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主日礼拝メッセージ:金子辰己雄師

July 15, 2018

 

【タイトル】

キリストの純粋な花嫁としての信仰生活

【聖書個所】

Ⅱコリント11:1~15

 

【序論】

 パウロは第2回伝道旅行の中で、アクラとプリスキラと共にコリント教会を開拓した。(使徒18章)。コリントは、その町があったアカヤ地方の代表的な町で、商業が栄え、それだけではなく、町にはアフロディトという偶像の女神を祭る大きな神殿もあって、そこでは千人を超える神殿娼婦が不品行な礼拝をささげていた。それで、この町は経済的には繁栄していたが、霊的には非常に退廃した町だった。そのため、その教会の中には偶像礼拝や不品行、信者間の裁き合いや訴訟、分裂分派や御霊の賜物に関する問題などさまざまな霊的問題があり、パウロは第3回伝道旅行で訪れたエペソの教会から、それらの問題を指摘し、第1の手紙を書き送った。しかしそれでも解決しないので、パウロはコリント教会に立ち寄り(使徒20章)、その後、この第2の手紙を書く前に、幻の第2の手紙を書き送って厳しく悔い改めを迫った。

 ところが、罪というものはしぶといもので、全員が悔い改めたわけではなかった。今なおパウロが使徒であることを受け入れず、パウロを軽んじて、パウロ以外の言葉巧みな働き人、実は彼らは偽使徒で、耳に聞こえのよい異なる福音を宣べ伝え、コリントのクリスチャンたちをキリストから引き離そうとしていたのだが、彼らはその声に耳を傾け、偽りに乗せられてしまった。その有様をパウロは、Ⅴ4:「というわけは、ある人が来て、私たちの宣べ伝えなかった別のイエスを宣べ伝えたり、あるいはあなたがたが、前に受けたことのない異なった霊を受けたり、受け入れたことのない異なった福音を受けたりするときも、あなたがたはみごとにこらえているからです。」と、その盲目ぶりを皮肉り、また、Ⅴ5~Ⅴ6a:「私は自分をあの大使徒たちに少しでも劣っているとは思いません。たとい、話は巧みでないにしても、知識についてはそうではありません。」また、Ⅴ10~Ⅴ11:「私にあるキリストの真実にかけて言います。アカヤ地方で私のこの誇りが封じられることは決してありません。なぜでしょう。私があなたがたを愛していないからでしょうか。神はご存じです。」と言う風に、話しぶりがなっていないために使徒らしく思われていないことに対し、自分を軽視する人々に対して挑戦的に、また大胆に弁明している。

※しかし、ここでパウロは熱く心を燃やしていることは、彼らの盲目ぶりを皮肉ることでもなく、また、自分が使徒であることの弁明でもなく、コリントの教会を愛して、Ⅴ3:「しかし、蛇が悪巧みによってエバを欺いたように、万一にもあなたがたの思いが汚されて、キリストに対する真実と貞潔を失うことがあってはと、私は心配しています。」と、兄姉たちのキリストに対する信仰の喪失を心配し、Ⅴ2:「というのも、私は神の熱心をもって、熱心にあなたがたのことを思っているからです。私はあなたがたを、清純な処女として、ひとりの人の花嫁に定め、キリストにささげることにしたからです。」と、彼ら一人一人がキリストにささげられた純粋な花嫁として生きることを願い、そのことを伝えている。そして、Ⅴ11~Ⅴ12にあるように、彼らを愛しているから、今後もそれをし続けると言っている。

 今日は、この「私たちはキリストにささげられた純粋な花嫁である。」ということについて語る。

【本論】

 ここで私たちは、パウロが「花嫁」という言葉を用いて何を語ろうとしていたのかを理解しなければならない。でなければ、パウロがここで言おうとしていることを見失ってしまう。ユダヤでは「花嫁」というのは婚約した人を言い、婚約した時点でその人は花嫁として扱われる。そして花嫁は、花婿が花嫁の家に花嫁料を払うことで、婚約期間が始まり、花婿が迎えに来るのを待つのである。花婿は、その花嫁を迎えるための家を建て、その完成は花婿の父親の確認をもって良しとされるが、通常それは1年くらいかかると言われる。ヨハネ14:1~3のみことばは、その時の御言葉だと言う。

ヨハネ14:1~3:「…。わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう。あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。」

 このみことばは私たちにとって、死後の希望と慰めを与える言葉だが、ここには実はそれ以上の意味がある。つまり、花婿としてのイエスさんが花嫁としての教会をやがて迎えに来る、つまり再臨を約束する言葉だからでもあるからである。

 その婚約期間は、花嫁はベールを被り、貞潔を守らなければならない期間だった。だからマリヤが聖霊によって身ごもった時は、ヨセフにとっては、それは大変なチャレンジだった。ただヨセフはマリヤを愛していたので、マリヤが裁きに遭うことがないようにと、婚約を解消しようと考えたわけです。

マタイ1:19:「夫のヨセフは正しい人であって、彼女をさらし者にはしたくなかったので、内密に去らせようと決めた。」とあるほどです。

 ユダヤでは、新郎新婦はそのようにして、実際の婚姻の時を待つ。新郎は家の準備が出来ると花嫁を迎えに行く。すると、花嫁の家のある町では、「花婿が花嫁を迎えに来た。」ということで、ラッパを吹いてその合図をする。これは、イエス様の再臨の時のラッパそのものである。

Ⅰテサロニケ4:16~17:「主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。」

※このように、やがてイエス様は私たちを花嫁として迎えに来るのである。それがキリストの再臨の時である。このことから分かるように、私たちは今、キリストの花嫁として、イエス様が私たちを迎えるのを待つ者なのである。そして、それまでは、私たちは決して不貞や姦淫を、つまり霊的姦淫である偶像礼拝や、キリスト以外を私たちの花婿として愛してはいけないし、キリスト以外を慕っても、待ち望んでもいけないのである。

※ところが、今日の時代、キリスト以外のものが私たちの花婿となって、私たちの信仰を惑わし、目には見えないけれども、本当のキリスト、今、天におられる本当のキリストに対する信仰、真実と貞潔を奪おうとしている。また私たち自身も、私たちの考えや私たちの思い、私たちの経験、この世の楽しみ、この世の富、力、ありとあらゆるものを、本当のキリストの代わりに、私たちの花婿にしてしまいがちである。私たちは私たちの神、私たちの花婿にしてしまいがちである。

※しかし、私たちの立場をもう一度考えてみよう。私たちはどのようにしてキリストの花嫁となったのか?!―花婿であるキリストが私たちの花嫁料=贖い金を支払ってくださったからである。

 パウロはそのことをこのように言っている。

Ⅰコリント1:30:「しかしあなたがたは、神によってキリスト・イエスのうちにあるのです。キリストは、私たちにとって、神の知恵となり、また、義と聖めと、贖いとになられました。」

【結論】

 私たちはこのように、キリストの再臨まで、キリストの血潮によって贖われた純粋な花嫁として、キリストを待ち望み、わき目も降らず純潔を保たなければならない。

Ⅰコリント5:8:「ですから、私たちは、古いパン種を用いたり、悪意と不正のパン種を用いたりしないで、パン種の入らない、純粋で真実なパンで、祭りをしようではありませんか。」

 「祭り」とは、単に宗教的なことがらだけではなく、私たちの神様との関係、私たちの神様に対する信仰生活そのものです。だから、そのような信仰生活を送ろう!

―祈り―

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