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これまでのメッセージ

主日礼拝メッセージ:金子辰己雄師

December 16, 2018

 

【聖書個所】

ルカ2:33~35

【タイトル】

「主を待ち望む者(2)」

【序論】

 今日はルカ2:33~35から、「主を待ち望む者(2)」として、主を待ち望む者は主の御救いを見るだけではなく、主の御救いを語る者でもあるということを見て行く。

【本論】

V33:「父と母は、幼子についていろいろ語られる事に驚いた。」

 シメオンは、旧約聖書に預言されていた救い主の誕生を待ち望んでいたが、その預言の成就のしるしである救い主を自分の腕の中に見て、彼は神をほめたたえた。その賛美の言葉を聞き、イエス様の父母であるヨセフとマリヤは「驚いた。」とある。何が語られて驚いたのか?

  • 自分たちに与えられた幼子イエスに関して、神様の真実が語られ、その言葉に驚いた。

 彼らは、自分たちに与えられたイエス様の誕生に関し、シメオンの口を通して語られた、神の口から出た預言の言葉は必ず成就するという神の変わることのない真実について驚いた。ダビデも、詩篇36:5:「【主】よ。あなたの恵みは天にあり、あなたの真実は雲にまで及びます。」と、神様の真実の偉大さ、不変性に対して驚き、賛美している。私たちもそのようでありたい。

  • 自分たちに与えられた幼子イエスが、本当に万人の救い主であるという確証の言葉に驚いた。

 彼らは、自分たちに与えられた子供が、「御自分の民を罪から救ってくれる救い主キリスト」であるということを、御使いにより、羊飼いにより、東方の博士たちにより、そして今、シメオンの口を通してもそれがはっきりと語られたので、驚いた。

※救いというのは、神が備えられた不思議なみわざ、驚くばかりの恵みである。私たちは、私たちが受けている救いにもっと驚き、感動しよう。

 

 このようにシメオン(主を待ち望む者)は、(1)神の真実を語り、その真実に基づく救いのみわざを語った。次に、(2)祝福の言葉を語った。

V34:「また、シメオンは両親を祝福し、母マリヤに言った。『ご覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人が倒れ、また、立ち上がるために定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。」

 私たちは自分の子供が人々から嫌われ、拒絶され、最後には無実の罪で死刑に処せられると言われたら、どうだろう?―悲しみ、憤り、何とも言えない感情が湧き上がって来ると思う。決して好んで聞きたい言葉ではない。「反対を受けるしるしとして定められています。」とはそういうこと。つまり、これは終には弟子からも捨てられ、十字架に付けられたイエスの姿を現している。

 イザヤはその姿をこう言った。

イザヤ53:2b~3:「彼には、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもない。 彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をうそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。」

 だから、シメオンはこう言ったのです。V35a:「剣があなたの心さえも刺し貫くでしょう。」と。マリヤは自分の子のイエス様が十字架に架けられたとき、その架けられた十字架の前に立っていた。(ヨハネ19:25)母であれば、その息子の姿を見て、心が刺し貫かれないことはない。

 またこの十字架にかけられるために生まれてきたイエス様は、「イスラエルの多くの人が倒れ、また、立ち上がるために定められている。」とシメオンは言った。

 「イスラエルの多くの人が倒れ」とは、救い主として生まれたイエス様をそのように信じない人たち、例えば、「まさか、キリストはガリラヤからは出ないだろう。」や、「…。ガリラヤから預言者は起こらない。」と言ったパリサイ人や祭司長たち。また、イエス様が安息日に多くのわざを為しているため、安息日律法を破っていると糾弾しようとしていた律法学者や祭司、パリサイ人達。また、イエス様が「私の肉を食べ、私の血を飲まなければ永遠の命を持つことができない。」と言う言葉を聞き、「こんなひどい言葉、もう聞いてられない。もう付いて行けない。」と、イエス様から離れ去って行った弟子たち。彼らは、イエス様に躓いてしまったのである。

 「立ち上がる」と言うのはそうではなく、イエス様を信じて受け入れる人達のこと。そしてこれは、イエス様が地上再臨された時、使徒信条で「かしこより来たりて、生ける者と死にたる者とを裁き給わん。」と言われている、この地で行われる、「羊」と「山羊」に篩(ふる)い分ける裁きも示す。「倒れる者」が山羊であり、「立ち上がる者」が羊です。(マタイ25:31~46)

 このようにして、私たちを救うために十字架に架けられたイエス様の前には、信じる者、信じない者、羊と山羊という2種類の人が現れ出るのである。それが、V35b:「それは多くの人の心の思いが現れるためです。」ということです。

※このシメオンが語った十字架の言葉は決して耳に聞こえの良い言葉ではない。何故なら、聞く人の心の思いを炙り出すように現わすからである。しかし、この十字架の言葉が人を罪から救う言葉なのです。だから祝福の言葉なのです。パウロはこう言った。

Ⅰコリント1:18、21~23a:「十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。」、「事実、この世が自分の知恵によって神を知ることがないのは、神の知恵によるのです。それゆえ、神はみこころによって、宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救おうと定められたのです。ユダヤ人はしるしを要求し、ギリシヤ人は知恵を追求します。しかし、私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えるのです。」

【結論】

 最近、この十字架の言葉を語る教会が減って来ているという。それは、この世に生きている私たちには聞こえの良くないメッセージだからです。人間のプライドを刺激し、それを十字架に付ける言葉だからです。人は誰もそれをしたがりません。生まれながらの自分自身を失いたくないからです。しかし、それをしなければ本当の自分自身を得ることは出来ないのです。イエス様はこう言いました。

ルカ9:23~25:「イエスは、みなの者に言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。自分のいのちを救おうと思う者は、それを失い、わたしのために自分のいのちを失う者は、それを救うのです。9人は、たとい全世界を手に入れても、自分自身を失い、損じたら、何の得がありましょう。」

 これは、神との関係を言っている。もし私たちが本当にイエス様の弟子になり、神に近づきたいと思うなら、自分の肉の高慢を十字架に付けなければならない。

※十字架の言葉であるキリストは、生まれながらの私たちをましな人間に造り変えるために死んだのではない。キリストは、私たちの生まれながらの肉の性質、古い自我を十字架に釘付け、それらの支配から私たちを解放し、御霊によるよみがえりの新しい命によって生かすためです。主を待ち望んでいたシメオンは、この十字架の言葉、福音を語ったのです。

 

※だから、私たちもシメオンのように、人を本当に変える、心から新しくする十字架の言葉、キリストを宣べ伝えよう。また、自らも自分の十字架を負い、日々イエス様に付いて行こう。そこに本当の私たちの救いがある。全世界よりも、この世のどんな富や力よりも価値のある救いがある。

―祈り―

 

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