主日礼拝メッセージ:金子辰己雄師


【タイトル】

「神のかたちの完成目指して(8)―交わりの喪失と回復―」

【聖書個所】

創世記3:8~13

【本論】

 この個所に、神様が世界を造られた後に、世界で一番最初に発せられた「問い」がある。「問い」というより、「叫び」のような「問い」がある。それは、「あなたは、どこにいるのか?」(Ⅴ9)である。

 どうして神様がこの問いを発せられたのか、それは、人がこの神様の問いに答えているように、神様が、取って食べてはならないと命じておいた木からその実をとって食べてしまった結果、善悪を知るようになり、自分の犯した罪の重さに気付き、裸の部分をいちじくの葉で隠すだけではなく、自分自身を神様の目から隠そうとしたからです。

 ここに、罪というものがどういうものであるか、罪がもたらすものが何であるかがよく示されている。罪というものは、「神との断絶のこと」という風に言うが、それは、「神との交わりを失ってしまった状態」と言っていい。

 人は罪を犯すまでは、「そよ風の吹くころ、彼らは園を歩き回られる神である【主】の声を聞いた。」(Ⅴ8)とあるように、彼らは「そよ風の吹くころ」、「園を歩き回られる神」(園の所有者であることを示す言葉)といつも交わっていた。神様をキリスト、私たちをキリストの花嫁とするならば、神様とデートをしていたというわけである。

脚注:「そよ風」=「日の風」=「一日の始まりの頃に吹く風」のこと。しかしこれは、私たちの一日の始まり、太陽が昇る朝に吹く風のことではなく、日が沈む夕方の頃に吹く風のことである。(ユダヤでは、一日の始まりは私たちの時間の午後6時である。)英語の聖書では、in the cool of the dayと表現されている。

 それほど素晴らしい神様との交わりを、人は罪を犯してしまった結果、失ってしまった。しかし、ここでその断絶の状態のことを見た時、その断絶は神様から「もうお前は罪を犯したから、もう駄目だ。お前は私とは何の関係もない。もうお前とは交わりをしない。私から離れて行け!」と、一方的に宣告されたものではない。どうしてか?―それは、神様がいつものようにそよ風の吹くころ、彼らと交わりをするために現れて、神様の方から、自ら罪を犯して身を隠している彼らに対し、「あなたは、どこにいるのか?」と呼びかけられているからです。

※これが神様の、罪を犯し、そして今でも罪の状態の中にいて、神さまから離れている、交わりを失っている人に対するみこころなのです。交わりの断絶は、神からのものではなく、人が罪を犯し、「自ら身を隠した=断絶を行なった」ものなのである。

 もう一カ所、その神様のみこころが示されていて、やはりこの問いと同じように、しかし今度は、神から人にではなく、人から神に対して、世界で初めての発せられた「問い」がある。

マタイ27:46:「三時ごろ、イエスは大声で、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と叫ばれた。これは、「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」という意味である。」

 これはイエス様が、ご自分が付けられた十字架の上で、父なる神様に対して、その子として、しかし、罪を犯した人の身代わりとして、人から神に対して叫ばれた叫びの問いである。これまでイエス様は一度たりとて、父なる神様に対して、このような問いかけ、「どうしてなのだ?」と叫びを上げたことはなかったのに、このとき初めて叫ばれたのです。

 この御子であるイエス様の問いに対して、父である神様の答えはどうだったか?―何も無かった。無言であった。つまり、それはイエス様は完全に父なる神様から交わりを絶たれ、完全に見捨てられたことを示す。

 その理由は、イエス様が私たち罪人の身代わりとなり、神様と持っていた交わりを失い、代わりに私たちにその交わりを回復して与えるためであったのです。イザヤはその交わりの回復について、イザヤ53章でこう預言している。

イザヤ53:4~6:「まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、【主】は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。」

 また、パウロはその神様との交わりの回復について次のように言っている。

Ⅱコリント5:20b~21:「私たちは、キリストに代わって、あなたがたに願います。神の和解を受け入れなさい。神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。」

・「神の和解」:神様との断絶した交わりの回復のこと

・「神の義」:神様との断絶した交わりの回復の結果得た、罪の赦しを得たこと、神の子とされたこと、キリストの花嫁とされたこと等、救い・贖いに

      伴って回復したすべての神様との交わりの結果得ることの出来る祝福のことです。

 私たちは、神様からご自分の瞳のように愛され、大事にされ、エデンの園では毎日のように交わりが与えられていた。しかし、私たちはそのような神様に対して罪を犯し、その神様の目を逃れるようにして隠れていたが、それでも神様は私たちに対してご自分の方から交わりを持とうと、「あなたは、どこにいるのか。」と呼びかけられた。そんな神様に対して、私たちは罪を他の人に転嫁して悔い改めようともされなかったので、最終的にはエデンの園を追い出され、神様との交わりを失ってしまった。しかし、そこには神様の私たちに対する永遠に変わることのない愛のしるしが、神様の契約として残されていたのです。それが原福音(創世記3:15)と呼ばれているイエス様の十字架の贖いによる私たちの罪の赦しの約束であり、ご自身との交わりの回復の預言であった。

 そして、それがこの後、ユダヤの暦でいうならば約4,000年後に、また私たちの西暦でいうならば今から約2,000年前に、カルバリーの丘の上に建てられた十字架の上で、叫ばれたイエス様の叫び「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。わが神、わが。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」という叫びによって成就したのです。この十字架の叫びにより、私たちは完全に罪の赦しを得、神の子とされ、父なる神様との交わりが回復したのです。アーメン!

【結論】

 今日、この神との交わりの回復、神の子とされたこと、罪の赦しを得ていることに対して、確信のない方はいるだろうか?或いはまた、人との関係の中で交わりの祝福を失っている人はいるだろうか?―神様は、その人との交わりの回復・和解のためにも、ご自身との交わりの回復・和解をもって、それを成し遂げられたのです。(Ⅱコリント5:17~18)

 ですから、今日もう一度、人との和解のためにも、神との交わりの回復が与えられていることの確信を持とう。もう一度、イザヤ53章のみことばを読み、そのことを受け取りたいと思う。

イザヤ53:4~6:「まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、【主】は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。」

―祈り―

これまでのメッセージ

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