【聖書個所】
マタイ6:10b:「みこころが天で行われるように地でも行われますように。」
【タイトル】
主の祈り(4)「みこころが行なわれますように」
【序論】
私たちは今、主の祈りをマタイの福音書から学んでいるが、ルカの福音書にも主の祈りの箇所が出て来る。そこにはマタイの福音書とは違う点がある。それは、弟子の一人がイエス様に祈りについて教えを請い、そしてその願いに答えて、イエス様が弟子たちに教えておられるいうことです。
「祈りについて」には2つの意味がある。一つは、祈りとはどういうものかという祈りの定義のようなもの。もう一つは、どう祈ったらよいのかという祈り方についてです。事実、聖書を読み比べてみると、新改訳聖書のようにどちらにも採れる訳し方の聖書と、現代訳聖書のように、明らかに祈り方について訊き、それに対して答えているようにみえるものがある。
現代訳(ルカ11:1~2):「イエスがある所で祈っておられると、その祈りが終わった時、弟子の一人がイエスに言った。『主イエス様。バプテスマのヨハネがその弟子たちに祈祷文を教えたように、私たちにもどのように祈ったらよいのか、教えてください。』そこで、イエスは彼らに言われた。『このように祈ったらよいでしょう。』」と、そして、主の祈りが続く。
このように、確かに2つの捉え方があるが、肝心な点は、イエス様が「だから、こう祈りなさい。」(マタイ6:9)、また「祈るときには、こう言いなさい。」(ルカ11:2)と言われている通りに祈ることです。今日もそういう意味で、イエス様は私たちに、どのような祈りを、どのように祈ったらよいのかと教えていらっしゃるのか、今日の箇所から学んで行こう。
【本論】
先ほど「祈りとはどういうものか」ということが言われたが、皆さんはどう思うだろうか?―ある人は「祈りとは神様との会話」、ある人は「祈りとは神様の御声を聞くこと」、別の人は「祈りとは神様にお願いすること」と、いろいろな答えがあるだろう。どれも正解だが、私たちの祈りを点検してみると、多くの場合、「○○してください。」とお願いしている場合が多いのではないだろうか。そこで、今日のみことばはそれに対して何と言っているか?!
(1)(祈りは)私たちの思いではなく、神様の思いが実現することです。
これが先ず、祈りについての第一の重要な原則、重要な真理です。
マタイ6:10b:「みこころが天で行われるように地でも行われますように。」
聖書は、「みこころが天で行われるように地でも行われますように。」と言っている。「みこころ」とは何か?―それは、神様の心、神様の思いです。この点で、この重要な真理をつかんでいないがために、多くの人は祈りに躓き、「祈りなんて」と言って、信仰を失って行くのです。私たちは先ず祈りについてはっきりと知らなければならない。私たちは、祈れば必ず私たちの思いや願いが実現するということではなく、祈りは、神様の思い、計画、みこころが実現することだということを知らなければならないのです。
聖書はこう言う。「わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、わたしの道は、あなたがたの道と異なるからだ。─【主】の御告げ─天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。」(イザヤ55:8~9)と。このように、神様のみこころは私たちとは異なり、天が地より無限に高いように高いのだから、私たちの思い通りにならないと言って、祈りを諦めてしまってはいけないのです。何故なら、神様には私たちとは違った計画、思い、道があるのだから。また、神様は決して祈りに答えていないのではなく、私たちの思い通りになっていないという形で、答えて下さっているのだからです。だから私たちは、イエス様が「こう祈りなさい。」と言われた通りに祈ろう。イエス様ご自身もそのように祈られた。私たちも良く知っているゲッセマネの園での祈りである。
マタイ26:36~39:「・・・。『わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。』」
マタイ26:42:「イエスは二度目に離れて行き、祈って言われた。『わが父よ。どうしても飲まずには済まされぬ杯でしたら、どうぞみこころのとおりをなさってください。』」
マタイ26:44:「イエスは、またも彼らを置いて行かれ、もう一度同じことをくり返して三度目の祈りをされた。」
2つ目のポイントは、「みこころが天で行われるように地でも行われますように。」の、「地」が究極的には「私たち」、「自分」を指し示しているということを知ることである。
(2)(祈りは)私たちに神様のみこころがなることを求めること。神様のみこころに従うこと。神様のみこころを私たちの信仰の土台に置くことです。
信仰というのは、イエス様とペテロとの対話(「・・・。私に従いなさい。」(ヨハネ21:22)のように、神様と自分との関係です。そして、祈りもそうである。私たちは日常生活の中では何をすればよいか分かっているので、祈ることもせず信仰生活を送ることが出来る。しかし、何か問題が起き上がると、どうしたらよいかを知るために祈る。それはちょうど、カーナビのGPSに、また地図とコンパスに頼るようなものである。そして私たちはそれに頼る時、100%それに頼る。そうでなければ目的地に行くことが出来ないからである。しかし私たちはしばしば、それらに頼らずに、自分勝手な考えて行くことがある。そんな時どうなるか。
引用:濃霧の中で航海する船と灯台の例。
船は灯台の灯りに従わなければならないのに、灯台を灯台とは知らずに自分の灯りに灯台に従わせようとしたらどうなるか。どうにもならない。そして陸に衝突して座礁し、破船となるだけである。私たちが祈っても、御心に従おうとしなければ、この破船に遭う船のようではないだろうか。だから私たちは祈るとき、「みこころが私になりますように」と祈るのである。神様の御心は私たちの思い、計画、考えよりもはるかに高く、完全であるからである。
自分の身に自分の理解を越えたことが起こった時、マリヤもそのように祈った。「マリヤは言った。『ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように。』こうして御使いは彼女から去って行った。」(ルカ1:38)とあるように。「あなたのおことばどおり」というのは、「あなたのみこころのとおり」ということです。
【結論】
このように、「みこころが天で行われるように地でも行われますように」というのは、神様と私たち一人ひとりの信仰の関係(神を神とすること)の中で、神のみこころを第一とし、神のみこころに従って、神のみこころのままに生きることを祈る信仰の真髄なのです。だから私たちは、日々、このように祈ろう!「みこころが天で行われるように、私の内にも行われますように。」と。
―祈り―