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これまでのメッセージ

主日礼拝メッセージ:金子辰己雄師

August 12, 2018

 

 

 

 

【聖書個所】

創世記1:26

【タイトル】

神のかたちの完成目指して(9)「使命の喪失と回復」

【序論】

 今まで8回、「神のかたちの完成(回復)目指して」というテーマで、私たちのアイデンティティーに焦点を当てて語って来たが、これからはと5回、私たちの存在意義、目的、役割・使命に焦点を当てて語って行きたい。今日はその第1回目「使命の喪失と回復」というテーマで語る。

【本論】

 神様は私たちをご自身のかたちに似せて造られ、私たちにご自身が造られた海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地を這うすべてのものを支配する使命を与えられた。

 「支配する」というのは、強権的な意味の支配ではなく、「管理する」、「治める」というような意味の支配です。プロ野球のチームに、オーナー(所有者)に対し、雇われてチームを管理、運営、治めて行くジェネラル・マネージャー(総支配人)という人がいるのと同じように、神様が造られた神様の所有物であるすべての生き物と、その生き物が生活している空間、場所、すなわち地球を、神様に代わって「管理する」、「治める」という意味である。

 ところがどうだろう?―今私たちは、それを行なっていると言えるだろうか。これは数年前にシベリヤで起こったことだが、温暖化に伴って永久凍土が溶け、その中に閉じ込められていた炭疽菌が出て来て、シベリヤにある村で何人もの人に感染し、命が失われたり、北極の氷が溶け、その中から氷河期前から存在してかもしれないと思われている新種のウィルスの発見されたりと、地球の温暖化の問題を一つを取り上げても、とても地球という環境を神様が言うように管理している、治めているとは言い難い。どうしてそうなったのか?―ご存知のように、アダムとエバが罪を犯したからである。今日の世界のその有様は、その結果なのである。

創世記3:17:「また、人に仰せられた。『あなたが、妻の声に聞き従い、食べてはならないとわたしが命じておいた木から食べたので、土地は、あなたのゆえにのろわれてしまった。…。』」

 

 神様がこの世界を造られたとき、最後に人を造られ、創世記1:31:「見よ。それは非常に良かった。」と言われた。それなのに、人が罪を犯した結果、この世界はすべて呪いの下に置かれるようになった。その辺りのことを、ヘブル書の記者はダビデが遺した詩篇(詩篇8篇)を引用しながら、次のように述べている。

ヘブル2:6~8:「むしろ、ある個所で、ある人がこうあかししています。『人間が何者だというので、これをみこころに留められるのでしょう。人の子が何者だというので、これを顧みられるのでしょう。あなたは、彼を、御使いよりも、しばらくの間、低いものとし、彼に栄光と誉れの冠を与え、万物をその足の下に従わせられました。』万物を彼に従わせたとき、神は、彼に従わないものを何一つ残されなかったのです。それなのに、今でもなお、私たちはすべてのものが人間に従わせられているのを見てはいません。」

 ダビデは、Ⅴ8:「万物を彼に従わせたとき、神は、彼に従わないものを何一つ残されなかったのです。」と言い、全宇宙の偉大さに比べたら人間など小さいものに過ぎないのに、そんな人間に神様はこの世界を治める支配権、ここでは、「栄光と誉れの冠」を与えられたという、神様の不思議さに触れつつ、「それなのに、今でもなお、私たちはすべてのものが人間に従わせられているのを見てはいません。」と、目を、神様が創造し、神様が人間に管理を任せたこの世界のすべてのものが人間に従わせられていないという「罪から来る現状」に、目を向けさせている。

 ここまでは、神による創造の「起」であり、その後の人間の罪による「承」である。次にヘブル書の記者は、その「承」から転じて、イエス様の十字架による罪の贖いの「転」に触れている。

ヘブル2:9:「ただ、御使いよりも、しばらくの間、低くされた方であるイエスのことは見ています。イエスは、死の苦しみのゆえに、栄光と誉れの冠をお受けになりました。その死は、神の恵みによって、すべての人のために味わわれたものです。」

 イエス様は十字架の上で、私たちの救いのために、贖い主、救い主、王の王としての「栄光と誉れの冠」を受けられた。そして、それはまた同時に、次のような目的のためでもあったと言う。

ヘブル2:10:「神が多くの子たちを栄光に導くのに、彼らの救いの創始者を、多くの苦しみを通して全うされたということは、万物の存在の目的であり、また原因でもある方として、ふさわしいことであったのです。」

 「神が多くの子たちを栄光に導くのに」とは、「神が多くの子たちを栄光に導くために」と言うことですが、イエス様が十字架に架けられて死に、墓に葬られ、3日目によみがえられたというイエス様がなされた贖い目的は、ただ私たちに、「救い=罪の赦しを与える」というためのものだけではなく、私たちを「栄光に導く」、つまり、私たちが罪を犯してしまったことによって失ってしまった、神様によって与えられてた栄光、即ち、神様に代わってこの世界を支配し、管理するという「栄光の働き、使命、役割」の回復のためでもあったということなのです。

 だから、ヘブル書の記者はこう言う。それは、「彼らの救いの創始者を、多くの苦しみを通して全うされたということは、万物の存在の目的であり、また原因でもある方として、ふさわしいことであったのです。」と。

※このことは非常に重要である。多くのクリスチャンは、十字架が罪の赦しのためであることは分かっているが、それが実際的に私たちの信仰生活、教会生活の中でどのような意味を持っているのか、どのような目的のために神様を私たちを罪から救ってくれたのかが分からないでいる。そのため、「ただイエス様が迎えに来るまで、なるべく罪を犯さないよう待っていよう。」くらいの、消極的な、ただ天国行きの列車に乗って、ただ待っているだけの受け身的な信仰生活を送るだけの者になってしまっている場合がある。

引用:依存症の当事者は、依存対象から解放されても、本来の生きる目的、存在理由、存在意義を見出せないでいると、結局もとの状態に戻ってしまう。何故なら、多くの場合、依存症になってしまった出発点がそこにあったからでもある。生きる目的や、使命、意義を見出せないので、そんな心のすきまを、依存の対象物に依存することで満たそうとしたからである。だから、治療の過程でそれが分かっている人と分かってない人とでは、全く治療されて行く速さや完璧さは変わって来るのである。

※ここに、「依存症というのは、私たちの罪の問題と全く変わることがないものです。」と、私が言う根拠がある。だから、「家族会」のためにもお祈りしてください。

 クリスチャンであっても、何のために罪が赦されたのかということを本当に理解していないと、結局、また元のような暮らしに戻って行ってしまう。意味を見出せないからである。ここに、「結」である今日の結論がある。それは;

【結論】

 私たちには、クリスチャンとしての大切な使命がある、役割があるということを覚えなければならないのである。どんな使命、役割があるのか?―勿論、それはマタイ28:18~20にあるように、弟子作り、礼拝、宣教、育成と言った教会の基本的な働きであるが、このシリーズの中ではこの世界を管理するという意味で、どういう使命、役割があるのか、創世記における「神のかたちの完成、回復」という点から掘り下げて行きたいと思う。

 

 今日は先ず、イエス様が命をかけて贖い、取り戻してくださったほどの、大切な使命、役割というものが私たちにはあるのだということをしっかりと覚えたい!

―祈り―

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