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これまでのメッセージ

主日礼拝メッセージ:金子辰己雄師

 

【聖書個所】

ルカ2:25~32

【タイトル】

主を待ち望む者(1)

【導入】                                                                    

 アドベント(待降節)の2週目に入った。今日はこのアドベントに因み,

「主を待ち望む者」と題して、今日と来週の2回に渡ってメッセージを取り次いで行きたい。

【本論】

 ここに、主を待ち望んでいたシメオンという一人の高齢の信仰者がいた。

 

Ⅴ28~29:「すると、シメオンは幼子を腕に抱き、神をほめたたえて

言った。『主よ。今こそあなたは、あなたのしもべを、みことばどおり、安らかに去らせてくださいます。』」

 彼は、「主よ。今こそ」と自分の死期を前に、「あなたのしもべを、みことばどおり、安らかに去らせてくださいます。」と言った。彼はこの時まで、「イスラエルの慰められることを待ち望んでいた。」(Ⅴ25)とあるように、旧約聖書で預言されていた救い主の誕生を待ち望んでいたのである。例えば、「ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は『不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君』と呼ばれる。その主権は増し加わり、その平和は限りなく、ダビデの王座に着いて、その王国を治め、さばきと正義によってこれを堅く立て、これをささえる。今より、とこしえまで。万軍の【主】の熱心がこれを成し遂げる。」(イザヤ9:6~7)の「ひとりのみどりご」である救い主が、「ダビデの王座について、その王国を治め、さばきと正義によってこれを堅く立て、これをささえられる。今より、とこしえまで。」というように、預言が成就することを待ち望んでいた。そして、そのことに関して、「また、主のキリストを見るまでは、決して死なないと、聖霊のお告げを受けていた。」(Ⅴ26)のである。だから、彼はその救い主に会えて胸を撫で下ろしただけではなく、「主よ。今こそあなたは」と言うように、「今」という時を強調して、「あなたのしもべを、みことばどおり、安らかに去らせてくださいます。」と告白しているのです。

※ここに、主を待ち望む者の姿がある。

(1)死さえも恐れず、その死を平安のうちに迎える、死に勝利した姿である。

 私たちはこのシメオンのように、死に対して平安に迎える備えをしているだろうか?私たちは人生の最期である死を迎えるための終活をする。しかし一番大切な終活は、私たち自身が平安のうちに死を迎えるということではないだろうか。

※「主よ。今こそあなたは、あなたのしもべを、みことばどおり、安らかに去らせてくださいます。」と、主を賛美して最期を迎えることではないだろうか。

(2)神の救いの計画の全貌を見通すことの出来る信仰の目を持っているということ。

 シメオンはこの後、彼の言葉のように天に召された。だから、イエス様が救い主としてどのようなみわざを為したか、それを見ることはなかった。しかし彼は、イエス様による救いのみわざを見たのです。イエス様が誕生された1世紀以降の、主による、そしてイエス様の昇天後の教会による、今日に至るまでの、そして今日以降のイエス様の再臨による救いの完成に至るまでの、主による大きな救いの全貌を見たのです。その救いは彼が言うように、私たちを含めた万民のための救いだったのです。

Ⅴ30~Ⅴ32:「私の目があなたの御救いを見たからです。御救いはあなたが万民の前に備えられたもので、異邦人を照らす啓示の光、御民イスラエルの光栄です。」

 「信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。」(ヘブル11:1)と言う。彼はこのような信仰をもって万民の前に備えられた救いを見た。それはアブラハムが見た救いと同じでもある。

創世記15:5~6:「そして、彼を外に連れ出して仰せられた。『さあ、天を見上げなさい。星を数えることができるなら、それを数えなさい。』さらに仰せられた。『あなたの子孫はこのようになる。』彼は【主】を信じた。主はそれを彼の義と認められた。」

※他にも、同じような信仰の目を持って一生を送った人々が、ヘブル11章に記されている。これらの人々の信仰の目はどこから来たのか?―それが第3のポイント、先ほどの「死をも恐れない者の姿」の鍵でもある。

(3)結局彼らは、主のみことばを信じ、いつも主と共にあって、主のみことばが実現するのを待ち望んでいたからである。

Ⅴ25~Ⅴ27:「そのとき、エルサレムにシメオンという人がいた。この人は正しい、敬虔な人で、イスラエルの慰められることを待ち望んでいた。聖霊が彼の上にとどまっておられた。また、主のキリストを見るまでは、決して死なないと、聖霊のお告げを受けていた。彼が御霊に感じて宮に入ると、幼子イエスを連れた両親が、その子のために律法の慣習を守るために、入って来た。」

※ここに、彼と聖霊様との関係、イエス様を信じる私たちと神様との関係が3重に描かれている。

①「聖霊が彼の上にとどまっておられた。」:これは、聖霊様の臨在である。

 イエス様は昇天される時、弟子たちに、「もう間もなく、あなたがたは聖霊のバプテスマを受けます。」(使徒1:5)、そして、「聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」(Ⅴ8)と言われた。教会の誕生、キリストの証人の誕生です。そして、これは私たちのこと。私たちの上には聖霊がとどまっておられる。私たちには聖霊様の臨在があるのです。

②「聖霊のお告げを受けていた。」:これは、聖霊様による教えです。

 イエス様は、もうじき十字架に架かり、弟子たちの前から姿が見えなくなる前、最後の晩餐の席で弟子たちにこう言われた。「しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。」(ヨハネ14:26)聖霊様は最高の教師です。

③「御霊に感じて宮に入ると」:聖霊様による導きです。

 今までの信仰生活の中で、「あれは神様の導きだった。」とか、「これは神様の導きに違いない。」という経験をしたことがあると思う。

引用:風間先生の結婚の時。出会って3日で決断した。神様の導きであったからである。

※神様は不思議なように、ご自分の子供である私たちを、聖霊様によって導いて下さるのです。

【結論】

 私たちの人生には理解し難いことが起こる。それを見たり聞いたりもする。しかし、私たちはどんな答えの出ないことがあっても、イエス様の十字架の前に立つとき、そこに答えを見出すのである。イエス様の十字架の贖いの死以上に、理解し難いこと、矛盾はないからです。

ミカ7:7:「しかし、私は【主】を仰ぎ見、私の救いの神を待ち望む。私の神は私の願いを聞いてくださる。」

 ミカは、生活上の苦しみ(Ⅴ1)、見聞きする悪事、争い事(Ⅴ2~Ⅴ4)、誰も信じられないような状況(Ⅴ5~Ⅴ6)に至っても、しかし、それでも主を待ち望むと告白したのである。

※私たちもシメオンのように、またアブラハムように、またヘブル書に出て来る多くの信仰者のように、神様の救いの計画が実現を見て、どのようなことがあっても、再臨の主を待ち望み、主を見上げて歩んで行こう。

―祈り―

 

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