主日礼拝メッセージ:金子辰己雄師

【聖書個所】

エズラ7:1~10:

​【タイトル】

エズラ記(8)「神のビジョンに生きる人」

​【序論】

 前回のメッセージを振り返りながら、今日のメッセージに入って行こう。

​ 前回のメッセージのポイントは、バビロン捕囚から解放されて神殿を再建したユダヤ人たちは、神殿の奉献式と過ぎ越しの祭りを祝った。つまり、彼らにとっては、捕囚という十字架の体験と解放という復活の出来事により、①新しく生まれ変わったイスラエルの民として神を礼拝した。②罪除かれた民として種なしパンの祭りを祝った。つまり、純粋な心で神を礼拝したということの2つだった。今日はそれに加え、V20:「ひとり残らず」から、「一つになって礼拝した。」ということを3つ目のポイントして加えたい。

 私たち一人ひとりは小さな無名の存在である。この時の彼らもそうであった。しかし、彼らは一つになって神殿を建て上げ、一つになって礼拝をささげた。彼らが再建した神殿は、ソロモンの神殿に比べれば無きに等しいような小さな神殿だったが。

ハガイ2:3:「あなたがたのうち、以前の栄光に輝くこの宮を見たことのある、生き残った者はだれか。あなたがたは、今、これをどう見ているのか。あなたがたの目には、まるで無いに等しいのではないか。」

 それだけでなく、彼らの奉げものである牛百頭、雄羊2百頭、子羊4百頭(エズラ6:17)も、ソロモンがささげた牛2万2千頭、羊12万頭(Ⅱ歴代7:5)に比べたら無きに等しいものだった。そのように、彼らが再建した神殿がどんなに小さく見える神殿でも、また、彼らの奉げものがどんなに少なくても、彼らのささげた礼拝は、ひとり残らず一つになってささげた純粋な礼拝だった。ソロモンはその後、繁栄と栄華を極め、偶像礼拝に陥って信仰を失い、国を失ってしまった。油断と驕りがあったからです。どんなに見た目に立派な神殿を建てても、どんなに多くの奉げものをしても、その心が重要なのです。神様が求めておられるのは、スーパースターのようなソロモンではなく、たとえ小さく無名の存在でも、贖われた者として、全身全霊をもって主に自らを捧げる礼拝者です。イエス様が語った貧しいやもめの献金の話(ルカ21:1~4)、また、サマリヤの女に語った真の礼拝者の話(ヨハネ4:21~24)もそのことを言っているのである。だから、私たちもそのような心をもって、この宮に集まり、主を礼拝しよう。

 では今日の聖書箇所に入る。今日のテーマは「神のみことばに生きる人」ということ。神のみことばに生きる人とはどういう人であろうか。

【本論】

 V1~V5で、エズラという人物が大祭司アロンの家系であることが記されている。そして彼は、ただ祭司であっただけではなく、みことばに精通した学者でもあった。「エズラはバビロンから上って来た者であるが、イスラエルの神、【主】が賜ったモーセの律法に通じている学者であった。」(V6a)とあるように。そして彼は、みことばに精通していると言っても、書斎に篭った知識だけの学者ではなく、行動力のある学者だった。

V7~V9a:「アルタシャスタ王の第七年にも、イスラエル人のある者たち、および、祭司、レビ人、歌うたい、門衛、宮に仕えるしもべたちのある者たちが、エルサレムに上って来た。エズラは王の第七年の第五の月にエルサレムに着いた。すなわち、彼は第一の月の一日にバビロンを出発して、第五の月の一日にエル