。それは、2つの点で聖書が正しく教えられていないからです。

(1)イエスの御名によって罪の赦しを受け、それを告白してバプテスマを受けるならば、ペテロの説教にあるように、誰でもが聖霊のバプテスマに預かるのです。しかし、それが正しく教えられていないために、「まだ証人ではない」と考えてしまうのです。パウロ自身もそれを体験した。

使徒19:1~6:「アポロがコリントにいた間に、パウロは奥地を通ってエペソに来た。そして幾人かの弟子に出会って、『信じたとき、聖霊を受けましたか。』と尋ねると、彼らは、『いいえ、聖霊の与えられることは、聞きもしませんでした。』と答えた。『では、どんなバプテスマを受けたのですか。』と言うと、『ヨハネのバプテスマです。』と答えた。そこで、パウロは、『ヨハネは、自分のあとに来られるイエスを信じるように人々に告げて、悔い改めのバプテスマを授けたのです。』と言った。これを聞いたその人々は、主イエスの御名によってバプテスマを受けた。パウロが彼らの上に手を置いたとき、聖霊が彼らに臨まれ、彼らは異言を語ったり、預言をしたりした。」

 パウロがエペソに来た時、エペソの兄姉の内の何人かは、イエスの御名によってバプテスマを受けるなら、賜物として聖霊を受けることが教えられていなかったのです。

(2)「賜物として聖霊を受けること」と、「聖霊の賜物、特に異言を受けること」との間に違いがあることが教えられていないために、「まだ私は聖霊を受けていない。」と誤解してしまう。

 使徒2:38の「賜物として」の「賜物」はドーリアであり、「聖霊の賜物」(Ⅰコリント12等)の「賜物」はカリスマです。聖書は二つの「賜物」を明確に区別していて、聖霊の賜物の異言は、ペンテコステの時の異言とは違うものである。聖霊の賜物の異言は、Ⅰコリント14:2:「異言を話す者は、人に話すのではなく、神に話すのです。というのは、だれも聞いていないのに、自分の霊で奥義を話すからです。」という異言であり、ペンテコステの時の異言は、人に分かる言語である(使徒2:8)。だから、聖霊の賜物の異言が与えられていないからと言って、私たちの内のある者は「まだ聖霊を受けていないので、証しをすることができない。」と考えるのである。

 しかし、主の御名を信じてバプテスマを受けた者はみなキリストの証人です。このことをはっきりと知ろう。そして恐れずに主を証しして行こう。

これまでのメッセージ

© 2015-2020 by Sunrise Christian Center Misato Yoshikawa Church

大きな幻を持ち、小さいことにも忠実に、・・・主の愛に生きる教会

 Big enough to vision and small enough to care, ...living in the love of our Lord.

  • Twitter Social Icon
  • c-facebook
This site was designed with the
.com
website builder. Create your website today.
Start Now