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主日礼拝メッセージ:金子辰己雄師

February 10, 2019

【聖書個所】

Ⅰテサロニケ5:16~18:

 

​【タイトル】

「主に在る私たちに神が望むこと」

 

【序論】

  今日のみことばは、私たちにとって馴染みのあるみことばです。「い

つも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。」と、暗唱出来るほど、また、♪いつも喜び、絶えず祈り、すべてのことを感謝しよう♪と賛美出来るほど良く知られているみことばです。しかしこのみことばは、ただ「良く知っています。」、「賛美してます。」とかいう程度のみことばではなく、このみことばに込められている、この書簡を書いたパウロの思い、また、「これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられること(これは「キリスト・イエスに在る私たちに神が望んでいること」ということ)です。」(V18)とあるように、「キリスト・イエスにある私たち」つまり「主にある私たち」に対して神が望んでおられることを本当に知るならば、このみことばは、重要なみことばなのだということが分かる。

 

​ では、パウロはこの手紙をどんな思いをもって書いたのか、また、神は主に在る私たちにどのような望みを持っているのか、この手紙の背景に触れながら、メッセージに入って行こう。

 

【本論】

 パウロは、「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。」というように、3つのことを命じている。そして、そこには共通しているものがある。それは何か?―それは、「無条件で」ということです。

 

・「いつも」:(ギ)パントーテ=「パン(あらゆる)」+「トーテ(その時)」。⇒「あらゆる時に、すべての時に、どんな時にでも」というよう 

 に、「時に関して無条件で」ということ。

 

・「絶えず」:(ギ)アディアレイパトース=「ア(「ではない」という否定を意味する接頭語)」+「ディアレイパトース(中断、休止)」⇒「中断

 することなく、休むことなく」というように、「状態に関して無条件で」ということ。

 

・「すべてのことについて」:(ギ)エン・パンティ:文字通り、「何に関して無条件」でということ。

 

 どうしてパウロはこのように、無条件で、「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべてのことについて、感謝しなさい。」と言うのか?―それには、パウロがこの手紙を書かなければならなかったこの時のテサロニケ教会の霊的状況を見なければならない。簡単にそれを見てみよう。

​ テサロニケの教会は、パウロの第2次伝道旅行によって開拓された教会で、詳しくは使徒17章に記されているが、簡単に説明すると、パウロとシラスは、トロアスからマケドニアに渡って来て、ピリピの町で最初に伝道し、そしてアムピポリス、アポロニアという町を通って、この地方の首都であったテサロニケにやって来た。そして、何週間かに亘る伝道により、多くの人が救われたが、そのパウロとシラスの活躍に妬みを抱いたユダヤ人たちは、町のならず者たちを集めて暴動を起こさせ、その暴動の原因がパウロとシラスにあるかのように図ったので、彼らはテサロニケの町を去って行った。そして、ベレヤ、アテネを経て、コリントの教会にやって来た。この手紙は、そのコリントの教会から、BC51年頃に書き送られた手紙。パウロは多くの手紙を書いているが、この手紙はそれらの中で一番初めに書かれた手紙です。

​ この手紙をパウロが書き送らなければならなかった理由は幾つかあるが、その中で一番の理由は、テサロニケの教会の人々が、イエス様の再臨に関して間違った理解を持ち、そのために間違った生活に陥っていたというところにある。どんな間違いかというと、彼らの中には、もうイエス様の再臨が間近と思い、この世の仕事をしていても仕方がないと考えて真面目に働くことを止めたり、放縦な生活に走ったり、以前の生活に逆戻りしてしまう兄姉たちがいた。そのような彼らに対し、パウロは警鐘を鳴らしながら、今日のみことばを語っているのです。

