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これまでのメッセージ

主日礼拝メッセージ:金子辰己雄師

【聖書個所】

エズラ6:16~22

【タイトル】

エズラ記(7)「私たちは礼拝する民」

【本論】

 イスラエルには、年中行事として過越しの祭り、種なしパンの祭り、初穂の祭り、七週の祭り等の祭りがあるが、それらを守ることのは、彼らにとって非常に重要なことだった。何故なら、それは彼らがイスラエル人であることの証明だからです。

Ⅴ16:「そこで、イスラエル人、すなわち、祭司、レビ人、その他、捕囚から帰って来た人々は、この神の宮の奉献式を喜んで祝った。」

 

 先ず、ここに出て来る「イスラエル人」という言葉に注目してみよう。この「イスラエル人」とは何だろうか?―神殿を建て終え、神殿の奉献式を喜んでお祝いしている人々を、ここでは「イスラエル人」と表現されているが、4章から5章では、神殿再建工事をしている時の彼らは、「ユダヤ人」という言葉で表現されていた。例えば、

エズラ4:12:「王にお知らせいたします。あなたのところから、こちらに来たユダヤ人たちはエルサレムに行き、あの反抗的で危険な町を再建しています。その城壁を修復し、その礎もすでに据えられています。」

エズラ6:7:「この神の宮の工事をそのままやらせておけ。ユダヤ人の総督とユダヤ人の長老たちにこの神の宮をもとの所に建てさせよ。」

 

 このユダヤ人という言葉は、使徒1:8:「しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」という言葉があるように、日本人とか韓国人、中国人とか言うように、その土地に生まれた民族、種族を指す言葉です。では、その「ユダヤ人」がここではどうして「イスラエル人」と呼ばれているのか?―「イスラエル人」という言葉の語源を見てみよう。それは、創世記にある。

創世記32:24~28:「ヤコブはひとりだけ、あとに残った。すると、ある人が夜明けまで彼と格闘した。ところが、その人は、ヤコブに勝てないのを見てとって、ヤコブのもものつがいを打ったので、その人と格闘しているうちに、ヤコブのもものつがいがはずれた。するとその人は言った。『わたしを去らせよ。夜が明けるから。』しかし、ヤコブは答えた。『私はあなたを去らせません。私を祝福してくださらなければ。』その人は言った。『あなたの名は何というのか。』彼は答えた。『ヤコブです。』その人は言った。『あなたの名は、もうヤコブとは呼ばれない。イスラエルだ。あなたは神と戦い、人と戦って、勝ったからだ。』」

 ヤコブの話をすると長くなるが、彼は生涯で2度、大きな神体験をしている。最初の体験は創世記28章のパダン・アラムに向かう途中のベテルでの出来事。

創世記28:11~15:「ある所に着いたとき、ちょうど日が沈んだので、そこで一夜を明かすことにした。彼はその所の石の一つを取り、それを枕にして、その場所で横になった。そのうちに、彼は夢を見た。見よ。一つのはしごが地に向けて立てられている。その頂は天に届き、見よ、神の使いたちが、そのはしごを上り下りしている。そして、見よ。【主】が彼のかたわらに立っておられた。そして仰せられた。「わたしはあなたの父アブラハムの神、イサクの神、【主】である。わたしはあなたが横たわっているこの地を、あなたとあなたの子孫とに与える。あなたの子孫は地のちりのように多くなり、あなたは、西、東、北、南へと広がり、地上のすべての民族は、あなたとあなたの子孫によって祝福される。見よ。わたしはあなたとともにあり、あなたがどこへ行っても、あなたを守り、あなたをこの地に連れ戻そう。わたしは、あなたに約束したことを成し遂げるまで、決してあなたを捨てない。」

 彼はこの通りに、叔父のラバンのところで祝され、生まれ故郷のユダヤに戻って来た。先ほどの創世記32:24~28の出来事はその時のこと。これが第2の神体験。「もものつがい」が打たれて外れ、彼は「ヤコブ」(「かかとをつかむ」という意味)から「イスラエル」(「神は争われる」という意味)になった。これは、兄のエソウのかかとを掴み、母のリベカの胎から先に生まれ出ようとするほど自我が強さを象徴する「もものつがい」砕かれ、新しい人物に生まれ変わる体験をしたのです。私たちが信仰によってクリスチャンになったように、彼はユダヤ人からイスラエル人になったのである。その違いを生み出しているのが、「自我」=「生まれながらの自分」が死に、御霊によって新しく造られるという霊的体験です。

 

 パウロはこれを、生まれながらのユダヤ人であることに安住し、イエス・キリストを信じて本当のユダヤ人=イスラエルになろうとしないユダヤ人クリスチャンに向けてこう言っている。

ローマ2:28~29:「外見上のユダヤ人がユダヤ人なのではなく、外見上のからだの割礼が割礼なのではありません。かえって人目に隠れたユダヤ人がユダヤ人であり、文字ではなく、御霊による、心の割礼こそ割礼です。その誉れは、人からではなく、神から来るものです。」

 

 このことを、パウロは続けて私たち異邦人の場合に当て嵌めてこう言っている。

ローマ3:27~30:「それでは、私たちの誇りはどこにあるのでしょうか。それはすでに取り除かれました。どういう原理によってでしょうか。行いの原理によってでしょうか。そうではなく、信仰の原理によってです。人が義と認められるのは、律法の行いによるのではなく、信仰によるというのが、私たちの考えです。それとも、神はユダヤ人だけの神でしょうか。異邦人にとっても神ではないのでしょうか。確かに神は、異邦人にとっても、神です。神が唯一ならばそうです。この神は、割礼のある者を信仰によって義と認めてくださるとともに、割礼のない者(私たち日本人)をも、信仰によって義と認めてくださるのです。」

 私たちも、信仰によって心に割礼を受け、ヤコブのように変えられて新しくされたのです。このイスラエル=神によって救われ、新しくされた私たちがすることが「過越しの祭り」である。過越しの祭りは、この後イスラエルがエジプトに行き、430年間奴隷として扱われていた後、それから救われる時、その救いを覚えて行うように、イスラエルに命じられたものです。そして、この過越しの祭りは、私たちにとってはイエス様の十字架を覚える礼拝です。この祭り、礼拝をすることに当たり、イスラエルは何をしたか、次のように記されている。

エズラ6:20~22:「祭司とレビ人たちは、ひとり残らず身をきよめて、みなきよくなっていたので、彼らは捕囚から帰って来たすべての人々のため、また、彼らの兄弟の祭司たちのため、また、彼ら自身のために、過越のいけにえをほふった。…。そして、彼らは七日間、種を入れないパンの祭りを喜んで守った。…。」

 「一人残らず」とは、一つになってということ。「身をきよめて、みなきよくなったので」とは、新しくなってということ。そのために、彼らは過越しの祭り=礼拝をささげたのである。

【結論】

 これが、私たちのささげる礼拝です。私たちはひとつになって、救われた者として、イエス様の十字架を覚えて礼拝する者である。

Ⅰコリント5:7~8:「新しい粉のかたまりのままでいるために、古いパン種を取り除きなさい。あなたがたはパン種のないものだからです。私たちの過越の小羊キリストが、すでにほふられたからです。ですから、私たちは、古いパン種を用いたり、悪意と不正のパン種を用いたりしないで、パン種の入らない、純粋で真実なパンで、祭りをしようではありませんか。」

―祈り―

 

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