【聖書個所】
マタイ8:18~27
【タイトル】
向こう岸に渡る用意はいいですか?
【前置】
私たちは今日37周年記念礼拝を迎え、これから38年目に入ろうとしている。この個所から「向こう岸」、38年目に入ろうとしている私たちに対する主のチャレンジを受け取って行こう。
【本論】
Ⅴ18:「さて、イエスは群衆が自分の回りにいるのをご覧になると、向こう岸に行くための用意をお命じになった。」
ここでは、「向こう岸に行くための用意をお命じになった。」と、「用意」という言葉が使われている。これは脚注にもあるように補足であって、無くても良い言葉。事実、新改訳聖書以外のどの聖書を当たっても、「用意」という言葉は使われていない。また平行個所(マルコ4:35)を見ると、「…、イエスは弟子たちに、『さあ、向こう岸に渡ろう。』と言われた。」とある。つまり、イエス様にはこの後弟子たちと向こう岸に渡って為すべき明確な目的があったということである。
しかし、ここではその向こう岸での働きだけに焦点を置くならば、ここで伝えようとしているメッセージを見失うことになってしまう。では、イエス様はここで何を私たちに言おうとしているのだろうか?―その鍵が「用意」と言う言葉にある。3つのポイントで。
(1)「イエス様の弟子になるという向こう岸」に渡る用意はいいですか?
イエス様が「向こう岸」に渡ることを命じられると、ひとりの律法学者と、ひとりの弟子がやって来た。ひとりの律法学者はこう言った。「先生。私はあなたのおいでになる所なら、どこにでもついてまいります。」また、ひとりの弟子はこう言った。「主よ。まず行って、私の父を葬ることを許してください。」と。それに対してイエス様はそれぞれに、「狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕する所もありません。」、「わたしについて来なさい。死人たちに彼らの中の死人たちを葬らせなさい。」と言われた。(Ⅴ19~Ⅴ22)
この話は何のことだろう?―それは、イエス様に従って「向こう岸」に行く、つまり、イエス様に従ってイエス様の弟子になるということには覚悟が要るということを教えるためである。狐や空の鳥という動物には安息の場所があるが、イエス様の弟子には枕する所=安息の場所はない。それは、イエス様に従って行く者の道はこの世の道とは違うからである。私たちにはそれを知り、覚悟してイエス様に従って「向こう岸」に渡ること=弟子になることが求められているのである。
(関連:ルカ14:25~33)
(2)「面倒な問題や試みの嵐のある向こう岸」に渡る用意はいいですか?
Ⅴ24a:「すると、見よ、湖に大暴風が起こって、舟は大波をかぶった。」
イエス様の弟子になろうとすると、必ず面倒な問題や試みという暴風雨が吹いて来るものである。イエス様を信じて受洗しようとすると、いろんな妨げが起きるように。受洗の時だけではなく、信仰生活にはいろいろな問題や試みが起きる。イエス様もこう言っている。
ヨハネ15:19:「もしあなたがたがこの世のものであったなら、世は自分のものを愛したでしょう。しかし、あなたがたは世のものではなく、かえってわたしが世からあなたがたを選び出したのです。それで世はあなたがたを憎むのです。」
しかし、どんなことが起ころうと、恐れ驚くことはないのです。
Ⅰペテロ4:12~13:「愛する者たち。あなたがたを試みるためにあなたがたの間に燃えさかる火の試練を、何か思いがけないことが起こったかのように驚き怪しむことなく、むしろ、キリストの苦しみにあずかれるのですから、喜んでいなさい。それは、キリストの栄光が現れるときにも、喜びおどる者となるためです。」
主は、「愛する者たち」と呼び掛けられ、そしてこう言われるからです。
ヘブル12:5~6、10~11:「そして、あなたがたに向かって子どもに対するように語られたこの勧めを忘れています。『わが子よ。主の懲らしめを軽んじてはならない。主に責められて弱り果ててはならない。主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられるからである。』」、「なぜなら、肉の父親は、短い期間、自分が良いと思うままに私たちを懲らしめるのですが、霊の父は、私たちの益のため、私たちをご自分の聖さにあずからせようとして、懲らしめるのです。すべての懲らしめは、そのときは喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます。」
厄介な問題や試練を通し、仮令それが悪魔や悪霊から来る攻撃であったとしても、それを神様は、私たちがご自身の聖さに預かることが出来るようにと用いて下さるのです。
(3)「聖別という向こう岸」に渡る用意はいいですか?
