主日礼拝メッセージ:金子辰己雄師

【聖書個所】

ガラテヤ5:1

【タイトル】

クリスチャンとしての救いと成長

【序論】

 19世紀の終わり頃、アメリカのボストン近郊にひとつの孤児院があった。孤児院とは言っても、孤児だけが集められていたわけではなく、福祉施設として、貧困者、病人、特に精神に病いを得て社会生活を送れない人たちや、娼婦など、社会から厄介者扱いされていた人たちを隔離するための、福祉施設とは名ばかりの牢獄のような施設だった。その中にリトルアーニーと呼ばれる一人の少女がいた。彼女は幼い時の目の病気でほとんど目が見えず、且つ、施設にいた唯一の弟を結核で亡くして天涯孤児となり、その不幸な出来事のために心を閉ざし、誰に対しても何の反応もしなくなってしまっていた。そこに一人のクリスチャン女性が働いていて、彼女は毎日、アーニーの部屋にお菓子が載った皿を持って行き、扉の外で聖書を読み、また、そんな状態から解放されるように神に祈っていた。そんなある日、彼女は持って行ったチョコレートケーキの載ったお皿が空に無くなっているのに気付いたのです。それまでは手を付けずに返って来ていたのに、ようやく差し出された物に反応し始めたのです。それに力を得た女性はさらに祈ることを続け、やがてアーニーはこの女性の呼び掛けにドア越しに答えるようになり、終には医師の治療を受け、普通の生活を送れるようになった。それから二年後、アーニーは14歳になり自分と同じような境遇の人たちを助けたいと、盲学校に進んだ。そして、最初にアーニーの生徒になったのが、あのヘレン・ケラーです。そう、このリトル・アーニーこそ、私たちがサリバン先生と呼んでいるあのアン・サリバンでした。彼女の姿に、私たちは「クリスチャンとしての救いと歩み、成長」という姿を見ることが出来る。今日はこのテーマ「クリスチャンとしての救いと成長」というテーマで、続けてガラテヤ5:1からみことばを取り次ぎたい。

【本論】

ガラテヤ5:1a:「キリストは、自由を得させるために、私たちを解放してくださいました。」

 ここに、私たちの「救い」というものがどういうものであるか、聖書は語っている。私たちはかつては皆、罪の奴隷だった。しかし、私たちのために死んで下さったイエス様を信じる信仰により、私たちは罪の奴隷から解放されて神の子ども、神の奴隷となったのです。罪の奴隷から神の奴隷というふうに、立場において完全に変えられたのです。

ローマ6:17~18:「神に感謝すべきことには、あなたがたは、もとは罪の奴隷でしたが、伝えられた教えの規準に心から服従し、罪から解放されて、義の奴隷となったのです。」

※これが私たちの救いです。罪人から義人という風に、アイデンティティーが変わっただけではなく、立場、仕える主人が明確に変わったのです。だから私たちはそのような者として歩んで行かなければならないのです。それが私たちの歩み=クリスチャンとしての成長です。そのクリスチャンとしての歩みを一つの例から見ると;

ルカ17:11~19:「そのころイエスはエルサレムに上られる途中、サマリヤとガリラヤの境を通られた。ある村に入ると、十人のツァラアトに冒された人がイエスに出会った。彼らは遠く離れた所に立って、声を張り上げて、『イエスさま、先生。どうぞあわれんでください。』と言った。イエスはこれを見て言われた。『行きなさい。そして自分を祭司に見せなさい。』彼らは行く途中できよめられた。そのうちのひとりは、自分のいやされたことがわかると、大声で神をほめたたえながら引き返して来て、イエスの足もとにひれ伏して感謝した。彼はサマリヤ人であった。そこでイエスは言われた。『十人きよめられたのではないか。九人はどこにいるのか。神をあがめるために戻って来た者は、この外国人のほかには、だれもいないのか。』それからその人に言われた。『立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰が、あなたを直したのです。』」