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これまでのメッセージ

主日礼拝メッセージ:金子辰己雄師

【聖書個所】

 

Ⅱコリント5:17

【タイトル】

「キリストにあって新しく造られた者」

【序論】

Ⅱコリント5:17:「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」

 聖書は、誰でも例外なく「キリストのうちにあるなら」=イエス・キリストを私の救い主として信じるなら、「その人は新しく造られた者です。」というのです。そして「古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」=信じた私たちに関わる「すべてが新しくなりました。」というのです。今日から何回かに分けて、「主に在って」という今年のテーマの一環として、私たちが主に在ることにより「すべてが新しくなりました。」という、その「すべて」について、みことばから分かち合って行きたいと思う。今日はその第1回目。

【本論】

 先ず、私たち自身が「新しく造られた」のです。「新しく造られた」というのは、ただ主を信じることによって、例えば、「今までは怒り易かったが、優しくなった。」とか、「今までは酒やたばこをやっていたが、どちらもやめることが出来た。」とか、「今までは映画や音楽を聴くことが好きだったが、今はそうではない。」とかいうことではない。「怒り易い」とか「優しい」というのは性格のこと、お酒やたばこは習慣、映画や音楽は好みのことで、それらの変化は主を信じて救われた結果のことであって、「新しく造られたもの」そのものではない。「新しく造られた」というのは、文字通り、新しい創造、New Creationなのです。

 

 家で言うなら、壁紙が汚れて来たから張替えるとか、雨漏りがするから屋根を張替えるとか、一部の修繕や交換のことではなく、またリフォームのことでさえない。それは、家を完全に解体し、土地を更地にし、全く新しい材料で初めから新しい家を建てることです。以前のものは全くなくなり、

すべてが新しくなったということです。それは私たちの場合で言うなら、古い自分はなくなって、新しい自分になったということです。私たちが礼拝でときどき賛美する「スピリットソング」にこういう歌詞がある。

♪聖霊と愛とがあなたを包む時、心もたましいも満たされ、あなたの心に主がともに住み、古い自分は過ぎ去る。・・・♪の中の、「古い自分は過ぎ去る。」ということなのです。

 聖書の「過ぎ去って」、そして「新しくなりました。」の言葉の時制は、英語の聖書では明らかだが、それは、「過ぎ去って:has passed away」、「なりました:has come」という風に、どちらも現在完了形で、過去の時点でそうなって、そして今もそうなっているということです。そうです!「古い私たち自身」は過ぎ去り、「全く新しい私たち自身」が造られたというのです。それが、キリストにあって起こったのです。

ローマ6:4~5:「私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。もし私たちが、キリストにつぎ合わされて、キリストの死と同じようになっているのなら、必ずキリストの復活とも同じようになるからです。」

 今年のイースターにはミーちゃんが洗礼を受けるが、このみことばは、その洗礼の意味を表しているみことばで、そこにあるように、もし私たちがキリスト・イエスを信じてキリストの死に預かるバプテスマを受けるなら、キリストと共に死んで葬られ、そして、キリストの復活とともによみがえる、復活のいのちによって、新しく造られた者としてよみがえるというのです。それが、私たちがキリスト・イエスを信じた時に私たちに起こったことです。それが、「キリストにあって」ということです。私たちは皆、そのように新しく造り変えられたのです。このことをしっかりと覚えよう。私たちは、性格が変わったから救われた、習慣が変わったからクリスチャンになった、好みが変わったから救われたということではない。このことは何度言ってもよいほど重要なことです。何故なら教会では、私たちは救われると、クリスチャンとしてこうしなければならない、ああしなければならないと、さまざまなクリスチャンとして守らなければならない「行ない」が教えられ、ややもすると、それが出来ないとクリスチャンではないかのように思ってしまうが、しかし、真理はそうではない。それは、「木と実」の例で説明出来る。この世の中には、クリスチャンでなくても、怒りっぽくなく優しい人はいるし、煙草やお酒をやらない人もいる。また映画や音楽を好みにしない人もいる。重要なのは、その木がどういう木かということなのである。

マタイ7:16~18:「あなたがたは、実によって彼らを見分けることができます。ぶどうは、いばらからは取れないし、いちじくは、あざみから取れるわけがないでしょう。同様に、良い木はみな良い実を結ぶが、悪い木は悪い実を結びます。良い木が悪い実をならせることはできないし、また、悪い木が良い実をならせることもできません。」

 このみことばは、前後の文脈の中では偽預言者の見分けについて教えているところですが、用いられている真理は、「Aという木はAという実を結ぶ。Bという木はBという実を結ぶ。」という単純な真理です。つまり、ぶどうの実はぶどうの木に結ばれるというのです。しかし、もしそのぶどうの実を結ぶはずの枝が、本体である木につながっていなければ、どんなに枝が本物のぶどうの枝であっても、その枝にはぶどうの実は結ばれることはない。何故なら、ぶどうの枝が本体の木につながっていないので、いのちがないからです。それが、今年の私たちのみことばが言っていることです。

ヨハネ15:5:「わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。」

【結論】

 私たちは、以前はぶどうの枝ではありませんでした。しかし、私たちは皆、イエス・キリストを信じたことにより、一瞬のうちに新しく造られた者になり、ぶどうの枝になったのです。そして、豊かに実を結ぶ者になったのです。それは、キリストのうちにあるからです。

 イエス様はマタイ13章で「種まきのたとえ」を話された。そこで教えられているのは、良い地に撒かれた種は豊かに実を結ぶということであり、それは「みことばを聞いて、悟る人のことである。」とあるように、私たちが種として「良い地」=神の御国、神のご支配の中に撒かれるなら、豊かに実を結ぶのであるから、私たちはキリストに在る者として、豊かに実を結ぶ者であるということをしっかりと理解したいと思う。

 私たちは皆、キリスト・イエスに在る者として、ぶどうの木につながっている枝として、豊かに実を結ぶ者、新しく造られた者になったのです。このことをしっかりと覚えたいものです。その意味で、最後にもう一度、今日のみことばを信仰を持って告白しよう。

 

 

:「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」アーメン!

―祈り―

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