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これまでのメッセージ

主日礼拝メッセージ:金子辰己雄師

January 13, 2019

【聖書個所】

ヨハネ15:5

 

【タイトル】

「主に在って、豊かに実を結ぼう!」

 

​【導入・序論】

​ この15章は、13章から16章にかけて語られている最後の晩餐と言われる夕食の席で語られた決別説教の中の説教であるということを、先ず覚えよう。

 聖書のメッセージは、どういう場所で、どういう時に語られたのかという文脈の中で捉えることが重要である。でなければ、聖書が語ろうとしているメッセージを正しく受けとることは出来ない。では、ここでは何が語られているのか?―大まかにまとめると、次の4つになる。

【本論】

①「私はもうじき居なくなる。」―まさに決別のメッセージです。

 

ヨハネ16:16a:「しばらくするとあなたがたは、もはやわたしを見なくなります。」

 ただ、この説教には決別だけが語られていたわけではない。次に、

②「ふたたび現れます。」という再会を約束するメッセージが語られている。

 

ヨハネ16:16b:「しかし、またしばらくするとわたしを見ます。」

 そして3番目に。

③聖霊を送るという聖霊降臨の約束のメッセージです。(16:7)

 そして、最後のメッセージ。それは;

④「わたしがあなたがたがを愛したように、あなたがたも愛し合いなさい。」という命令であった。

ヨハネ13:34:「あなたがたに新しい戒めを与えましょう。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」

※この命令は、ヨハネ15:5に最も関連する。何故なら、ここに先ず、①「わたしがあなたがたがを愛したように」という、私たちと主との関係が示されており、そして、その関係のゆえに、②「あなたがたもたがいに愛し合いなさい。」という命令が記されているからです。

 ぶどうの木は教会入口にもあるが、歩道にある欅の木とは違い、何処から何処が幹で、何処から何処が枝だか分からないような木です。つまり、ぶどうの木として、枝も含めて、全体が一つになって木だというのです。聖書は、そのように私たちがイエス様にとどまっているなら、私達は実を結ぶと言っている。

 「とどまる」という言葉はギリシャ語で「メノー」と言うが、その意味は、「そこに、ずーっと居続ける」ということである。また、抄訳聖書を読むなら、「私はぶどうの木であり、あなたたちはその枝である。私のうちに住み、私がその人のうちに住む者は、多くの<豊かな>実を結ぶ。しかしながら、あなたたちは私から離れては<私との生命的な結合から切り離されては>何もすることができない。」となっており、「とどまる」ということは、ただ単に顔面的に一つになっているということだけでなく、内面的にも一つになっており、「生命的な結合」により、いのちが通っていることを示す。だから私たちがイエス様にとどまり、イエス様も私たちにとどまっているなら、私たちは多くの実を結ぶというのです。

 「実」と言うのは、外面に現れる私たちの行ないのようなものです。そして私達はしばしば、聖書が命じる行ないに心が奪われ、つい「実を結ばなければならない。」と頑張ってしまう。ここに、クリスチャンの陥りやすい穴がある。聖書には多くの勧め、命令があるが、どの命令を行なうに当たっても、私達は先ず、私達はイエス様のぶどうの木に対して、枝であって、枝として生命的結合をもってつながっていることを覚えたいと思う。何故なら、そうでなければ私達に実が結ばれることはないからである。

ヨハネ15:4:「枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。同様にあなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。」

V5c:「わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。」とある通りです。

※ですから、今年私たちは、もう一度このみことばに立って、ぶどうの木であるイエス様にとどまり、つまり、「主にあって、実を結んで行こう。」

 もう少し続けて、「とどまる」ということについて考えたい。イエス様は、「わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。」(ヨハネ15:5)と言われた。先ほど、ぶどうの木は何処から何処までが木で、何処から何処までが枝だか分からないものだと言ったが、そうは言っても地面から行き成り枝が出て来るわけではない。初めに木が出て、そしてそこに枝がなるわけである。

 つまり、一見分からなくても、木は木、枝は枝だということ。これは、私たちと主との関係を示すものであって、主は主、私たちはその枝であるということです。ここに私たちと主との関係がある。つまり、「あなたは私の主。あなたが私の神、私の主です。」という、主に対する、信じて仰ぎ見る「信仰の関係」である。この関係を保って、主を主とし、主を信じて仰ぎ見続けるのならば、私たちは主の枝として、生命的な結合により、実を結ぶための命をいただき、その命を持って、主が豊かに私たちの枝に実を結ばせて下さるのです。これが、私たちが結ぶ実です。私たちが頑張って、結ぼうとする実ではないのです。

 今年、私たちの中にはそれぞれいろいろな願い、計画があるでしょう。このようになりたい、あのようなことをしたい、このような実を結びたい、…という願い、計画があるでしょう。しかし、それらの願い、計画がどのようなものであっても、主は先ず、「わたしにとどまりなさい。」と言うのです。そして、その計画、願いが、主もその中にとどまることの出来るような願い、計画、すなわち、主のみこころに適う願い、計画であるのならば、それは実が結ばれます。何故なら、「わたしもその人の中にとどまっているのなら」とあるように、主がとどまることが出来ないような願い、計画であれば、それは実現しないからです。主はこう仰せられる。

Ⅰヨハネ5:14:「何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださるということ、これこそ神に対する私たちの確信です。」と。

【結論】

 だから今年、私達は神様のみこころに適う願い、祈りをしよう。それは何かというと、救霊(家族、知人・友人、地域)のための働き、祈り、伝道、リバイバル、癒し、さらに神様と人を愛すること、礼拝すること等、神様が私たちに求めておられることであるが、そういう中で、具体的に示されること、思いとして与えられることがあれば、それらをさらに祈り求めて行こう。そしてそれらが示されたのならば、実行しよう。実行する方法が分からなければ、神様に知恵や力を求めよう。そして最後に、また、私たちの能力を超えたこと、私たちには出来ないことがあるのなら、あとは主に委ねる祈りをしよう。また主の御心があるようにと祈ろう。そして、主に在って、今年豊かな実を結ばせていただこう!

―祈り― 

 

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