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これまでのメッセージ

主日礼拝メッセージ:金子辰己雄師

January 20, 2019

【聖書個所】

 マタイ6:10a:

【タイトル】

主の祈り(3)「御国が来ますように」

【本論】

 この箇所の原語のギリシャ語では、「エルセートー・ヘー・バスィレイア・スー」で、それぞれ、「エルセートー」(来ますように)、「ヘー」(定冠詞)、「バスィレイア」(国)、「スー」(あなたの)の意味である。だから、原語通り言うならば、「来ますように。あなたの国(つまり御国)が」となる。最初の「エルセートー」は、前回説明した「アオリスト」という「1回限りの過去の出来事を示す語形」で、それも命令形で書かれているので、「御国が来た」のだから「御国よ、来なさい。」と言う意味合いで「御国が来るように」祈りなさいということなのです。

 ここに、「来ますように」に関する「2面性」があることに注目したい。「もう既に来た」という過去の出来事としての「来ますように」と、「これから来る」という未来における出来事としての「来ますように」である。そして、これは、「あがめられますように」の時に説明したように、イエス様が二千年前に来られた目的(十字架の上での贖い、三日目のよみがえり、それを信じるすべての人に救いを与えるという救い主として来られた目的)に関わりがあるということです。

 イエス様は公生涯を始められた時、開口一番こう言われた。「この時から、イエスは宣教を開始して、言われた。『悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。』」(マタイ4:17)、「「時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい。」(マルコ1:15)と。天の御国に入るためには、悔い改めて福音を信じなければならないことを語られた。そして、そのメッセージに相応しく、イエス様は悪霊追出し、病の癒しなど、数多くの奇跡のみわざを行ない、神の国が近づいていること、来ていることを現わされたのです。「しかし、わたしが、神の指によって悪霊どもを追い出しているのなら、神の国はあなたがたに来ているのです。」(ルカ11:20)と言われたようにです。イエス様は神の国の訪れを、ただ言葉だけではなく、神の力によって行ない、見える形でそれを人々に示された。しかし、これが却って仇になったのでしょうか、人々は、また弟子たちは、イエス様が彼らをローマの圧政から救い出し、この地上に神に選ばれた民としての自分たちの国をもたらしてくれる救い主であるかのように、イエス様に対して勘違いをしてしまった。だから、イエス様が十字架に架かることを語り始めると、多くの人々は、また弟子たちでさえも、みなイエス様の下を離れてしまった。彼らは、「御国が来る」ということについて、それもどのような御国が来るのかということについて、理解出来ていなかったのです。だからこそ、イエス様が「御国が来ますように。」という祈りは重要な祈りです。

 この重要な祈りには、過去の事実と未来の約束の実現という2面性があると言ったが、それは私たちにとってもそうです。イエス様の来臨(救い主としての誕生、十字架と復活)によって成し遂げられた御国が来たことは過去の事実です。しかし、残りの半分、完全な御国の完成は、これからのこと。それはイエス様の再臨によって完成されるものだからです。

Ⅰコリント15:23~26:「しかし、おのおのにその順番があります。まず初穂であるキリスト、次にキリストの再臨のときキリストに属している者です。それから終わりが来ます。そのとき、キリストはあらゆる支配と、あらゆる権威、権力を滅ぼし、国を父なる神にお渡しになります。キリストの支配は、すべての敵をその足の下に置くまで、と定められているからです。最後の敵である死も滅ぼされます。」

 このことは、黙示録でも次のように記されている。

黙示20:11~21:2:「…。それから、死とハデスとは、火の池に投げ込まれた。これが第二の死である。いのちの書に名のしるされていない者はみな、この火の池に投げ込まれた。また私は、新しい天と新しい地とを見た。以前の天と、以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとを出て、天から下って来るのを見た。」

 「御国が来ますように」と言う「御国」は、このように、人々や弟子たち、また私たちが考えやすいこの世的なこととは違う。それは、これから実現する永遠に関わることです。では、「御国が来ますように」というのは、そのように私たちの日常とはかけ離れた、遠い世界のことだけを言っているのだろうか?そのようなことを祈れと言っているのだろうか?―そうではない。ここに過去の事実に基づいて、一方で、もう既に来ている御国があるからです。

 そもそも「御国」というのは何だろう?―これは、「神の完全なる支配がなされている国」ということです。国には3つの要素がある。主権、国民、土地の3つです。初めに神が天と地を造られた時、地には完全な御国があった。主権(神)、国民(アダム、人)、そして土地(エデンの園)である。しかし、その国はアダムの罪のため、サタンの支配する国になってしまった。そこで神はその国をサタンの支配から取り戻そうと、救い主である御子を遣わされた。それが二千年前のイエス様の来臨(初臨)の出来事です。それ以来、神はイエス・キリストを通してもたらされた、また信じる私たちを通してもたらされる御国を完成しようとしておられるのである。イエス様はこう言われた。「イエスは答えて言われた。『まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。』」(ヨハネ3:3)、また「イエスは答えられた。『まことに、まことに、あなたに告げます。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることができません。』」(ヨハネ3:5)と。御国が来ることも、人の救いも同じことです。神の視点か、人の視点かの違いです。だから、「御国が来ますように」と祈ることは、「救いがこの地に来ますように」と、人々の救いのために祈ることでもある。だから、祈ろう!

 もう一つ、「御国が来ますように」と祈ることについて重要なことがある。御国とは神の支配が100%あるところだと言った。だとするならば、そこには人間の支配、肉の支配は一切ないはずです。ところがまだこの地、私達はそうではない。肉の支配に苦しんでいる。だからそういう意味でも、私達は神に完全に支配されるように、御国が来るように祈らなければならない。そして、神に従って行かなければならないのです。これは聖化の問題であり信仰の従順の問題でもある。私達は、そういう点でも「御国が来ますように」と祈らなければならない。イエス様はこう言われた。

ルカ17:20~21:「さて、神の国はいつ来るのか、とパリサイ人たちに尋ねられたとき、イエスは答えて言われた。「神の国は、人の目で認められるようにして来るものではありません。 『そら、ここにある』とか、『あそこにある』とか言えるようなものではありません。いいですか。神の国は、あなたがたのただ中にあるのです。」」

 パリサイ人たちは、御国が来ることについて傍観することが出来る者のように尋ねられたが、イエス様はそうであってはならないと言われた。私たちは、神の国の当事者、神の国に生きる国民でなければならないからです。主はそうなることを求めておられる。だから、「御国が来ますように」と祈るように命じられたのです。私たち自身に、私たちのただ中に神の支配が来るようにと、祈るように命じられたのです。

【結論】

 世界の人の歴史を見ると、多くの国々が大きな血の犠牲を払って独立を成し遂げている。しかし私たちは、かつて支配されていた悪魔の国から、イエス様の十字架と復活のみわざによって神の御国に入れられた。それは完全に神の恵みであった。だから、この恵みに答えて、これからも「御国が来ますように!」と祈ろうではないか。そして、イエス様の開口一番の言葉のように、御国の到来を伝えて行こう。人々の救いと私たちの救いの完成のために、そして、御国の完成のために。

―祈り―

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