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これまでのメッセージ

主日感謝礼拝メッセージ:金子辰己雄師

December 30, 2018

 

【聖書個所】

詩篇95:1~8:

【タイトル】

「さあ、主に向かって。さあ、明日に向かって」

【序論】

 今日はこの聖書のみことばを、2018年のすべての恵みを覚えて神に感謝をささげ、迎える2019年のためのみことばとしたい。

【本論】

◎先ず、この詩篇の作者は、

V1:「さあ、【主】に向かって、喜び歌おう。われらの救いの岩に向かって、喜び叫ぼう。」と言っている。

 イスラエルの人々は、神を「岩」という言葉でしばしば表現する。詩篇94:22:「しかし【主】は、わがとりでとなり、わが神は、わが避け所の岩となられました。」のように。「避け所の岩」も「救いの岩」も、イスラエルの人々にとっては危険から守ってくれる助け主を指す言葉なのです。イスラエルの民は、その主が助け守ってくれたから、その主に向かって「喜び歌おう。喜び叫ぼう。」と言っているのである。

 私たちの場合には、それはイエス様です。イエス様は私たちを、罪と、罪の報酬である死から救ってくれた。私たちにとって、それは掛け替えのない最も大きな贈りものです。詩篇103:8~12:「…。主は、絶えず争ってはおられない。いつまでも、怒ってはおられない。私たちの罪にしたがって私たちを扱うことをせず、私たちの咎にしたがって私たちに報いることもない。天が地上はるかに高いように、御恵みは、主を恐れる者の上に大きい。東が西から遠く離れているように、私たちのそむきの罪を私たちから遠く離される。」とあるように、主は私たちに測り知ることの出来ない無限の罪の赦しの贈りものを与えてくれたのである。だから、詩篇の作者は、

V2:「感謝の歌をもって、御前に進み行き、賛美の歌をもって、主に喜び叫ぼう。」という。

※これが一つ目のポイント:救いを受けたことのゆえの賛美。感謝の歌をもって主を賛美しよう!

◎次に詩篇の作者は、イスラエルの民が、私たちが主を賛美する理由を次のように言う。

V3:「【主】は大いなる神であり、すべての神々にまさって、大いなる王である。」

 「すべての神々にまさって、大いなる王である。」とはどういうことか?!―主は天地万物、すべてのものの造り主であるということです。それが、詩篇95:4~5で語られている。

V4~V5:「地の深みは主の御手のうちにあり、山々の頂も主のものである。95:5 海は主のもの。主がそれを造られた。陸地も主の御手が造られた。」

 そして、主は天と地を造られただけではなく、私たちをも造られたという。

V6:「来たれ。私たちは伏し拝み、ひれ伏そう。私たちを造られた方、【主】の御前に、ひざまずこう。」

 私たちは、主は私たちの救い主ということのためだけではなく、造り主ということのためだけででも、主を賛美しているだろうか?主に感謝をささげているだろうか?ダビデは、神が自分を造って下さったみわざに対して、その不思議さに感動しながら、神に感謝をささげている。

詩篇139:13~16:「それはあなたが私の内臓を造り、母の胎のうちで私を組み立てられたからです。私は感謝します。あなたは私に、奇しいことをなさって恐ろしいほどです。私のたましいは、それをよく知っています。私がひそかに造られ、地の深い所で仕組まれたとき、私の骨組みはあなたに隠れてはいませんでした。あなたの目は胎児の私を見られ、あなたの書物にすべてが、書きしるされました。私のために作られた日々が、しかも、その一日もないうちに。」

※2つ目のポイント:神が私たちを造られたということのためにでも、主を賛美しよう。

◎次に詩篇の作者は、V7a:「主は、私たちの神。私たちは、その牧場の民、その御手の羊である。」という。主が羊飼いとするならば、私たちはその羊飼いによって飼われる羊だと言い、それゆえに主に感謝をささげ、賛美をささげようと言うのである。しかし、実はこれが問題である。私たちは主によって造られ、救われたことのゆえには感謝をささげることが出来るが、主が私の羊飼いであることに対しては、必ずしも、いつも感謝出来るわけではない。何故なら、私たちは「主」ではなく、「私たち」或いは「私」を、私の羊飼いとしたいと思うからです。つまり、私たちのクリスチャン生活において、主イエスを私たちの羊飼いとして認め、ついて行くかという、現実の信仰生活の問題があるからです。つまり、救われた後の従順の問題です。だから、聖書は、

V7b~V11:「きょう、もし御声を聞くなら、メリバでのときのように、荒野のマサでの日のように、あなたがたの心をかたくなにしてはならない。あのとき、あなたがたの先祖たちはすでにわたしのわざを見ておりながら、わたしを試み、わたしをためした。わたしは四十年の間、その世代の者たちを忌みきらい、そして言った。「彼らは、心の迷っている民だ。彼らは、わたしの道を知ってはいない」と。…」と、語っているのです。

 メリバ、マサでの出来事が何であるか私たちは知っている。出エジプト17章で語られている、出エジプト後の、荒野での飲み水の問題に現れた民の不信仰、不従順の問題である。作者はそれを引き合いに出して、V7b~V8:「きょう、もし御声を聞くなら、メリバでのときのように、荒野のマサでの日のように、あなたがたの心をかたくなにしてはならない。」と言うのです。

※これが第3のポイントであり、新年を迎えるに当たり、主が私たちに語っている重要なメッセージです。

 

 「きょう」という言葉は「明日」、「新しい年」につながる言葉です。「明日」になると、その日が「きょう」になる。だから、「きょう」を迎える私たちは「明日」に向かって、「メリバでのときのように、荒野のマサでの日のように」、私たちの心をかたくなにしてはならないのです。何故なら神は、いつも私たちの救い主として、造り主として、また羊飼いとして私たちと共に居て、守り、導き、助け、すべての必要を満たしてくださるからです。例えどんなことが起きても、また起こらなくても、いつも神様は変わることなく、私たちと共にいて下さるからです。

【結論】

詩篇23:1~4:「【主】は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます。主は私のたましいを生き返らせ、御名のために、私を義の道に導かれます。たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです。」杖は数える時に使われるもの。主はそのように私たち一人ひとりを忘れることなく数えておられる。

 

 イエス様が、マタイ10:29~31:「…。また、あなたがたの頭の毛さえも、みな数えられています。だから恐れることはありません。あなたがたは、たくさんの雀よりもすぐれた者です。」と言われたように、私たちは神様のものです。また、V5:「私の敵の前で、あなたは私のために食事をととのえ、私の頭に油をそそいでくださいます。私の杯は、あふれています。」=とあるように、神は、ピリピ4:19:「また、私の神は、キリスト・イエスにあるご自身の栄光の富をもって、あなたがたの必要をすべて満たしてくださいます。」だから、V6:「まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう。私は、いつまでも、【主】の家に住まいましょう。」というのである。

 この神様に、私たちは、私たちの救い主、造り主、飼い主なる神様として賛美をささげよう。感謝を捧げよう。

―祈り―

 

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