主日礼拝メッセージ:金子辰己雄師

【聖書個所】

マタイ6:9~13:

【タイトル】

祈りの神髄・主の祈り(1)

【序論】

 「主の祈り」は、マタイ5章~7章の「山上の説教」と呼ばれる中にある。その説教は、当時のユダヤの人々にとって聞いたこともないような、新鮮で権威に満ちたメッセージだった。例えば、「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。」(マタイ5:3)のように、「どうして心の貧しいものが幸いなのか!」と誰もが思うように、この世の考えでは理解できない教えであったり、「まことに、あなたがたに告げます。もしあなたがたの義が、律法学者やパリサイ人の義にまさるものでないなら、あなたがたは決して天の御国に入れません。」(マタイ5:20)のように、「だったら私たちには不可能でしょう!」と思わせられるような教えであったり、一方で、「だから、わたしはあなたがたに言います。自分のいのちのことで、何を食べようか、何を飲もうかと心配したり、また、からだのことで、何を着ようかと心配したりしてはいけません。いのちは食べ物よりたいせつなもの、からだは着物よりたいせつなものではありませんか。空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。けれども、あなたがたの天の父がこれを養っていてくださるのです。あなたがたは、鳥よりも、もっとすぐれたものではありませんか。」(マタイ6:25~26)というような恵みに満ちた教えであったので、彼らはその教えに驚いたのです。「イエスがこれらのことばを語り終えられると、群衆はその教えに驚いた。というのは、イエスが、律法学者たちのようにではなく、権威ある者のように教えられたからである。」(マタイ7:28~29)とある通りである。

 「驚いた」とは、原語のギリシャ語では「エクプレーソー」で、「雷に打たれたほど驚く」と言うほどの驚きの時に使う言葉である。そういう中でイエス様は弟子たちに「祈り」について教えられたのである。それまで彼らが見たり聞いたりしていた、「人に見られたり、聞かれたりするためのような偽善者の祈り」(Ⅴ5)でもなく、「異邦人のように、くどくどと同じ言葉を繰り返し、言葉数が多ければ聞かれると思うような祈り」(V7)でもない、彼らにとって全く新しい、しかし、本当の祈りの神髄を教えられたのである。それが「主の祈り」と呼ばれている祈りである。

 今日から暫くこの「主の祈り」を学ぶが、しかしイエス様が「こう祈りなさい。」(Ⅴ9)と命じられたからと言って、主の祈りをオウム返しのように祈ればいいというのではない。また、こういう方法で祈ればいいということでもない。ルカの福音書で弟子がイエス様に「私たちにも祈りを教えてください。」(ルカ11:1)とあるように、イエス様は祈り方ではなく、祈りそのものを教えられたのである。祈りの神髄を教えられたということです。

 では、今日はその第1回目として、Ⅴ9:「天にいます私たちの父よ。」に焦点を当てて学んで行く。

【本論】

(1)「父よ。」

 主の祈りは先ず「呼び掛け」から始まる。つまり、祈りには、「呼び掛けの対象」、「祈りの対象」があるということです。ではその対象とは?―「天にいます私たちの父よ。」です。この個所のギリシャ語本文では、「パーテール(父)、ヘーモーン(私たちの)、ホエントイス(の中にい

る)、ウーラノイス(天)」となって、日本語の語順では意味を成さないが、イエス様が教えられた祈りの神髄がここにある。つまり祈りは、「父よ。」と、何歳であろうと子から父に向って呼び掛けるものなのです。

 この点については、肉の父と確執があった私が、救いのために死語となっていた「天の父なる神様」の「父」という言葉を聖霊の助けによって口にすることが出来たことを経験した私には実感としてよく分かる。「父よ。」という呼び掛けは、理性、意思、感情を伴った、また、霊、魂、体を伴った全人格的な呼び掛けの言葉です。全身全霊で神様に呼び掛ける言葉なのです。イエス様は私たちがそのような呼び掛けが出来るように、罪の赦しと共に、その呼び掛ける霊を与えて下さいました。「そして、あなたがたは子であるゆえに、神は「アバ、父」と呼ぶ、御子の御霊を、私たちの心に遣わしてくださいました。」(ガラテヤ4:6)だからイエス様は、この呼び掛けの言葉で神様に呼び掛けなさいと言うのです。

(2)「私たちの」

 祈りは私たち一人ひとりの父なる神に対するものです。しかし、だからと言って自分のためだけに祈るものでもない。祈りは「私たちの父」とあるように、「私たち」のために祈るものでもある。では、「私たち」とは?

①イエス様に贖われた神の家族である教会:「ですから、私たちは、機会のあるたびに、すべての人に対して、特に信仰の家族の人たちに善を行いましょう。」(ガラテヤ6:10)私たちが行える善とは、先ず「祈り」ではないだろうか。

②まだ贖われていないすべての人たち:「『自分の隣人を愛し、自分の敵を憎め』と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。それでこそ、天におられるあなたがたの父の子どもになれるのです。天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるからです。」(マタイ5:43~45)神様は憐み深い神様であって、善人であろうと悪人であろうと、すべての人の神様でもあられるからです。

③イエス様を含めた私たち:「…キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。」(エペソ2:4~6)イエス様は私たちを救い、そして霊において私たちの横に、共に居て下さる。そして、「しかし、キリストは永遠に存在されるのであって、変わることのない祭司の務めを持っておられます。したがって、ご自分によって神に近づく人々を、完全に救うことがおできになります。キリストはいつも生きていて、彼らのために、とりなしをしておられるからです。」(ヘブル7:24~25)祭司として、私たちとともに祈っておられるのです。

【結論】

(3)「天にいます」

 「天」とは「空」のことではなく、神が神としてその力をもって治めておられるところ、つまり「神の御国」のことである。しかし、神は私たちの上にあって、私たちを治めておられるのである。そういう点で、祈りは信仰と同じく上におられる神を仰ぐもの。祈りの神髄は信仰の神髄と同じなのです。二つのみことばを見たい。

イザヤ45:22:「地の果てのすべての者よ。わたしを仰ぎ見て救われよ。わたしが神である。ほかにはいない。」

ヨブ35:5~11:「天を仰ぎ見よ。あなたより、はるかに高い雲を見よ。あなたが罪を犯しても、神に対して何ができよう。あなたのそむきの罪が多くても、あなたは神に何をなしえようか。あなたが正しくても、あなたは神に何を与ええようか。神は、あなたの手から何を受けられるだろうか。あなたの悪は、ただ、あなたのような人間に、あなたの正しさは、ただ、人の子に、かかわりを持つだけだ。人々は、多くのしいたげのために泣き叫び、力ある者の腕のために助けを叫び求める。しかし、だれも問わない。『私の造り主である神はどこにおられるか。夜には、ほめ歌を与え、地の獣よりも、むしろ、私たちに教え、空の鳥よりも、むしろ、私たちに知恵を授けてくださる方は。』と。」

 この二つのみことばは、出口が見えず、失望落胆を繰り返していた私たちの家庭をどれほど救ってくれただろうか!今もまだ回復への途上にあるが、重要なのは、私たちは天の御国に入るまで、この天におられる父なる神を見上げ続けて歩むことです。これが信仰の神髄であり、「天にいます私たちの父よ。」と、天におられる父なる神に呼び掛ける「祈りの神髄」ではないだろうか。

―祈り―

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