主日礼拝メッセージ:金子辰己雄師

【タイトル】

「神のかたちの完成目指して(7)―安息の喪失と回復―」

【聖書個所】

創世記2:1~3

【序論】

 神様は6日間掛かって万物を作り、7日目にそのわざを終えてその日を祝福し、その日を聖別したとある。そしてⅤ3に、その聖別した理由が書かれている。

Ⅴ3:「それは、その日に、神がなさっていたすべての創造のわざを休まれたからである。」

 抄訳聖書では、「というのは、神様は為されたすべての創造のわざから離れ、その日、つまり7日目に休まれたからである。」とある。つまり神様は6日間働かれ、そして7日目をご自分の「休み」のために特別な日として切り分けた(「聖とする」ということはそういうこと)という。そしてその目的は、ご自分の休みのためであったというのである。この休みのことを、聖書では「安息」((へ)シャバース)という。この神様の創造のみわざを終えた後の、神様ご自身が聖別された安息のことから、モーセの十戒から始まる「安息日律法」が生まれている。

出20:8~11:「安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。六日間、働いて、あなたのすべての仕事をしなければならない。しかし七日目は、あなたの神、【主】の安息である。あなたはどんな仕事もしてはならない。──・・・。──それは【主】が六日のうちに、天と地と海、またそれらの中にいるすべてのものを造り、七日目に休まれたからである。それゆえ、【主】は安息日を祝福し、これを聖なるものと宣言された。」

 今日はこの「神様の休み」、「安息」について、「その喪失と回復」という点から、「聖書が言う「安息」とはどういうものか」について、みことばから見て行きたいと思う。

【本論】

 神様は創造のわざの最後に私たちを「ご自身のかたち」に造り、そして造られたすべてのものを見て、「それは非常によかった。」(創世1:31)つまり、「完全だ。すべてが充実していて、何一つ不足がない。」と言われた。そして7日目に、その日を祝福し、聖別し、安息日とされた。

 人には生きるために必要なものが2つあるという。①安心感と②生き甲斐である。この時、アダムとエバにとり、神様にとって安息の時であったと同様に、彼らにとっても安息であった。物質的(衣食住)、精神的(使命)、霊的な充足(神との交わり:創世3:8)があったからである。

 しかしその安息を壊したものがあった。彼らの犯した罪である。その結果、彼らはその安息を失い、代わりに、物質的にも精神的にも霊的にも苦しみ、最後には永遠の死を迎える者となった。

創世3:16~19:「女にはこう仰せられた。『わたしは、あなたのうめきと苦しみを大いに増す。…。また、人に仰せられた。『…。あなたは、一生、苦しんで食を得なければならない。…。あなたはそこから取られたのだから。あなたはちりだから、ちりに帰らなければならない。』」

しかし、私たちを造られ、私たちを愛しておられる神は、そのままにはなさらなかった。御子イエス様を送って下さったのである。それが、原福音としてここに記されている。

創世3:15:「わたしは、おまえと女との間に、また、おまえの子孫と女の子孫との間に、敵意を置く。彼は、おまえの頭を踏み砕き、おまえは、彼のかかとにかみつく。」

 この贖いに基づく安息日の制定が、創造のゆえの規定と共に、モーセの律法に記されている。

申命記5:12~15:「安息日を守って、これを聖なる日とせよ。あなたの神、【主】が命じられたとおりに。…。あなたは、自分がエジプトの地で奴隷であったこと、そして、あなたの神、【主】が力強い御手と伸べられた腕とをもって、あなたをそこから連れ出されたことを覚えていなければならない。それゆえ、あなたの神、【主】は、安息日を守るよう、あなたに命じられたのである。」

 この安息日律法のため、イエス様の時代、真の安息を見出すことの出来ない人たちがいた。

マルコ2:23~28:「ある安息日のこと、イエスは麦畑の中を通って行かれた。すると、弟子たちが道々穂を摘み始めた。すると、パリサイ人たちがイエスに言った。『ご覧なさい。なぜ彼らは、安息日なのに、してはならないことをするのですか。』イエスは彼らに言われた。…。また言われた。『安息日は人間のために設けられたのです。人間が安息日のために造られたのではありません。2:28人の子は安息日にも主です。』」

 彼らは、「安息」というものを「労働してはならない。動いてはならない。何かをしてはいけないこと」だと捉えていた。しかし、神様が祝福し聖別された安息は、また、イエス様が働かれて、人々を悪霊から解放し、人々の病いを癒されて与えられた安息は、そういう安息ではなかった。

彼らは、神様も休まれたのだから、自分たちも休まなければならないと考えた。そこに大きな誤解があった。もう一度、創世記2章を見てみよう。

創世記2:1~3:「こうして、天と地とそのすべての万象が完成された。神は第七日目に、なさっていたわざの完成を告げられた。すなわち第七日目に、なさっていたすべてのわざを休まれた。神は第七日目を祝福し、この日を聖であるとされた。それは、その日に、神がなさっていたすべての創造のわざを休まれたからである。」

 神様が終えられたのは創造のみわざであって、決してほかの神様としてのみわざを止めてしまったわけではない。神様はこの後も太陽を上らせ、夜は月を上らせ、というよりは、地球が1日24時間1回転するように、全宇宙を、全地を支配し、雨を降らせ、植物を実らせ、多くの生き物を養っておられた。また、アダムとエバとも親しく交わりを持っていた。また、イスラエルの民がエジプトを出る時でさえも、神様はご自身の大いなる救いのみわざをなされた。

出エジ14:13~14:「それでモーセは民に言った。『恐れてはいけない。しっかり立って、きょう、あなたがたのために行われる【主】の救いを見なさい。あなたがたは、きょう見るエジプト人をもはや永久に見ることはできない。14:14【主】があなたがたのために戦われる。あなたがたは黙っていなければならない。』」

【結論】

 つまり、神様は7日目であっても、律法学者やパリサイ人たち、また私たちが考えているように、何もしないで休んでおられたのではなく、私たちを守り、導き、助けるために、そして、イスラエル人たちをエジプトの奴隷の状態から救い出された時も、またそれを象徴とする私たちの罪の奴隷からの救いの時でさえも、そのために私たちの身代わりに十字架に架けられ、死んで墓に葬られ、そして三日目によみがえられた。そして今は天の父の右の座に座し、今でも私たちのために執り成し祈り、そして私たちを祝福し、神様の安息の中に入ることが出来るようにと働いているのである。この安息は、やがて私たちが入る天国の安息ではない。今求める者に与えられる神の安息である。そのために、ヘブル書の記者は、この安息に入ろうとしないユダヤ人たちに対して、ヘブル2章から4章に掛けて悔い改めと従順を迫っているのである。

ヘブル4:6~11:「こういうわけで、その安息に入る人々がまだ残っており、前に福音を説き聞かされた人々は、不従順のゆえに入れなかったのですから、神は再びある日を『きょう』と定めて、長い年月の後に、前に言われたと同じように、ダビデを通して、『きょう、もし御声を聞くならば、あなたがたの心をかたくなにしてはならない。』と語られたのです。もしヨシュアが彼らに安息を与えたのであったら、神はそのあとで別の日のことを話されることはなかったでしょう。したがって、安息日の休みは、神の民のためにまだ残っているのです。神の安息に入った者ならば、神がご自分のわざを終えて休まれたように、自分のわざを終えて休んだはずです。ですから、私たちは、この安息に入るよう力を尽くして努め、あの不従順の例にならって落後する者が、ひとりもいないようにしようではありませんか。」

※私たちも今、心を柔らかくし、神様の下さるこの安息という祝福に入ろうではありませんか?

―祈り―

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