このように、神様は私たちを試練や問題という嵐を通してご自分の聖さに預からせようとして下さるが、その中で私たちもしなければならないことがある。それは、自らを聖く保つこと。聖書にあるように、暴風雨が吹き付けると私たちの舟=私たち自身は大波をかぶり、水が入って来る。それはこの世の水である。少し位の水なら沈むことはないが、油断して放っておくとどうなるか、水はどんどん入って来て、汲み出しても汲み出しても汲み出し切ることが出来ず、ついには海に沈んでしまう。この世の中に沈んでしまうのである。それを「信仰の破船」と言う。私たちはそのようなことがあってはならない。
では、私たちを信仰の破船に遭わせるどんなこの世の波、水があるのだろうか。第一テモテ、第2テモテにリストアップされている。
・果てしない空想話や論争、無益な議論、うわさ話、俗悪なむだ話、無知な思弁(Ⅰテモテ1:4、6、5:13、Ⅱテモテ2:16、2:23)
・さまざまな律法に反する行為、偽善、偽り(Ⅰテモテ1:9、Ⅱテモテ3:13)
・高慢、金銭を愛すること、大言壮語、不遜、情け知らず、和解しない、粗暴、善を好まない、裏切り、向こう見ず、神より快楽を愛する(Ⅰテモテ
6:4、10、Ⅱテモテ3:2~5)他。
では、そうならないためにはどうしたらよいか?船出しなければいいだろうが、そういうわけにはいかない。イエス様が「向こう岸に行こう。」と言われたからである。救世軍の山室軍平は、「クリスチャンは水の上に浮かぶ舟のようなものだ。」と言った。つまり、私たちはこの世に生きている限り、この世から離れることは出来ないので、否応なしにいろいろな波風を受ける。しかし、だからこそ私たちはこの世にあっても、破船に遭うことがないようにと自らを聖別しなければならないのです。この世にあっても、浮かんで沈むことなく目的地に着くことが出来るようにと、しっかりと舟板でこの世と分離しなければならないのです。
ローマ12:1~2:「そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。」
【結論】
3つの「向こう岸に行くための用意」―①向こう岸に渡ると言う弟子になるための心の用意、周到さ、②船出すれば、問題や試練と言う嵐は必ずあるが、それは私たちを聖めるためだということを知っておくこと。そして、③高慢にならず、慢心せず、自らも聖別するということ。これらの用意をしっかりとして、そして向こう岸に行って、目的である人々の救いのために働こう。
―祈り―
向こう岸に渡る用意はいいですか?
【前置】
私たちは今日37周年記念礼拝を迎え、これから38年目に入ろうと
している。この個所から「向こう岸」、38年目に入ろうとしている私
たちに対する主のチャレンジを受け取って行こう。
【本論】
Ⅴ18:「さて、イエスは群衆が自分の回りにいるのをご覧になると、
向こう岸に行くための用意をお命じになった。」
ここでは、「向こう岸に行くための用意をお命じになった。」と、「用意」という言葉が使われている。これは脚注にもあるように補足であって、無くても良い言葉。事実、新改訳聖書以外のどの聖書を当たっても、「用意」という言葉は使われていない。また平行個所(マルコ4:35)を見ると、「…、イエスは弟子たちに、『さあ、向こう岸に渡ろう。』と言われた。」とある。つまり、イエス様にはこの後弟子たちと向こう岸に渡って為すべき明確な目的があったということである。
しかし、ここではその向こう岸での働きだけに焦点を置くならば、ここで伝えようとしているメッセージを見失うことになってしまう。では、イエス様はここで何を私たちに言おうとしているのだろうか?―その鍵が「用意」と言う言葉にある。3つのポイントで。
(1)「イエス様の弟子になるという向こう岸」に渡る用意はいいですか?
イエス様が「向こう岸」に渡ることを命じられると、ひとりの律法学者と、ひとりの弟子がやって来た。ひとりの律法学者はこう言った。「先生。私はあなたのおいでになる所なら、どこにでもついてまいります。」また、ひとりの弟子はこう言った。「主よ。まず行って、私の父を葬ることを許してください。」と。それに対してイエス様はそれぞれに、「狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕する所もありません。」、「わたしについて来なさい。死人たちに彼らの中の死人たちを葬らせなさい。」と言われた。(Ⅴ19~Ⅴ22)
この話は何のことだろう?―それは、イエス様に従って「向こう岸」に行く、つまり、イエス様に従ってイエス様の弟子になるということには覚悟が要るということを教えるためである。狐や空の鳥という動物には安息の場所があるが、イエス様の弟子には枕する所=安息の場所はない。それは、イエス様に従って行く者の道はこの世の道とは違うからである。私たちにはそれを知り、覚悟してイエス様に従って「向こう岸」に渡ること=弟子になることが求められているのである。
(関連:ルカ14:25~33)
(2)「面倒な問題や試みの嵐のある向こう岸」に渡る用意はいいですか?
