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主日礼拝メッセージ:金子辰己雄師

March 24, 2019

【聖書個所】

 

ガラテヤ5:1

【タイトル】

クリスチャンとしての救いと成長

【序論】

 19世紀の終わり頃、アメリカのボストン近郊にひとつの孤児院があった。孤児院とは言っても、孤児だけが集められていたわけではなく、福祉施設として、貧困者、病人、特に精神に病いを得て社会生活を送れない人たちや、娼婦など、社会から厄介者扱いされていた人たちを隔離するための、福祉施設とは名ばかりの牢獄のような施設だった。その中にリトルアーニーと呼ばれる一人の少女がいた。彼女は幼い時の目の病気でほとんど目が見えず、且つ、施設にいた唯一の弟を結核で亡くして天涯孤児となり、その不幸な出来事のために心を閉ざし、誰に対しても何の反応もしなくなってしまっていた。そこに一人のクリスチャン女性が働いていて、彼女は毎日、アーニーの部屋にお菓子が載った皿を持って行き、扉の外で聖書を読み、また、そんな状態から解放されるように神に祈っていた。そんなある日、彼女は持って行ったチョコレートケーキの載ったお皿が空に無くなっているのに気付いたのです。それまでは手を付けずに返って来ていたのに、ようやく差し出された物に反応し始めたのです。それに力を得た女性はさらに祈ることを続け、やがてアーニーはこの女性の呼び掛けにドア越しに答えるようになり、終には医師の治療を受け、普通の生活を送れるようになった。それから二年後、アーニーは14歳になり自分と同じような境遇の人たちを助けたいと、盲学校に進んだ。そして、最初にアーニーの生徒になったのが、あのヘレン・ケラーです。そう、このリトル・アーニーこそ、私たちがサリバン先生と呼んでいるあのアン・サリバンでした。彼女の姿に、私たちは「クリスチャンとしての救いと歩み、成長」という姿を見ることが出来る。今日はこのテーマ「クリスチャンとしての救いと成長」というテーマで、続けてガラテヤ5:1からみことばを取り次ぎたい。

【本論】

ガラテヤ5:1a:「キリストは、自由を得させるために、私たちを解放してくださいました。」

 ここに、私たちの「救い」というものがどういうものであるか、聖書は語っている。私たちはかつては皆、罪の奴隷だった。しかし、私たちのために死んで下さったイエス様を信じる信仰により、私たちは罪の奴隷から解放されて神の子ども、神の奴隷となったのです。罪の奴隷から神の奴隷というふうに、立場において完全に変えられたのです。

ローマ6:17~18:「神に感謝すべきことには、あなたがたは、もとは罪の奴隷でしたが、伝えられた教えの規準に心から服従し、罪から解放されて、義の奴隷となったのです。」

※これが私たちの救いです。罪人から義人という風に、アイデンティティーが変わっただけではなく、立場、仕える主人が明確に変わったのです。だから私たちはそのような者として歩んで行かなければならないのです。それが私たちの歩み=クリスチャンとしての成長です。そのクリスチャンとしての歩みを一つの例から見ると;

ルカ17:11~19:「そのころイエスはエルサレムに上られる途中、サマリヤとガリラヤの境を通られた。ある村に入ると、十人のツァラアトに冒された人がイエスに出会った。彼らは遠く離れた所に立って、声を張り上げて、『イエスさま、先生。どうぞあわれんでください。』と言った。イエスはこれを見て言われた。『行きなさい。そして自分を祭司に見せなさい。』彼らは行く途中できよめられた。そのうちのひとりは、自分のいやされたことがわかると、大声で神をほめたたえながら引き返して来て、イエスの足もとにひれ伏して感謝した。彼はサマリヤ人であった。そこでイエスは言われた。『十人きよめられたのではないか。九人はどこにいるのか。神をあがめるために戻って来た者は、この外国人のほかには、だれもいないのか。』それからその人に言われた。『立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰が、あなたを直したのです。』」

 「直した」とは、神との関係において「健全になった」ということで、神との関係の回復を意味し、他の聖書箇所では「神との和解」(ローマ5:10)、「神との平和」(ローマ5:1)とも言う。 いずれにしろ、ライ病から解放され、自由になり、癒された10人の内の一人であったこのサマリヤ人は、その癒されたことを知り、神を褒め称える者となった。神との関係が回復したのである。だからイエス様が、「立ち上がって、行きなさい。」つまり「解放され自由になったのだから、自由にされた者として、自立して行きなさい。」と言われた。ここに、クリスチャンとしての成長の姿がある。パウロがガラテヤ5:1の後半で言っていることは、そのことである。

ガラテヤ5:1b:「ですから、あなたがたは、しっかり立って、またと奴隷のくびきを負わせられないようにしなさい。」

 神との関係の中で神を神とし、それ以外のものを神として、そのものの奴隷となってはならないというのである。そのためにはどうしたら良いか?―「義の奴隷」という言葉が出て来たが、神の奴隷として、神のみことばに、御霊に導かれて歩むことである。それはちょうど、車を運転する時に、みことばのナビに従うようなもの、みことばのメガネを掛けて運転するようなものである。もしそうしなかったらどうなるか?―目的地に達することが出来ないだけではなく、いずれ事故を起こし、命を落とすだろう。聖書はそのことを、こう言っている。 

ローマ6:20~21:「罪の奴隷であった時は、あなたがたは義については、自由にふるまっていました。その当時、今ではあなたがたが恥じているそのようなものから、何か良い実を得たでしょうか。それらのものの行き着く所は死です。」

 だから私たちは、「しっかり立って、またと奴隷のくびきを負わせられないようにしなければならない。」のです。これは「・・・ないようする。」という点で消極的な選択です。そうならないための積極的な選択は、「奴隷のくびき」ではなく、「自由にされた者のくびき」を負うことです。それはどういうことだろうか?―イエス様はこう言われた。「・・・。わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」(マタイ11:28~30)また、ヤコブは、「また、みことばを実行する人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者であってはいけません。みことばを聞いても行わない人がいるなら、その人は自分の生まれつきの顔を鏡で見る人のようです。自分をながめてから立ち去ると、すぐにそれがどのようであったかを忘れてしまいます。ところが、完全な律法、すなわち自由の律法を一心に見つめて離れない人は、すぐに忘れる聞き手にはならないで、事を実行する人になります。こういう人は、その行いによって祝福されます。」(ヤコブ1:22~25)と言った。

【結論】

 クリスチャン生活はこのように、先ず①罪の奴隷から解放されたことをしっかりと自覚し、②その自覚に立って、またと罪の奴隷のくびきを負ってはならないのです。むしろ③積極的に主のくびきを負って、主とともに、みことばと共に、御霊と共に歩むのです。

 今、依存症に関わる働きを始めているが、依存症の当事者にとっても、その周りにいる人々、特に家族の人々にとっても重要なのは、この点です。依存と支配の状態から、或いは共依存と支配の状態から自由にされて、本来の人間として自立して生きて行くこと、これが依存症に関わる人であっても、そうでなくても、すべての人に関わる重要なことなのです。

 イエス様は、私たちをあらゆる罪の奴隷、罪の支配、罪の依存から解放し、それらのものから自由にして下さるために十字架に架かって死んで下さった。それを信じる時、私たちは罪から救われ、自由にされる。しかし、自由にされたからと言って、何でもして言い訳ではない。私たちはその自由を持って、みことばに在って(従って)、御霊に在って(従って)、主に在って(従って)、しっかり立って、自立して歩んで行かなければならないのです。

―祈り―

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