​Ⅰテサロニケ5:1~6:「兄弟たち。それらがいつなのか、またどういう時かについては、あなたがたは私たちに書いてもらう必要がありません。主の日が夜中の盗人のように来るということは、あなたがた自身がよく承知しているからです。人々が「平和だ。安全だ」と言っているそのようなときに、突如として滅びが彼らに襲いかかります。ちょうど妊婦に産みの苦しみが臨むようなもので、それをのがれることは決してできません。しかし、兄弟たち。あなたがたは暗やみの中にはいないのですから、その日が、盗人のようにあなたがたを襲うことはありません。あなたがたはみな、光の子ども、昼の子どもだからです。私たちは、夜や暗やみの者ではありません。ですから、ほかの人々のように眠っていないで、目をさまして、慎み深くしていましょう。」

 

​ 世の人々は、「主の日」(イエス様の再臨と再臨に伴う裁きが行なわれる日)が来るのを知らずに、「平和だ。安全だ。」と言いながら放縦の滅びの生活を送っている。しかし、あなたがたはその日が来ることを知っているのだから、「眠っていないで、目を覚まして、慎み深くしていましょう。(抄訳:「静かにして、落ち着いて、用意周到にして」いましょう。)」というのです。これらのパウロの薦めの言葉の延長線に、今日の言葉がある。つまり、主を信じた者ならば誰であっても滅びることは無い。主の再臨される時は、誰でも空中に軽挙され、天においていつまでも主と共にいることになる。だから静かにして、落ち着いて、いつイエス様の再臨があっても大丈夫なように、用意周到にしていて、無条件で、「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべてのことについて感謝しなさい。」と言うのです。ところが、テサロニケ教会のある兄姉たちは、イエス様を信じていないこの世の人たちと同じように、「主の日」が来るとすべてが終わってしまうものであるかのように思い込み、この世の人たちと変わらないような生活(好き勝手な生活、放縦な生活、情欲に溺れた生活)に陥ってしまっていた。彼らは、自分たちが誰で、どんな時に生かされているのか、パウロから正しく教えられていたのにも関わらず、それを正しく理解することが出来ず、この世の人たちと変わることのない考えと生き方に陥ってしまっていたのです。

 

​ そういう意味で、この手紙は今日の私たちに向けた手紙でもある。私たちもこの時のテサロニケ教会の兄姉たちと同じ時代に生かされている。私たちの周りを見ても分かるように、この世はあらゆる罪、放縦に満ちておきながら、「自分たちは大丈夫、平和で安全だ。」と考えている。そして、テサロニケの教会が周りからそのような影響を受けていたように、今日の私たちの教会もこの世の影響の下にある。本来ならば私たちが地の塩、世の光としてこの世に塩気、光を放っていなければならないのに、反対にこの世の塩気、この世の光が入り込み、この世の考え方、生き方に支配されてはいないか。また、この世は条件付の社会だから、条件付の生き方に慣らされてはいないだろうか。もしそうならば、私たちは無条件で喜ぶこと、無条件で祈ること、無条件で感謝することは出来ないだろう。しかし聖書は、私たちは主に在る者なので、無条件での喜び、無条件で祈り、無条件で感謝することが出来るものであると教えている。何故ならば、私たちはそれが出来るように、神よって無条件の救い、無条件の愛に預かったからです。

 

ローマ5:8~11:「しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。ですから、今すでにキリストの血によって義と認められた私たちが、彼によって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。もし敵であった私たちが、御子の死によって神と和解させられたのなら、和解させられた私たちが、彼のいのちによって救いにあずかるのは、なおさらのことです。そればかりでなく、私たちのために今や和解を成り立たせてくださった私たちの主イエス・キリストによって、私たちは神を大いに喜んでいるのです。」

 

​【結論】

 私たちの救いは何という救いだろうか。もう一度この恵みを覚えよう。そして、この世による喜びでなく、この世による祈りでなく、この世による感謝でなく、主に在る喜び、主に在る祈り、主に在る感謝を、主に在る者としてささげて行こう。

 

​―祈り―

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