主日礼拝メッセージ:金子辰己雄師

【聖書個所】

エペソ5:8

​【タイトル】

「主にあって、光の子どもとして歩む」

​【序論】

 聖書は、私たちは「主にあって光となった。」と言う。今日は、この「私たちは主にあって光となった」というところから、神様が私たちに語ろうとしているメッセージを受け取りたいと思う。

【本論】

 先ず神様は私たちに、(1)「私たちは、以前は暗闇だったが、今は主にあって光となった。」と語っている。この以前の状態と今の状態との違いに、先ず注目したい。暗闇と光との違いとはどの位の違いか?―それは、北と南、東と西の違いのように、全く正反対の、相容れない、全く共存することが出来ない違いである。それは何を意味するかというと、それは、私たちの以前の性質、生き方、考え方、行ない、言動が暗闇のものであり、今の性質、生き方、考え方、行ない、言動が光のものであるということです。

 この5章だけ見ても、幾つかのことが語られている。暗闇に類する性質、生き方、考え方、行い、言動としては、「あなたがたの間では、聖徒にふさわしく、不品行も、どんな汚れも、またむさぼりも、口にすることさえいけません。また、みだらなことや、愚かな話や、下品な冗談を避けなさい。そのようなことは良くないことです。むしろ、感謝しなさい。あなたがたがよく見て知っているとおり、不品行な者や、汚れた者や、むさぼる者─これが偶像礼拝者です、─こういう人はだれも、キリストと神との御国を相続することができません。」(V3~V5)のように、いくつものことが語られている。すべてのことを見ることは出来ないが、「不品行」だけでも見てみると、それは、原語では「ポルネイア」という言葉で、現代のポルノという言葉の元になっているもの。「人の道から外れた、神様が良しとしない関係や状況での性的交わり、およびそれに類するもの」という意味の言葉である。当時、エペソの町にはアルテミスという女神を祭る神殿があったが、そこには神殿娼婦がいて、今では不道徳な行為が女神を礼拝する普通の宗教行為として行なわれていた。そのように、それに類するような汚れた行ないや、むさぼり、みだらなこと、愚かな話、下品な冗談がささやかれていたのである。

 一方、光に類する性質、生き方、考え方、言動、行いとしては、「ですから、愛されている子どもらしく、神にならう者となりなさい。また、愛のうちに歩みなさい。キリストもあなたがたを愛して、私たちのために、ご自身を神へのささげ物、また供え物とし、香ばしいかおりをおささげになりました。」(V1~V2)のように、神にならう生き方、愛のうちに歩む生き方、考え方、行動、言動のことである。また、「光の結ぶ実は、あらゆる善意と正義と真実なのです──そのためには、主に喜ばれることが何であるかを見分けなさい。」(V9~V10)のように、真善美という言葉があるが、人間が本来求めているものは、このような良いもの、良い行ないです。それは、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、柔和、誠実、自制という、御霊に従って歩む時に結ぶ実のようなものです。私たちは光になったのだから、これらの光の実を結べということである。また、「そのためには、主に喜ばれることが何であるかを見分けなさい。」という。つまり、主のみこころは何であるかを見分け、そしてそれを行なえと言う。

 「主のみこころ」とは何だろう?―それは、イエス様のところに来て、「すべての命令の中で、どれが一番たいせつですか?」と訊かれた律法学者に答えたイエス様の答えの中にある。「イエスは答えられた。一番たいせつなのはこれです。『イスラエルよ。聞け。われらの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』次にはこれです。『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』この二つより大事な命令は、ほかにありません。」(マルコ12:29~31)のように、神を神とし、人を自分よりもすぐれた者と思い、謙って歩む生き方である。

 次に、光に類する生き方、考え方、性質、行ない、言動は、「実を結ばない暗やみのわざに仲間入りしないで、むしろ、それを明るみに出しなさい。」(エペソ5:11)のように、前述のような暗闇のわざを明るみ