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これまでのメッセージ

主日礼拝メッセージ:金子辰己雄師

November 11, 2018

 

 【聖書個所】

マタイ6:9

 

【タイトル】

​主の祈り(2)「御名があがめられますように」

【本論】

 今日は、Ⅴ9の後半の祈り「御名があがめられますように」からメッセージを取り次ぐ。この箇所は、原語では「ハギアスセートー ト・オノマスー」で、3つの部分からなり、それぞれの意味は、「ハギアスセートー」:「あがめられますように」、「ト・オノマ」:「御名」、「スー」:「あなたの」で、日本語の聖書では、意味が明らかな場合は、主語とか所有格の言葉がしばしば省かれることがあるので、ここでもこのようになっているでしょう。

 

 そして、ここでもう一つ、原語の意味から掴んでおかなければならない大切なことがある。それは、この「あがめられますように」は、単に「あがめられればいいな。」とかいうような、頼りない願望のようなものではなく、揺るがない事実に基づく、信仰の告白の祈りだということです。それは、「あがめられますように」の「ハギアスセートー」は、「ハギアゾー」:「あがめる」と言う動詞の受身形で、且つ「1回限りの過去の出来事」を表わす「アオリスト」という語形で、意味通り言うなら、「御名があがめられました。」という過去の出来事に基づく信仰の告白の祈りだからです。

 では、どの出来事に基づく祈りなのであろうか?―それは、この後、イエス様が為された出来事で、十字架の上で為された私たちの罪の贖いのみわざを指し示す。イエス様は私たちの救いのため、ご自身の御体を1回限り十字架に架けられて、救いを成し遂げられました。私たちは、そのみわざに基づいて祈るのである。それが主が教えられた「主の祈り」である。イエス様は最後の晩餐の席で、弟子たちにこう言われた。

ヨハネ17:1:「イエスはこれらのことを話してから、目を天に向けて、言われた。『父よ。時が来ました。あなたの子があなたの栄光を現すために、子の栄光を現してください。』」

 子の栄光を現わす時とは、この後の、私たちの贖いのために十字架に掛けられた時である。そして、十字架の上で最後に息を引き取られる時、こう言われた時である。「父よ。わが霊を御手にゆだねます。」(ルカ23:46)と。

 イエス様は弟子たちに、主の祈りを、神の栄光を現わすために=神の御名が崇められるために、これからご自分が成し遂げようとされるみわざに基づいて教えられたのである。だから、単なる懇願、単なる願望ではない。「必ずそうなる。」という確信に基づく祈りです。

 

 ではさらに、この「御名があがめられますように。」と教えられた主のみこころを求めて行こう。

(1)心から主の御名を賛美すること。

ヘブル13:15:「ですから、私たちはキリストを通して、賛美のいけにえ、すなわち御名をたたえる(御名をあがめる)くちびるの果実を、神に絶えずささげようではありませんか。」

 「くちびるの果実」とあるように、これは私たちの口、言葉による主への賛美です。しかし、私たちの口というのは便利なもので、どのようにでも使うことが出来る。ヤコブはこう言っている。「私たちは、舌をもって、主であり父である方をほめたたえ、同じ舌をもって、神にかたどって造られた人をのろいます。」(ヤコブ3:9)と。それだけではなく、心の中ではのろっているのに、それを隠して、口でほめたたえることさえ出来る。それが口という器官です。だからヤコブは、その口、また舌を制御することは誰にもできない、難しいと言う。(ヤコブ3:8)

 では、口で御名を賛美することは誰にでも出来ないのだろうか?出来ないことを神様は私たちにしろと命じているのだろうか?―否、出来るのです。鍵は、「キリストを通して」です。「キリストを通して」とは、キリストの為されたみわざに立つということである。またそれは、キリストと一体になって、キリストと一つになってということでもある。イエス様はこう言われた。

マタイ16:24:「それから、イエスは弟子たちに言われた。『だれでもわたしについて来たい=言い換えるなら、「わたしと一つになりたい」と思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。』」

 私たちは口先だけの信仰生活では本当の賛美の実を結ぶことはできない。しかし、自分の十字架を負って御霊に導かれて歩むなら、必ず御霊の実、賛美の果実を結ぶことが出来るのです。だから聖書は、キリストのみわざを覚えて、心から主の御名を崇めるように言うのです。

(2)心から良い行いをすること。

 神様は私たちに、口だけではなく、口で告白するのと同じように行ないにおいても御名を崇めるように言われます。

ヘブル13:16:「善を行うことと、持ち物を人に分けることとを怠ってはいけません。神はこのようないけにえを喜ばれるからです。」

 イエス様は、またこう言われた。「このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい。」(マタイ5:16)と。もし私たちが、口の語ることと行いとが一致しないなら、人は私たちを偽善者と呼ぶ。それだけではなく、それによって父なる神様がそしられます。イスラエルの民は、そのために神の裁き・懲らしめを受けたのです。

 ではどうすれば、偽善者にならずに、行いの伴う信仰生活を送ることが出来るのだろうか?その鍵も、「キリストを通して」である。私たちが自分の肉を十字架に付けて歩むならば、御霊が助けてくれて、みことばと一致した、みことばに伴う行いをさせてくれるのです。

引用1:昨日の「パウロ―愛と赦しの物語―」の映画のラストの方で、多くのクリスチャンが、その信仰のために殉教に遭おうとする場面が出て来た。刑場=コロシアムで猛獣によって殺されるため、中に入って行こうとする場面。彼らは武器を持って戦ったり逃げたりすることなく、主の祈りを祈って、刑場に向かって行った。当時のローマでは、そのようにして、多くのクリスチャンが、賛美と祈りの中で主の御名を崇め、証しして行った。

引用2:日本の26聖人も。刑場で賛美をささげた。その中には、12歳と14歳の少年もいた。

【結論】

 結局、鍵は、第1回目の学びと同じように、神を神とすること。神を第一にすることである。それが、「キリストを通して」ということ。

 パウロは「私にとっては、生きることはキリスト、死ぬこともまた益です。」(ピリピ1:21)と言った。また、「私たちの中でだれひとりとして、自分のために生きている者はなく、自分のために死ぬ者もありません。もし生きるなら、主のために生き、もし死ぬのなら、主のために死ぬのです。ですから、生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです。」(ローマ14:7~8)と言った。

 私たちは、もし「私たちの主はキリストです。」と告白するのなら、私たちは、パウロのように、このような心で生きなければならないのではないだろうか!もしキリストを主と告白し、クリスチャン、キリストの者として生きるなら、キリストの為された御業を覚えて、私たちも自分の十字架を負って、イエス様について行かなければならないのです。自分の十字架を負うことは、もはやオプションではありません。ねばならないことです。

引用3:私の祈り。小さいものだが。毎朝、「このいのちが、この地上で尽き果てるまで、あなたにあって、あなたによって、あなたのために生きることが出来ますように。」と告白して祈っている。

 パウロが言うように、聖書が言うように、もし私たちがキリストを主と告白するなら、言葉においても、行ないにおいても、神を神として、神を第一にして、主の御名が崇められるようにしよう!

―祈り―

 

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