Ⅴ24a:「すると、見よ、湖に大暴風が起こって、舟は大波をかぶった。」
イエス様の弟子になろうとすると、必ず面倒な問題や試みという暴風雨が吹いて来るものである。イエス様を信じて受洗しようとすると、いろんな妨げが起きるように。受洗の時だけではなく、信仰生活にはいろいろな問題や試みが起きる。イエス様もこう言っている。
ヨハネ15:19:「もしあなたがたがこの世のものであったなら、世は自分のものを愛したでしょう。しかし、あなたがたは世のものではなく、かえってわたしが世からあなたがたを選び出したのです。それで世はあなたがたを憎むのです。」
しかし、どんなことが起ころうと、恐れ驚くことはないのです。
Ⅰペテロ4:12~13:「愛する者たち。あなたがたを試みるためにあなたがたの間に燃えさかる火の試練を、何か思いがけないことが起こったかのように驚き怪しむことなく、むしろ、キリストの苦しみにあずかれるのですから、喜んでいなさい。それは、キリストの栄光が現れるときにも、喜びおどる者となるためです。」
主は、「愛する者たち」と呼び掛けられ、そしてこう言われるからです。
ヘブル12:5~6、10~11:「そして、あなたがたに向かって子どもに対するように語られたこの勧めを忘れています。『わが子よ。主の懲らしめを軽んじてはならない。主に責められて弱り果ててはならない。主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられるからである。』」、「なぜなら、肉の父親は、短い期間、自分が良いと思うままに私たちを懲らしめるのですが、霊の父は、私たちの益のため、私たちをご自分の聖さにあずからせようとして、懲らしめるのです。すべての懲らしめは、そのときは喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます。」
厄介な問題や試練を通し、仮令それが悪魔や悪霊から来る攻撃であったとしても、それを神様は、私たちがご自身の聖さに預かることが出来るようにと用いて下さるのです。
(3)「聖別という向こう岸」に渡る用意はいいですか?
このように、神様は私たちを試練や問題という嵐を通してご自分の聖さに預からせようとして下さるが、その中で私たちもしなければならないことがある。それは、自らを聖く保つこと。聖書にあるように、暴風雨が吹き付けると私たちの舟=私たち自身は大波をかぶり、水が入って来る。それはこの世の水である。少し位の水なら沈むことはないが、油断して放っておくとどうなるか、水はどんどん入って来て、汲み出しても汲み出しても汲み出し切ることが出来ず、ついには海に沈んでしまう。この世の中に沈んでしまうのである。それを「信仰の破船」と言う。私たちはそのようなことがあってはならない。
では、私たちを信仰の破船に遭わせるどんなこの世の波、水があるのだろうか。第一テモテ、第2テモテにリストアップされている。
・果てしない空想話や論争、無益な議論、うわさ話、俗悪なむだ話、無知な思弁(Ⅰテモテ1:4、6、5:13、Ⅱテモテ2:16、2:23)
・さまざまな律法に反する行為、偽善、偽り(Ⅰテモテ1:9、Ⅱテモテ3:13)
・高慢、金銭を愛すること、大言壮語、不遜、情け知らず、和解しない、粗暴、善を好まない、裏切り、向こう見ず、神より快楽を愛する(Ⅰテモテ
6:4、10、Ⅱテモテ3:2~5)他。
では、そうならないためにはどうしたらよいか?船出しなければいいだろうが、そういうわけにはいかない。イエス様が「向こう岸に行こう。」と言われたからである。救世軍の山室軍平は、「クリスチャンは水の上に浮かぶ舟のようなものだ。」と言った。つまり、私たちはこの世に生きている限り、この世から離れることは出来ないので、否応なしにいろいろな波風を受ける。しかし、だからこそ私たちはこの世にあっても、破船に遭うことがないようにと自らを聖別しなければならないのです。この世にあっても、浮かんで沈むことなく目的地に着くことが出来るようにと、しっかりと舟板でこの世と分離しなければならないのです。
ローマ12:1~2:「そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。」
【結論】
3つの「向こう岸に行くための用意」―①向こう岸に渡ると言う弟子になるための心の用意、周到さ、②船出すれば、問題や試練と言う嵐は必ずあるが、それは私たちを聖めるためだということを知っておくこと。そして、③高慢にならず、慢心せず、自らも聖別するということ。これらの用意をしっかりとして、そして向こう岸に行って、目的である人々の救いのために働こう。
―祈り―