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これまでのメッセージ

主日礼拝メッセージ:金子辰己雄師

【聖書個所】

 

エズラ8:1~23

 

​【タイトル】

「私たちの願いを聞いてくださる神」

 

【本論】

​ この箇所は2つに分かれる。①エズラと一緒にエルサレムに帰還した人々とその系図(V1~V14)についてと、②帰還するに当たりエズラが準備したこと(V15~V23)である。

 

(1)エズラと一緒に帰還した人々の帰還者リスト(V1~V14)

​ 聖書には幾つかの箇所に、人々の名前とその系図が書いてある所がある。一見単調に見える名前と系図だが、そこには重要な意味がある。一つ、その人が誰の子孫なのかという過去が分かること。二つには、まだ記されていないが、これからどうなるかという将来の予測の土台になるということである。

 

 私たちは、自分の家のことを祈るとき、どのように祈っているだろうか?―私は、まだ救われていない子どもの救い、その将来、まだ実現していない結婚、子どもが与えられること、そしてその子からまた次の子…というように、子々孫々に至るまでのことを祈っている。それは、アブラハムに与えられたアブラハム契約に基づく祝福を受け、受け渡して行く祈りです。

​創世記12:1~3:「【主】はアブラムに仰せられた。『あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる。あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。』」

創世記15:5~6:「そして、彼を外に連れ出して仰せられた。『さあ、天を見上げなさい。星を数えることができるなら、それを数えなさい。」さらに仰せられた。「あなたの子孫はこのようになる。』彼は【主】を信じた。主はそれを彼の義と認められた。」

 アブラハムはその信仰が義とされる時、彼の身から生まれる数え切れないほどの空の星の数の子孫を見た。つまり、まだ実際には書かれていないが、信仰の目を持って、この後に書かれる子孫が記されている未来の家系図を見たのである。そしてその信仰を持って、彼はイサクを祭壇にささげた。その結果、彼は、神の約束と御霊によって生まれたイサクを得た。また、そのイサクにつながる、今こうして神の子とされ、こうして生きている私たちを得たのです。

ヘブル11:18~19:「神はアブラハムに対して、『イサクから出る者があなたの子孫と呼ばれる。』と言われたのですが、彼は、神には人を死者の中からよみがえらせることもできる、と考えました。それで彼は、死者の中からイサクを取り戻したのです。これは型です。」

それと同じように、私たちもその信仰により、アブラハムが見た私たちの霊の子どもである私たちの子孫を見るのです。それが今、私たちが聖書の中で数多くの人々の名前とその家系の箇所を読むときに、私たちが持つことが出来る神の祝福ではないだろうか。

(2)エズラが設けた帰還準備(信仰による祈り)

V15:「私はアハワに流れる川のほとりに彼らを集め、私たちはそこに三日間、宿営した。私はそこに、民と祭司たちとを認めたが、レビ人をひとりも見つけることができなかった。」

 エズラはエルサレムに帰還するに当たり、人々をアハワ川の辺に集めた。しかし、「民と祭司たちとを認めたが、レビ人をひとりも見つけることができなかった。」(V15)という。エズラ自身も祭司の家系だからレビ人であるが、ここで「レビ人」と言っているのは誰のことを言うのだろうか?―それは、「私たちの神の宮に仕える者たち」(V17)と言う祭司職以外の神殿奉仕(金銀の器、香壇の香、パン、油など、礼拝に使われる用具の管理や運搬等)に当たるレビ人たちのことである。エズラは、先に帰っていた民に律法を教え、律法に基づいて礼拝を奉げさせるのが帰還の目的だったから、そのためにはそういう礼拝に必要なレビ人が必要だったのである。そこで彼は、そういうレビ人がいる「カシフヤ地方」(V17)に人を遣わし、V18~V20に記されている人々を集め、そして断食の布告を出した。その目的は;

  • 神の前でへりくだるため。

V21:「そこで、私はその所、アハワ川のほとりで断食を布告した。それは、私たちの神の前でへりくだり、」

断食は通常、罪を告白して悔い改め、方向転換を行なって、神への完全な従順を示すために行なうが、エズラたちは、これから神の使命を果たすためにエルサレムに行くので、その働きのための神への完全な従順を表すために断食をし、神の前にへりくだったのである。

  • 道中の無事を求めて:

V21:「私たちのために、私たちの子どもたちと、私たちのすべての持ち物のために、道中の無事を神に願い求めるためであった。」

 この道中の無事は、「私は道中の敵から私たちを助ける部隊と騎兵たちを王に求めるのを恥じたからである。」(V22a)とあるように、ペルシャの国の力に頼るのではなく、神だけを頼る信仰の証しとして断食をし、神に願い求めたのである。彼は、「私たちは、かつて王に、『私たちの神の御手は、神を尋ね求めるすべての者の上に幸いを下し、その力と怒りとは、神を捨てるすべての者の上に下る。』と言っていたからである。」(V22b)とあるように、神のみを信じ頼る信仰の証しをいつもしていたのである。そして断食をし、神に願い求めたのである。

 それは、次の詩篇の作者の信仰にも見ることが出来る。

 

詩篇73:25~28a:「天では、あなたのほかに、だれを持つことができましょう。地上では、あなたのほかに私はだれをも望みません。この身とこの心とは尽き果てましょう。しかし神はとこしえに私の心の岩、私の分の土地です。それゆえ、見よ。あなたから遠く離れている者は滅びます。あなたはあなたに不誠実な者をみな滅ぼされます。しかし私にとっては、神の近くにいることが、しあわせなのです。」

 また、イエス様もそのような信仰を教えるためにたとえ話を話された。 

:「いつでも祈るべきであり、失望してはならないことを教えるために、イエスは彼らにたとえを話された。「ある町に、神を恐れず、人を人とも思わない裁判官がいた。その町に、ひとりのやもめがいたが、彼のところにやって来ては、『私の相手をさばいて、私を守ってください。』と言っていた。彼は、しばらくは取り合わないでいたが、後には心ひそかに『私は神を恐れず人を人とも思わないが、どうも、このやもめは、うるさくてしかたがないから、この女のために裁判をしてやることにしよう。でないと、ひっきりなしにやって来てうるさくてしかたがない。』と言った。」主は言われた。「不正な裁判官の言っていることを聞きなさい。まして神は、夜昼神を呼び求めている選民のためにさばきをつけないで、いつまでもそのことを放っておかれることがあるでしょうか。あなたがたに言いますが、神は、すみやかに彼らのために正しいさばきをしてくださいます。」

【結論】 

 どのような願いを私たちは持っているだろうか。私たちはこの詩篇の作者やたとえ話の中のやもめのように、そしてエズラのように、神に対する絶対的な信仰による願いを持ち、そして求めよう。「だから、私たちはこのことのために断食して、私たちの神に願い求めた。」(V23a)のように。そうするならば、「神はその願いを聞いてくれたのである。」(V23b)とあるように、神は必ずそのような祈り、願い求めに答えられる。

―祈り―

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