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主日礼拝メッセージ:金子辰己雄師

April 14, 2019

【聖書個所】

 マタイ6:12

 

​【タイトル】

​「主の祈り(6)―私たちの罪をお赦しください。―」

【本論】

マタイ6:12:「私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。」

 ここで言う「負いめ」とは罪のこと。(参照:ルカ11:4)そして、その負い目は、(ギ):オフェイレーマタと、複数形で書かれているように、複数の罪のことである。そして、この祈りには、私たちがこの祈りをする時に私たちが覚えておくべき3つの重要なことがある。

(1)先ず、私たちの罪は完全に赦されているということ。

 罪が完全に赦されているのなら、何故このように祈るのか?―それは、「私たちの罪は完全に赦されている」の罪は、ここで複数形で表されている負い目のことではなく、単数形で表される原罪のこと。そして、その原罪のゆえに過去に犯した罪、現在犯している罪、そして未来に犯してしまうかもしれない罪、そのすべての罪を神は赦して下さっているのだということです。

ヘブル9:26b~28:「しかしキリストは、ただ一度、今の世の終わりに、ご自身をいけにえとして罪を取り除くために、来られたのです。そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように、キリストも、多くの人の罪を負うために一度、ご自身をささげられましたが、二度目は、罪を負うためではなく、彼を待ち望んでいる人々の救いのために来られるのです。」

 V26で言う「罪」は、(ギ)ハマルティア、単数形の原罪のこと。V28で言う「罪」は、(ギ)ハマルティアス、複数形の多くの罪のこと。神は御子イエス様により、私たちの原罪と、原罪に基づくすべての罪の赦しを、御自身の一回限りの十字架のみわざによって成し遂げて下さったのです。それが神が為してくださったこと。ハレルヤ!―だから私たちは、「私たちの罪をお赦しください。」と祈るとき、私たちは、私たちの過去、現在、未来のすべての罪はもう完全に赦されているのだということを覚えることが出来るのです。

(2)日々犯す罪の赦しを求めること。

 しかし、私たちのすべての罪の赦しは神の側では完全に成し遂げていても、実際には私たちは罪を犯す。だからこの点においても、神は私たちに罪の赦しを求めることを願っているのです。

ヨハネ13:6~10a:「こうして、イエスはシモン・ペテロのところに来られた。ペテロはイエスに言った。『主よ。あなたが、私の足を洗ってくださるのですか。』イエスは答えて言われた。『わたしがしていることは、今はあなたにはわからないが、あとでわかるようになります。』ペテロはイエスに言った。『決して私の足をお洗いにならないでください。』イエスは答えられた。『もしわたしが洗わなければ、あなたはわたしと何の関係もありません。』シモン・ペテロは言った。『主よ。私の足だけでなく、手も頭も洗ってください。』イエスは彼に言われた。『水浴した者は、足以外は洗う必要がありません。全身きよいのです。』」

 私たちは神から完全な罪の赦しを受けていても、実際には日々の生活で足が汚れるように罪を犯すので、それを赦してもらう必要がある。だから、この祈りは必要なのである。

(3)互いに「赦し・赦された」という赦しの関係の中に生きること。

 イエス様はその後こう言われた。

ヨハネ13:12~15:「イエスは、彼らの足を洗い終わり、上着を着けて、再び席に着いて、彼らに言われた。「わたしがあなたがたに何をしたか、わかりますか。あなたがたはわたしを先生とも主とも呼んでいます。あなたがたがそう言うのはよい。わたしはそのような者だからです。それで、主であり師であるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのですから、あなたがたもまた互いに足を洗い合うべきです。わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするように、わたしはあなたがたに模範を示したのです。」

 神から罪赦された者として、互いに罪の赦しをするように模範を示されたのです。この模範は、天の御国に生きる者としての極意を示すものでもある。イエス様は、主を告白したペテロに、そして私たちに、その極意としての天の御国の鍵を用いることを教えられた。「わたしは、あなたに天の御国のかぎを上げます。何でもあなたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたが地上で解くなら、それは天においても解かれています。」(マタイ16:19)

 この「天の御国の鍵」は、天にある「罪の赦しと解く鍵」でもある。

マタイ18:15~18:「また、もし、あなたの兄弟が罪を犯したなら、行って、ふたりだけのところで責めなさい。もし聞き入れたら、あなたは兄弟を得たのです。もし聞き入れないなら、ほかにひとりかふたりをいっしょに連れて行きなさい。ふたりか三人の証人の口によって、すべての事実が確認されるためです。それでもなお、言うことを聞き入れようとしないなら、教会に告げなさい。教会の言うことさえも聞こうとしないなら、彼を異邦人か取税人のように扱いなさい。まことに、あなたがたに告げます。何でもあなたがたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたがたが地上で解くなら、それは天においても解かれているのです。」

 そしてこの後、イエス様はペテロの『主よ。兄弟が私に対して罪を犯した場合、何度まで赦すべきでしょうか。七度まででしょうか。』の問いに対し、1万タラントの借金を赦されておきながら、仲間の百デナリの借金を赦さなかったしもべを赦さなかった王の譬え話しを通して、私たち原罪を赦された者として、互いの間の罪を赦すことを教えている。(マタイ18:21~35)そして、その互いの間の罪の赦しについて、主の祈りを教えられた後に教えられた。

マタイ6:14~15:「もし人の罪を赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたを赦してくださいます。しかし、人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの罪をお赦しになりません。」

 これは本当に重要な教えです。それは、レビ記の「アザゼルの山羊」で教えられていることでもある。(レビ16:6~22)まさに、天の御国の赦しの鍵=アザゼルの山羊を用いて、互いの間の罪を解き放つのである。これが互いの間の罪の赦しである。だから、もし互いの内に罪の赦しを求める人がいるなら、それを行なおう。ただし注意しなければならないことがある。それは、互いに赦し合うと言っても、「あなたは私にこんな罪を犯しました。でも、聖書は私たちは互いに罪を赦し合わことを求めているので、、私はその罪を赦します。」と言ってはいけない。罪の赦しは、互いの関係において、相手の方からその罪の赦しを求めて来る行動をしない限り、こちらからそのことを指摘したり、明らかにしてはいけない。それをすることが出来るのは神だけだから。

※私たちが互いに出来るのは、互いに自分の罪の赦しを相手に求めることだけです。そして求められたら無条件で赦すことです。何故なら、私たちは無条件で神から赦しを受けているからです。

【結論】

 天の御国に生きるクリスチャンの信仰生活の鍵は、十字架による罪の赦しに生きることです。そして、クリスチャン生活で問題に遭い、どうしたらよいか分からなくなった時は、原点である十字架の恵み=「私たちのすべての罪はもう赦されている。」という原点に立ち返ることです。そして、その上にしっかりと立って歩もことです。そこに罪赦された者の恵みがある。

―祈り―

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