主日礼拝メッセージ:金子辰己雄師

【聖書個所】

マタイ6:10a:

【タイトル】

主の祈り(3)「御国が来ますように」

【本論】

 この箇所の原語のギリシャ語では、「エルセートー・ヘー・バスィレイア・スー」で、それぞれ、「エルセートー」(来ますように)、「ヘー」(定冠詞)、「バスィレイア」(国)、「スー」(あなたの)の意味である。だから、原語通り言うならば、「来ますように。あなたの国(つまり御国)が」となる。最初の「エルセートー」は、前回説明した「アオリスト」という「1回限りの過去の出来事を示す語形」で、それも命令形で書かれているので、「御国が来た」のだから「御国よ、来なさい。」と言う意味合いで「御国が来るように」祈りなさいということなのです。

 ここに、「来ますように」に関する「2面性」があることに注目したい。「もう既に来た」という過去の出来事としての「来ますように」と、「これから来る」という未来における出来事としての「来ますように」である。そして、これは、「あがめられますように」の時に説明したように、イエス様が二千年前に来られた目的(十字架の上での贖い、三日目のよみがえり、それを信じるすべての人に救いを与えるという救い主として来られた目的)に関わりがあるということです。

 イエス様は公生涯を始められた時、開口一番こう言われた。「この時から、イエスは宣教を開始して、言われた。『悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。』」(マタイ4:17)、「「時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい。」(マルコ1:15)と。天の御国に入るためには、悔い改めて福音を信じなければならないことを語られた。そして、そのメッセージに相応しく、イエス様は悪霊追出し、病の癒しなど、数多くの奇跡のみわざを行ない、神の国が近づいていること、来ていることを現わされたのです。「しかし、わたしが、神の指によって悪霊どもを追い出しているのなら、神の国はあなたがたに来ているのです。」(ルカ11:20)と言われたようにです。イエス様は神の国の訪れを、ただ言葉だけではなく、神の力によって行ない、見える形でそれを人々に示された。しかし、これが却って仇になったのでしょうか、人々は、また弟子たちは、イエス様が彼らをローマの圧政から救い出し、この地上に神に選ばれた民としての自分たちの国をもたらしてくれる救い主であるかのように、イエス様に対して勘違いをしてしまった。だから、イエス様が十字架に架かることを語り始めると、多くの人々は、また弟子たちでさえも、みなイエス様の下を離れてしまった。彼らは、「御国が来る」ということについて、それもどのような御国が来るのかということについて、理解出来ていなかったのです。だからこそ、イエス様が「御国が来ますように。」という祈りは重要な祈りです。

 この重要な祈りには、過去の事実と未来の約束の実現という2面性があると言ったが、それは私たちにとってもそうです。イエス様の来臨(救い主としての誕生、十字架と復活)によって成し遂げられた御国が来たことは過去の事実です。しかし、残りの半分、完全な御国の完成は、これからのこと。それはイエス様の再臨によって完成されるものだからです。

Ⅰコリント15:23~26:「しかし、おのおのにその順番があります。まず初穂であるキリスト、次にキリストの再臨のときキリストに属している者です。それから終わりが来ます。そのとき、キリストはあらゆる支配と、あらゆる権威、権力を滅ぼし、国を父なる神にお渡しになります。キリストの支配は、すべての敵をその足の下に置くまで、と定められているからです。最後の敵である死も滅ぼされます。」

 このことは、黙示録でも次のように記されている。

黙示20:11~21:2:「…。それから、死とハデスとは、火の池に投げ込まれた。これが第二の死