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これまでのメッセージ

主日礼拝メッセージ:金子辰己雄師

 

 

【タイトル】

「驚くべき信仰、驚くべき神の愛と恵み」

【聖書個所】

ルカ18:35~43

【本論】

Ⅴ35:「イエスがエリコに近づかれたころ、ある盲人が、道ばたにすわり、物ごいをしていた。」

 この個所で不思議なことは、この人は盲人なのに、イエス様が通られると聞くと「ダビデの子のイエスさま。私をあわれんでください。」と叫んだという。それもイエス様に付いていた人たちからたしなめられても、ますます「ダビデの子よ。私をあわれんでください。」と叫び立てた。これは実に驚くべきことです。―なぜなら、「ダビデの子」という言葉は、旧約聖書で預言されているメシヤ・救い主キリストを表わす言葉だからです。

イザヤ9:6~7:「ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。その主権は増し加わり、その平和は限りなく、ダビデの王座に着いて、その王国を治め、さばきと正義によってこれを堅く立て、これをささえる。今より、とこしえまで。万軍の【主】の熱心がこれを成し遂げる。」

 このダビデの王座に着く「ひとりのみどりご、ひとりの男の子」が「ダビデの子」であり救い主イエス・キリストのことですが、この盲人がそれを知っていて、イエス様に向かって叫び求めていたと言うのは、当時の盲人の立場からすると驚くべきことなのである。というのは、盲人はユダヤの社会では呪われた者として社会から疎外され、シナゴーグに行って教えを聞いたり礼拝したりすることが出来ない人たちだったからである。それなのに、この盲人はイエス様に向かってこのように呼びかけたのである。これは驚くべき信仰です。それだけではなく、その信仰のゆえに、この後イエス様によって目を開けていただき、その結果、そこに神を賛美する声が民の中に沸き起こった。一人の盲人の驚くべき信仰から、驚くべきことが起こったのである。

◎このようなことが起こる信仰とはどんな信仰なのか、この盲人の持っていた信仰に目を留めて行きたい。盲人の側に立って考えてみたい。

目の見えないということはどれほどのことなのか?―先ほど、ユダヤの社会では呪われた者として扱われると言った。2重、3重の苦しみがあったのです。目が見え、今日の日本に生きている私たちには想像がつかないことである。そのような盲人だから、彼はイエス様がダビデの子、救い主であることをどのようにして知ったのかは分からないが、彼は目の前を通るイエス様に、大声で叫んであわれみを求めた。彼は人の憐みではなく、神の憐みに飢え渇き、イエス様に憐みを求めたのです。まさに、「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるから。義に飢え渇く者は幸いです。その人たちは満ち足りるから。」(マタイ5:3,4,6)のようである。

(1)(このように)彼は神様の憐みに飢え渇いていた。これが、彼の持っていた驚くばかりの信仰の一つである。

(2)もう一つ、それは、「神を崇めること」。

Ⅴ43:「神をあがめながらイエスについて行った。」

 この世では、人は驚くばかりのことが起こると、そのようなことをした人を崇める。イエス様もそのことを知っていたので、同じように盲人を癒されたマタイ9章の個所ではこう言っている。

マタイ9:27~31:「イエスがそこを出て、道を通って行かれると、ふたりの盲人が大声で、『ダビデの子よ。私たちをあわれんでください。』と叫びながらついて来た。家に入られると、その盲人たちはみもとにやって来た。イエスが『わたしにそんなことができると信じるのか。』と言われると、彼らは「そうです。主よ。」と言った。そこで、イエスは彼らの目にさわって、「あなたがたの信仰のとおりになれ。」と言われた。すると、彼らの目があいた。イエスは彼らをきびしく戒めて、『決してだれにも知られないように気をつけなさい。』と言われた。」

 人は「ダビデの子」、「救い主」を、この世の政治的王のように捉えていた。そのため、そう思われることを避けるため、あがめられる方は神だけであることを知らせるため、「イエスは彼らをきびしく戒めて、『決してだれにも知られないように気をつけなさい。」と言われた。」のです。

 

引用:美しの門で、生まれつきの足萎えの男の人が癒された時のペテロの言葉もそうである。

使徒3:12、16:「ペテロはこれを見て、人々に向かってこう言った。「イスラエル人たち。なぜこのことに驚いているのですか。なぜ、私たちが自分の力とか信仰深さとかによって彼を歩かせたかのように、私たちを見つめるのですか。…。そして、このイエスの御名が、その御名を信じる信仰のゆえに、あなたがたがいま見ており知っているこの人を強くしたのです。イエスによって与えられる信仰が、この人を皆さんの目の前で完全なからだにしたのです。」と、驚くべき奇跡のわざは人の力や信仰によるのではなく、神のわざなのだと言ったのである。

(3)神への従順。

Ⅴ43:「神をあがめながらイエスについて行った。」

 この盲人の驚くばかりの信仰は、イエス様への従順で完結している。私たちの信仰もそうでありたいと思う。何故なら、信仰には行いが伴い、その行いによって信仰は全うされるからです。

ヤコブ2:22、26:「あなたの見ているとおり、彼の信仰は彼の行いとともに働いたのであり、信仰は行いによって全うされ」、「たましいを離れたからだが、死んだものであるのと同様に、行いのない信仰は、死んでいるのです。」

 また、私たちが神様に従うのは、神様は従うべき方だからだと教条的に従うのではなく、神様を信頼し、神を神としているからこそ従う信仰なのです。

引用:依存症との関連で、「依存症家族支援セミナー」でも語られていたが、人は何等かに依存して生きている存在です。空気に、水に、…。しかし肝心なのは、何に依存しているかということ。言い換えるなら、何に従属し、何に従っているかということでもある。聖書は言う。

ローマ6:16:「あなたがたはこのことを知らないのですか。あなたがたが自分の身をささげて奴隷として服従すれば、その服従する相手の奴隷であって、あるいは罪の奴隷となって死に至り、あるいは従順の奴隷となって義に至るのです。」

 私たちは、何等かに従属し、何等かに依存して生きて行かなければならない者だが、従属する相手、依存する対象により、私たちは奴隷になるか、自由になるかが分かれるのです。私たちは、神様以外のものに従うなら、必ずその奴隷になる。しかし、神様に従うなら、人は自由になり、神様に造られた人として、神様に約束された祝福の中を生きて行くことが出来るのです。

ヨハネ8:31~32:「…。『もしあなたがたが、わたしのことばにとどまるなら、あなたがたはほんとうにわたしの弟子です。そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。』」

 そして、神様は愛ですから、愛は人を決して傷つけたり、支配したりしない。むしろ、神様は私たちが神様の子供として、神様の栄光を現わすために、恵みを与え、良いものを与えて、そして、その良いもので生きるようにして下さるのです。

エペソ2:10:「私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをもあらかじめ備えてくださったのです。」

【結論】

 だから私たちは、神様の、この驚くべき愛と恵みを覚え、神様の恵み、憐みに飢え渇き、神様を崇め、神様に従って行こう。

―祈り―

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